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眼鏡のはずし方.5

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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さて、大変長らくお待たせしております。

あまりお待たせしすぎるのも申し訳ないので、少しづつではありますが連載の続きを進めていきたいと思います。





僕たちが日々の生活の中で、いかに色々な眼鏡を通してものを見ているか。

いかに無自覚のうちに、沢山の暗示に嵌ったままになっているか。

これまでの流れをご覧になっていた多くの皆様には、このことはすでに通じているかと思います。


確かに、自分がかけている眼鏡の存在に気づくのは難しいことです。

先日お話させていただいたとおり、それは、自分が洗脳されていることを認めるのと同じぐらい大変なことですからね。

それでも、人様の様子を観察することで、その「眼鏡」がどういうものか、また、その存在の事実はご理解いただけるかと思います。

自分のクセはなかなか気づけないけど、他人のクセは目に付くでしょ。それと同じこと。


同じものを同じシチュエーションで見ているにも関わらず、その意味が異なっている。あるいは、自分の真意と違う解釈をされてしまうなど、これまでアナタの人生の中で直面してきた通約不可能性の数々は、眼鏡あってこその出来事です。


では、その眼鏡は、(1)いつから、(2)誰が、(3)何のためにかけたのか。


今回はまず、結論からお話します。

自分にストレスや苦悩、誤った世界観をもらたすその眼鏡(観念・思考・思い込み・暗示)は…


(1)物心つく前から、

(2)自分が、

(3)自分を守るためにかけたものです。



これこそが、自分がかかっている暗示を見抜けない最大の理由であり、かつ、人が他人を救えない理由です。

洗脳を施した術者が自分自身であるため、洗脳の暗示内容、また、その解き方を知っているのも、本人だけなんです。

そして、その動機が「自分を守るため」という理由であるが故、仮にその眼鏡の存在に気づいたとしても、なかなかはずそうなどとは思えないんです。

暗示の根が深ければ深いほど、その眼鏡をはずすためには、相当な勇気が必要となります。


で、次回は上記の結論を、さらに噛み砕いてご説明していきたいと思っております。

ヲタのシミに!(←どうやら気に入ったらしい)



←(1)ブログ開設当初から、(2)僕が、(3)アクセス数向上のために付けました。

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ソロデビュー

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改めまして、講演会へ足をお運びいただきました皆様、その節は大変ありがとうございました。

あのような形で、顔を合わせてお話させていただけるのは、本当に嬉しいことです。

まさか自分が講演会をすることになろうとは、ブログ開設当初は考えてもみないことでしたが、こうして回を重ねる毎に、その嬉しさは大きくなっています。

活字だけでは決してお伝えできないニュアンスを、ダイレクトにお話できるライブならではの醍醐味。

また、阿部さんとの掛け合いも、すっかりクセになりそうな楽しさです。


沖縄での「あの世に聞いた、この世の仕組み in 沖縄」に始まり、これまで東京・博多・大阪で開催させていただきました。

そして来月20日には2回目の東京。

さらに、日程は未定ですが、来年は名古屋と仙台へ、阿部さんと二人でお伺いしたいと思っております。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _ )>


そんな中…

先日の博多講演会にお越し頂いた方々からお招きをいただきましてですね、なんと、なんと、なんと!

来る1月9日(土)に、広島にて独演会をさせていただける運びとなりました。

((((((; ̄Д ̄))))))) アワワワワワ・・・

阿部さんのフォロー無しのトークだなんて、ホントに大丈夫なんでしょうか。。。


そんなこんなで緊急告知をさせていただきます。

ヾ( ≧▽≦;)ノ 不安混じりのソロデビュー!

「あの世に聞いた、この世の仕組み in 広島」

日 時 : 2010年1月9日(土)  17:30~20:30(開場17:15)

参加費 : 3,000円

場 所 : 広島市まちづくり市民交流プラザ
      北棟 6階 マルチメディアスタジオ(広島市中区袋町6番36号 )


《お申込み方法》

お名前(フリガナ)、参加人数を明記のうえ、下記アドレスまでメールにてお申し込みください。

anoyonikiitakonoyo@yahoo.co.jp (末尾にスペースが入らないようご注意ください)


運営は、現地の実行委員会の皆様のお世話になっております。

お問い合わせにつきましても、上記メールアドレスの方へよろしくお願いいたします。


おそらくはガッチガチに緊張しているであろうナイーブな黒斎君を、あたたかく迎えてくださる方々のご参加を、心よりお待ちしております。<(_ _;)>



P.S.

