いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
一来果
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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さて、それでは次なるステップ「一来果(いちらいか)」へ向けてお話を続けていきましょう。
「預流果」までは、何かを切っ掛けとした偶然や説法など、いわゆる「外的要因」によって迎えることも可能でしたが、ここから先は「自力」でしか進めません。
日々の精進(一来向)と瞑想修行が必要になります。(「必要となります」とは言っても、義務でも強制でもありません。ごく自然に、そういう姿勢になっていきます。)
また、「瞑想修行」と聞くとどこか仰々しいですが、あまり難しくは考えないでください。
「ゆっくりと、心をなだめてあげる。」まずは、そのぐらいの気持ちで捉えていただければいいかと思います。
欲や怒り、妄想など、日々自分の心を掻き乱しているあれこれを静め、精神状態がスーっと落ち着いてくると、徐々に思考が明晰になり、智慧(真理を見極める認識力)が現れてくるのを感じることが出来ます。
その心の落ち着きが、ある一定のラインまで静まると、もう一度あの時の「無我(私がいない)」という瞬間が訪れます。
2度目の内的体験。それによって真理に対する確信が、よりいっそう高まります。
「ああ、やっぱり! あの気付きは、間違いでも、勘違いでも、気のせいでもなかった!」
これを「一来果」と言います。
さて、前段階の「預流果」では、「有身見・疑・戒禁取」の3つの煩悩が消えました。
「一来果」を迎えると、どうなるのでしょうか。
「貪欲(欲)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」の『三毒(三大煩悩)』、それらが弱くなります。
…
…
…
「え?」
…
いえ、ですから、「欲・怒り・無知」が弱まります。
…
「何かの煩悩が消えるのではなく、弱まるだけ?」
…
はい。それだけ…ですが、なにか?
…
「地味…ですね。」
…
ええ。地味ですね。
地味ですが、何かを死に物狂いで追いかけることもなく、誰かや何かに必死にしがみつくこともなく、執拗に怒り続けることもなく、しつこく悲しみ続けることもなく、思考がクリアで何事にも要領よく対応できる様になっているので、以前と比べると、格段に幸せになっています。
自分の「あり方」がハッキリしているので、誰かや何かに流されることも減っていきます。
物事の因果関係を明確に捉えられるようになっていくので、物事がスムーズに進むようになり、強く望まなくとも、希望は自然と叶っていきます。
穏やかに、朗らかでいられるようになります。
煩悩が薄れれば薄れるほど、自由になっていくことを実感しているので、自ずと修行も進みます。
…
「あぁ。そう言われると、なんだか幸せそうでいいですね。」
でしょ?
でも、そうとはいえ、やっぱり「修行段階」であることには間違いありません。
ですから、この段階で死んでしまったとしたら…
「死んでしまったとしたら!?」
もう一度、人間界に生まれてくることが確定します。
「どうしてですか?」
まだ完全に悟っているわけではないですし、この上の段階「不還果(ふげんか)」の様に梵天界へ遊びに行くこともできません。
完全な悟りのために、もう一度「再挑戦」しなければならないんです。
そのためにもう一度だけ輪廻しなければならないのですが、人間界より下の世界は、修行の必要性を感じない愚かな世界ですし、天界は「楽」を感受するだけの世界ですから修行にはなりません。
ですから、その修行のためには、人間界が必要なんです。
もう一度だけ、人間界に来る必要があるので「一来果」と言います。
←地味な作業にご協力お願いします。
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さて、それでは次なるステップ「一来果(いちらいか)」へ向けてお話を続けていきましょう。
「預流果」までは、何かを切っ掛けとした偶然や説法など、いわゆる「外的要因」によって迎えることも可能でしたが、ここから先は「自力」でしか進めません。
日々の精進(一来向)と瞑想修行が必要になります。(「必要となります」とは言っても、義務でも強制でもありません。ごく自然に、そういう姿勢になっていきます。)
また、「瞑想修行」と聞くとどこか仰々しいですが、あまり難しくは考えないでください。
「ゆっくりと、心をなだめてあげる。」まずは、そのぐらいの気持ちで捉えていただければいいかと思います。
欲や怒り、妄想など、日々自分の心を掻き乱しているあれこれを静め、精神状態がスーっと落ち着いてくると、徐々に思考が明晰になり、智慧(真理を見極める認識力)が現れてくるのを感じることが出来ます。
その心の落ち着きが、ある一定のラインまで静まると、もう一度あの時の「無我(私がいない)」という瞬間が訪れます。
2度目の内的体験。それによって真理に対する確信が、よりいっそう高まります。
「ああ、やっぱり! あの気付きは、間違いでも、勘違いでも、気のせいでもなかった!」
これを「一来果」と言います。
さて、前段階の「預流果」では、「有身見・疑・戒禁取」の3つの煩悩が消えました。
「一来果」を迎えると、どうなるのでしょうか。
「貪欲(欲)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」の『三毒(三大煩悩)』、それらが弱くなります。
…
…
…
「え?」
…
いえ、ですから、「欲・怒り・無知」が弱まります。
…
「何かの煩悩が消えるのではなく、弱まるだけ?」
…
はい。それだけ…ですが、なにか?
…
「地味…ですね。」
…
ええ。地味ですね。
地味ですが、何かを死に物狂いで追いかけることもなく、誰かや何かに必死にしがみつくこともなく、執拗に怒り続けることもなく、しつこく悲しみ続けることもなく、思考がクリアで何事にも要領よく対応できる様になっているので、以前と比べると、格段に幸せになっています。
自分の「あり方」がハッキリしているので、誰かや何かに流されることも減っていきます。
物事の因果関係を明確に捉えられるようになっていくので、物事がスムーズに進むようになり、強く望まなくとも、希望は自然と叶っていきます。
穏やかに、朗らかでいられるようになります。
煩悩が薄れれば薄れるほど、自由になっていくことを実感しているので、自ずと修行も進みます。
…
「あぁ。そう言われると、なんだか幸せそうでいいですね。」
でしょ?
でも、そうとはいえ、やっぱり「修行段階」であることには間違いありません。
ですから、この段階で死んでしまったとしたら…
「死んでしまったとしたら!?」
もう一度、人間界に生まれてくることが確定します。
「どうしてですか?」
まだ完全に悟っているわけではないですし、この上の段階「不還果(ふげんか)」の様に梵天界へ遊びに行くこともできません。
完全な悟りのために、もう一度「再挑戦」しなければならないんです。
そのためにもう一度だけ輪廻しなければならないのですが、人間界より下の世界は、修行の必要性を感じない愚かな世界ですし、天界は「楽」を感受するだけの世界ですから修行にはなりません。
ですから、その修行のためには、人間界が必要なんです。
もう一度だけ、人間界に来る必要があるので「一来果」と言います。
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