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預流向・預流果

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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さて、それではさっそく悟りの階梯を、順を追ってみていきましょう。

前回、解脱までの道のりは、4つの「向(目標)」と4つの「果(到達)」の合わせて8段階、というお話をしました。

・預流向(よるこう)
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・預流果(よるか)
・一来向(いちらいこう)
・一来果(いちらいか)
・不還向(ふげんこう)
・不還果(ふげんか)
・阿羅漢向(あらかんこう)
・阿羅漢果(あらかんか)

前回は足し算的に「8段階」と説明してしまいましたが、「階梯(段階・レベル)」という意味で厳密に捉え直すと「4段階+1(預流向)」です。

と、申しますのも、一つでも「果(到達)」に辿り着くと、そこに次なる目標(向)が必然的についてくるからです。

【悟りの4段階+1】

準備段階:「預流向(よるこう)」
第一段階:「預流果(よるか)」と「一来向(いちらいこう)」のワンセット
第二段階:「一来果(いちらいか)」と「不還向(ふげんこう)」のワンセット
第三段階:「不還果(ふげんか)」と「阿羅漢向(あらかんこう)」のワンセット
最終段階:「阿羅漢果(あらかんか)」

という具合。

『悟り』とは、「預流果」を皮切りに、煩悩が順に消えていき、煩悩が消えた分だけ智慧(真理を見極める認識力)が現れていく現象のことを言います。

ですから、一口に「悟り」と言っても、そのレベルは人によって大きく異なります。

預流果、一来果、不還果と順に一つずつ段階を進み、阿羅漢果で完成します。


『自分を苦しめている諸悪の根源は、己の持つ煩悩。それ以外の理由はない。』

このことをハッキリと理解し、「よし、煩悩を消して、真理を見極めよう。」と、シッカリと真理に向かう姿勢のことを「預流向(よるこう)」と言います。

ちなみに「預流(よる)」とは、「完全な悟り(阿羅漢果)へ向かう聖なるれに身をける」という意味だそうです。

その目標に向かうから「預流向」。

ここでは、まだ悟りを目指しているだけの状態ですので、まだ「悟り」とは言えません。(そういう意味も込めて、「預流向」と「預流果」の間に線を入れさせていただきました。)


では、その一線を越え、「預流果」を迎えるとどうなるのでしょうか。


以前、煩悩は数え切れないほどある、というお話をさせていただきました。

大きく分けると「貪欲(欲)」・「瞋恚(怒り)」・「愚痴(無知)」の3種類。

それに「慢(傲慢)」・「見(邪見)」・「疑(疑い)」を加えて『六大煩悩』。

それらを細分化していくと、有名な「108」に、それをさらに細分化すると数千、数万とキリがなくなっていきます。

その膨大な数の煩悩の中から、「預流果」で消える煩悩は…

1.有身見(うしんけん)

2.疑(ぎ)

3.戒禁取(かいごんじゅ)







え? それだけ?



はい。それだけです。

膨大な数の煩悩のうち、たった3つだけなんです。

無くなった煩悩はたった3つだけですから、まだまだ悩みも苦しみも膨大に残っています。

怒りもするし、泣きもするし、ヘマもしますし、凹みもします。

ですが、たった3つとはいえ、悟りを決定づける大切な3つです。


では、その3つを順に見ていきましょう。


1.有身見(うしんけん)

この煩悩は、「貪欲(欲)」でも「瞋恚(怒り)」でもありません。「愚痴(無知)」「見(邪見)」のカテゴリーに属する煩悩です。

これまで色々な形でお話してきた『「私」という独立した存在がある。』という錯覚のことを指す煩悩です。

ほんの一瞬でも、「無常」「無我」を知識としてではなく、体験として納得した時、「有身見」という邪見(因果の道理を無視する誤った考え方)は消え、「ああ、実際には“私”は実在しないんだ!」という理解と共に「無常・無我」という智慧が現れるんです。

そして、「有身見」が無くなると同時に、必然的に無くなる煩悩が2つあります。

それが「疑」と「戒禁取」です。この2つも「有身見」と同じく「愚痴(無知)」のカテゴリーの煩悩です。


2.疑(ぎ)

