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一来果

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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さて、それでは次なるステップ「一来果(いちらいか)」へ向けてお話を続けていきましょう。

「預流果」までは、何かを切っ掛けとした偶然や説法など、いわゆる「外的要因」によって迎えることも可能でしたが、ここから先は「自力」でしか進めません。

日々の精進(一来向)と瞑想修行が必要になります。(「必要となります」とは言っても、義務でも強制でもありません。ごく自然に、そういう姿勢になっていきます。)

また、「瞑想修行」と聞くとどこか仰々しいですが、あまり難しくは考えないでください。

「ゆっくりと、心をなだめてあげる。」まずは、そのぐらいの気持ちで捉えていただければいいかと思います。


欲や怒り、妄想など、日々自分の心を掻き乱しているあれこれを静め、精神状態がスーっと落ち着いてくると、徐々に思考が明晰になり、智慧(真理を見極める認識力)が現れてくるのを感じることが出来ます。

その心の落ち着きが、ある一定のラインまで静まると、もう一度あの時の「無我(私がいない)」という瞬間が訪れます。

2度目の内的体験。それによって真理に対する確信が、よりいっそう高まります。

「ああ、やっぱり! あの気付きは、間違いでも、勘違いでも、気のせいでもなかった!」

これを「一来果」と言います。


さて、前段階の「預流果」では、「有身見・疑・戒禁取」の3つの煩悩が消えました。

「一来果」を迎えると、どうなるのでしょうか。


「貪欲(欲)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」の『三毒(三大煩悩)』、それらが弱くなります。







「え?」



いえ、ですから、「欲・怒り・無知」が弱まります。



「何かの煩悩が消えるのではなく、弱まるだけ?」



はい。それだけ…ですが、なにか?



「地味…ですね。」



ええ。地味ですね。

地味ですが、何かを死に物狂いで追いかけることもなく、誰かや何かに必死にしがみつくこともなく、執拗に怒り続けることもなく、しつこく悲しみ続けることもなく、思考がクリアで何事にも要領よく対応できる様になっているので、以前と比べると、格段に幸せになっています。

自分の「あり方」がハッキリしているので、誰かや何かに流されることも減っていきます。

物事の因果関係を明確に捉えられるようになっていくので、物事がスムーズに進むようになり、強く望まなくとも、希望は自然と叶っていきます。

穏やかに、朗らかでいられるようになります。

煩悩が薄れれば薄れるほど、自由になっていくことを実感しているので、自ずと修行も進みます。



「あぁ。そう言われると、なんだか幸せそうでいいですね。」


でしょ?

でも、そうとはいえ、やっぱり「修行段階」であることには間違いありません。

ですから、この段階で死んでしまったとしたら…


「死んでしまったとしたら!?」


もう一度、人間界に生まれてくることが確定します。


「どうしてですか?」


まだ完全に悟っているわけではないですし、この上の段階「不還果(ふげんか)」の様に梵天界へ遊びに行くこともできません。

完全な悟りのために、もう一度「再挑戦」しなければならないんです。

そのためにもう一度だけ輪廻しなければならないのですが、人間界より下の世界は、修行の必要性を感じない愚かな世界ですし、天界は「楽」を感受するだけの世界ですから修行にはなりません。

ですから、その修行のためには、人間界が必要なんです。

もう度だけ、人間界にる必要があるので「一来果」と言います。



←地味な作業にご協力お願いします。

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