年末年始関連の業務が、これでもかという勢いで溜まっております。(TωT)

出来るだけ時間を調整し、更新できるよう努めますので、「眼鏡のはずし方」の続きまで、もうチョットだけお時間をください。

よろしくお願いいたします。


←皆様の支え合ってこその僕でございます。

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ご来場ありがとうございました

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ただいま講演後の打ち上げを終え、ホテルの部屋へと帰ってきました。

本日ご来場いただきました皆様、本当にありがとうございました。

おかげさまで、すっかり燃え尽きております。

また、やってしまいましたね。。。

阿部さんに再三注意されているにも関わらず_| ̄|○

そのせいもあってか、すっかりヘロヘロです(笑)。


阿部さんには少々申し訳ない状態ではありましたが、いっぱいお話できて、僕には至福の時間でした。

皆さんとお会いできて、ほんとに嬉しかったです。

ありがとうございました<(_ _ )>


また、運営のお手伝いをしてくださった皆様、最後はバタバタと慌ただしくなってしまい、きちんとお礼もできず申し訳ありませんでした。

この場を借りて、改めてお礼させていただきます。

ありがとうございました<(_ _ )>


最後に…

阿部さん、またしゃべりすぎてしまいました。

この場を借りて、改めてお詫びさせていただきます。

ごめんなさいぃぃぃ<(_ _;)>



それでは、このまま崩れるようにベッドの海へと潜水させていただきます。

おやすみなさい。

_| ̄|○⇒_|\○_⇒_/\○_⇒____○_zzzZZZ



←どんな滋養強壮剤よりも効くらしいです。
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討論

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さて、最近のコメント欄を拝見しますと「討論」と呼ばれたやり取りが行われているようですので、少々脱線させていただき、今日は討論・ディベートについて僕の考えを綴らせていただきます。

これはあくまで僕の個人的な感想ですけどね、この一連のやり取りは僕の目には「討論」には見えません。

ディベートにも、ディスカッションにもなっていないと思います。


討論・議論を交わすのであれば、それを行う人物が、最低限「コミュニケーション」がなんたるかを理解できていなければなりません。

討論・議論は「意見交換」ですからコミュニケーション能力がなければ成立しません。


「誰が、誰に、何を、どのように伝えているのか」

意見交換というコミュニケーションを行うのであれば、最低限上記の前提が明確になっている必要があると思います。

僕の目には、討論以前のコミュニケーションの基本となるものが確立されているようには映りません。


まず、ディベートの前提を考えてみましょう。

「討論(ディベート)」を調べるとこのようにありました。


*****

ディベート(debate)とは、ある主題について異なる立場に分かれ議論することをいう。

1.公的な主題:公的な主題について行われる

2.意見の対立:異なる立場に分かれて行われる

*****


いまコメント欄で行われているやり取りはどう考えても政治や司法、裁判などといった公的な主題についてのやり取りではないため、どちらかと言えば(2)の「異なる立場に分かれて行われる討論」と考えられるかと思います。

では、この一連の流れが「討論」であるならば、まずはこの「異なる立場」がどのようなものであるかが明らかにされていなければなりません。


さて、「討論」に参加されておられる皆様、皆様はその討論において自分がどのような立場で何を主張しようとしているか、また、討論の相手が、どのような立場で何を主張しようとしているか、そういう前提が分かった上で意見交換をかわしているのでしょうか。

この場において、「異なる立場」がいくつ存在し、誰が、誰と討論されているかを認識できているのでしょうか。

また、ディベートの前提となる「なんの為の意見交換なのか」という主題そのものが明確になっているのでしょうか。

「主題」という共通認識を理解したうえでのやり取りでしょうか。

僕の目には、それら「討論の前提」が不明瞭なままに見えます。


そのような、目的が明確でないやり取り、誰が誰に対して意見しているのかが不明瞭なままのやり取り、自分の発言に責任をもっているようには思えない文章(自分を特定しえるハンドルネームを示さない・ハンドルネームの変更・主語述語が明確でない表現等)、感情的な感想や罵声、そのような言葉のやり取りは「討論」などと呼べるものとは思えません。

どんなに文章の体裁を論理的に整えて見せたとしても、単なる自分本位の主張で終わります。

そのような稚拙なやり取りが引き起こす不毛さについても、僕はすでにお話しています。(一例をあげるならば、2007年03月28日投稿の「視点.3」などです)


さらに続けましょう。

僕は以前、この場を「学びの場として提供する」という旨をお伝えしました。

その事をご理解いただいたうえで「討論」されているならば、それは「アカデミックディベート」という形態をとることとなります。

公的な意見交換や、争いではない、教育という枠組みの中での討論です。

そのような形態で的確に討論が行われているならば、その経験を通じて得られる副次的効果が見られるはずです。


その副次的効果は下記の通りです。(東京法令出版「教室ディベートハンドブック」より抜粋)

 1.問題意識を持つようになる
 2.自分の意見を持つようになる
 3.情報を選択し、整理する能力が身に付く
 4.論理的にものを考えるようになる
 5.相手(他人)の立場に立って考えることができるようになる
 6.幅の広いものの考え方、見方をするようになる
 7.他者の発言を注意深く聞くようになる
 8.話す能力が向上する
 9.相手の発言にすばやく対応する能力が身に付く
10.主体的な行動力が身に付く
11.協調性を養うことができる