読んで字の如く「疑い」を意味します。

「疑」という煩悩が無くなるということは、「真理(諸行無常・諸法無我・因縁等)に対しての疑いが無くなる。」という意味です。

「有身見」が無くなったことによって、一瞬でも真理を「体験」しているため、当然それに対しての疑いがなくなります。

先日の「アハ体験」の例で言えば、「ああ!ホントにイエスが描かれていたんだ!」と納得できると、「アハ体験」以前にあった、「え~?こんなワケのわからない模様の中に、何が見えるって言うの?」という疑いは、絵が見えたと同時に消え去ります。

そんなニュアンスで捉えてください。


3.戒禁取(かいごんじゅ)

「戒禁取」は、しきたりや作法・儀式、無意味な修行や苦行等に対してこだわりをもってしまう煩悩(無知)のコトです。

槍のチンコ巻きとかは、まぁ、普段見ることはないにせよ、世の中には、ありがたい宗教的意義がありそうな修行や奇行が沢山あります。

ここ日本でも多く見受けられる「お祭り」や「火渡り」、「滝行」なんかも、この中に含まれます。

線香を何本立てろとか、戒名をどうしろこうしろとか、神社参拝やお墓参りの際は手を何回叩けとか、○○を供えろとか、日々「○○○○○」と唱えろとか、数珠は右手で持て、いや、左手だとか、そう言った「しきたり」や「儀式」にこだわるのも「戒禁取」です。

宗教的なコトだけではなく、事故に遭わないよう、家を出る時は靴は右足から履くとか、試合前にはユニフォームは右袖から着るとか、そういう、いわゆる「ジンクス」なども「戒禁取」です。

真理に触れるという経験をほんの一瞬でもすると、そういったあれこれは、エゴ(自我)が作った勝手な決まり事、文化以上の意味があるわけではないとわかるので、そういったものにこだわったり、ありがたがる気持ちがなくなります。


もちろん、それらの文化にも伝統や出来上がった背景などがありますから、無理に壊したり、蔑ろにするのも考え物です。

文化は、あくまで文化。ですから、人様に迷惑を掛けないのであれば、何をしていても自由です。

「ここではそういう決まりだ」と言われるのなら、それに従う方がいい。そこから余計な“いざこざ”は生まれません。

ですが、「私の行っている、この儀式こそが唯一の真実。こうでなければならない。」とそこにこだわりが生まれているなら「戒禁取」です。

そういうことにこだわる人、またこだわりを強要する人は、真理という自由さの中で生きているのではなく、自我が作ったルール・習慣に縛られ、自らの意思で不自由を選択した人です。



さて、「預流果」によって消える煩悩は上記の3つのみです。

ですから、いくら「煩悩が消えた」と言っても、数ある煩悩のうち、「無知」に関する基本的な3つだけですので、まだまだ欲深な気質も、何かとカリカリイライラするような怒りっぽい性格もそのまま残っているんです。

とはいえ、「諸行無常(全ては変わり続ける)」「諸法無我(実際には“私”は実在しない)」というコトが理解できていますから、一種「諦め」に似た気持ちが生まれ、それまであった「執着」は、徐々に力を弱めていきます。


この「預流果」。

実は、特別な何かを行わなくても、到達できることがあります。

修行も瞑想も不要です。


ある日突然不意に訪れる様なこともありますし、しっかりとした指導者の説法によって迎えることも可能です。


最初の準備段階、「預流向」をすっ飛ばして、いきなり「ガツン!」と来ることもあるんです。

ただ…

何の予備知識も無いままに迎えてしまうと、結構うろたえてしまいますし、僕と同じように「預流向」をすっ飛ばして経験する場合には、ある独特な条件が必要な様です。

その独特な条件とは…

「絶望(地獄を見る)」という経験です。


まぁ、手っ取り早いと言えば手っ取り早いんですが、あまりにも痛すぎるし、リスクが高いので、この方法はオススメできません。

きちんと、順序を守って「預流向」から入られることをオススメいたします。



←こんなマニアックな話でも、ついてこられますか?(最近難し過ぎると妻からダメだしを食らってます。)

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