これまで、皆さんのやり取りを拝見していましたが、僕はそのやり取りに大きな偏りを感じていました。

上記にあるような、「情報を選択し、整理する能力が身に付く」「相手(他人)の立場に立って考えることができるようになる」「幅の広いものの考え方、見方をするようになる」「他者の発言を注意深く聞くようになる」「協調性を養うことができる」などといった様子が感じられません。

双方共に、意見を「交換」「理解」するつもりなどはなからなく、協調性を養うのとはほど遠い「どれだけ自分の主張を論理的に発表できるか」という技術的な面のみがクローズアップされているように思えるのです。

「何を伝えるか」があったとしても、「どのように伝えるか」という配慮が欠落しているように見えます。


これも、いままでなんども申し上げてきたことです。

僕たちが共に生きていくためには「Do(なにをするか)」よりも「Be(どのようにあるか)」が重要なのだと。


今回の流れにおいて、僕と同じように感じられている方も多いと思います。

そのやり取りを見ることを通して、「どんなに発言内容が論理的体裁を整えていたとしても、それと品位はイコールで結ぶことはできない」という事実を見抜いた方も多いと思います。


文法が間違っていようと、単語の扱い方に不適切なものがあろうと、何かを証明する技術が低かろうと、協調性や思いやり・優しさをもってコミュニケーションをとれば、よりよい関係を築くことは可能です。

むしろ、思いやりや優しさがないところに論理性を持ち込んでも、コミュニケーションは深まらないと思います。

論理性を鍛えようとすることや、より多くの情報を集めることより、優しくあろう、平和であろうと生きる方が、ずっと大切なことだと思います。


「討論」が「討論」であるならば、その最終目的は「相互理解」であるはずです。

元から「理解」するつもりがない者、また、そのような姿勢を示さない者には、「討論」はできないんです。

そこでしているのは、お互いが自分の持つ論理性を披露しあっているだけの「発表会」です。

「会話」ではなく「スピーチ」です。

これも以前仏教をご紹介したときにお話しています。(2008年08月27日投稿「ダイアローグ」をご参照ください)


ここで、僕の本棚の中からある一文をご紹介します。

白取 春彦著「頭がよくなる思考術」より


*****

『やさしさを持て』

レイモンド・チャンドラーはハードボイルド小説のなかで「やさしくなければ生きていく資格がない」と書いたが、本当に知性のある人は性格的にやさしいものである。

というのも、知性の土台をつくる「読書」と「人の話を聞く」という行為は、やさしさと反する性質があってはできないからだ。

娯楽用に書かれた本ではなく、まとまった主張や思想を書いた本は性格のきつい人間のようなものだ。

読むとは、そういう人間とつきあうということと同じだ。
しかも、とりあえず受け入れなければ相手を理解できない。
それは、自分にやさしさ、寛容さがなければ、できないのだ。

だから、わたしは本を読まないでいる人間に恐ろしさを感じる。
彼らが他人を理解しているということをいぶかしんでしまう。

彼らが理解できるのは損得や利害、数字だけなのではないかとさえ疑っている。
しかし、そういう彼らにしても、自分の価値観をそっくり棚上げして異質の本を読むならば、やさしさのかけらを獲得できるだろう。

それがいくつかでも積み重なれば、人間性が変わっていくのは確かである。

*****



そこに「やさしさ」がなければ、「討論」にはなり得ない。


僕は、そう思っています。



←やさしさ溢れるアナタが大好きです

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ごめんなさい

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(-公-;)


「忙しさを言い訳にせず、頑張って更新する」とは言ったもの、やっぱり出来ないものは出来ないという事態に直面しております。


来週頭には大阪行きも控えておりますゆえ、今は仕事を優先させてください。


ご理解のほど、よろしくお願いいたします。<(_ _;)>



P.S.

このまま仕事に戻るのも忍びないので、ちょっと流れから外れた短めのお話を。

先日コメント欄にて「真理を数式で表したらどうなるか」って話題がちょろっとでてましたよね。

で、面白そうだったので僕なりに考えてみました。


求める解、「真理」をXとして…




















X=0


以上。



この「X=0」がね、人によって違うものに見えてるだけだと思うんです。

Aさんには「X=1565464+45121546-46687010」に見えてたり、

またBさんには「X=(5684-4548+65848×86÷875876-8464)×0」に見えてたり。

どんなに複雑に展開されて見えてても、パッと見の感じが違っても、結局解いてみれば「=0」ってシンプルな答えに行き着いちゃうような。


単にそういうことだと思うんですよ。



←ご理解のほど、よろしくお願いいたします。<(_ _;)>

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