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座禅和讃

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※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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【白隠禅師座禅和讃】

衆生本来仏なり
水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり



【ゆるゆる現代語訳(阿部敏郎チック座禅和讃)】

ホントはみんな、最初っから仏なんだよね。

それはさ、例えるなら水と氷の関係みたいなもん。

水がなきゃ氷ができないでしょ?

水と氷。結局その差は、溶けてるか凍ってるかっていう「状態の違い」だけなんだよね。

それと同じようなもの。

仏が水なら、僕たちは氷。

つまり、仏も僕たちも、結局は同じものってことさ。

それなのに僕らときたら、その事実を知らないまま、「仏にはどこに行けば会えるんだ?」って、あちこち探し回ってるんだ。

な、馬鹿馬鹿しいだろ?

それじゃあまるで、水の中に入りながら「水くれ!喉が渇いた!」って叫んでるようなものさ。

せっかく裕福な家の子として生まれついたのに、わざわざ貧しい里を彷徨い歩いてるようなもんだよ。

いいかい? そうやっていつまでも迷いの世界から抜け出せないのは、ひとえに「僕たちは本来ひとつの同じもの」ってことを見失っているからなんだ。

ワタワタ・オロオロしたところで問題は解決されないし、深刻な表情を浮かべててもしょうがない。

そんなんじゃ、いつまで経っても救われやしないよ。


「じゃ、どうすればいいんだよ」って?

うん。それにはまず、具体的な行動を起こす前に、一度リラックスすることが大事なんじゃないかな。

「そんな余裕ぶっこいてる場合じゃねぇ!」って?

でもさ、そんなに慌てたままでいても、結局問題解決できずにさ、むしろミス連発しちゃいそうじゃない?

落ち着かないまま「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」って騒ぎ立てても、混乱が大混乱になるだけさ。

だから、ね。大きく一つ深呼吸。肩の力を抜いて……ほらほら、その眉間の皺もゆるめなきゃ。

まずは一度落ち着こう。気持ちを静めて、ゆったりと寛ぐ。

でね、そのくつろぎの先にあるのが、俗に言う「瞑想」っていう状態だよ。

そうそう。瞑想は行為でも手段でもない。リラックスして、心が静まりきっているその「状態」のことなんだ。

ん?

ああ、そうだね。確かに君が言うとおり、本屋の精神世界コーナーにでもいけば、沢山の具体的なメソッドに出会えるだろう。

「これをすべし、あれはすべからず」っていう人生哲学や成功哲学も沢山あるだろうし、「線香は何本立てろ」とか「お月様に向かってお財布ヒラヒラさせなさい」なんて言う“まじない”もあるでしょう。

○○ヒーリングや○○クレンジングってのも沢山あるし、「『ありがとう』だけじゃ足りない、『ごめんなさい』と『愛してます』があった方がいいんだ」なんていう人もいるでしょう。

「君のここが悪いんだ」って指摘して、その改善のため、あれをしてみなさい、これをしてみなさいって色々な修行法や改善策を示してくれる本も沢山みつかるでしょう。

でもね、それらも結局、君が落ち着いていないことには何の役にも立ちはしないんだよ。

その本を読んだとしても、表層的な言葉ばかりを捉えて早とちりし、著者の思惑と違う解釈をしてしまいかねない。

人はどうしたって、自分の受け取りたいようにしか受け取れないからね。

だからね、まずはリラックス。何をするにせよ、結局はそこに帰るんだ。

一日のほんのひとときでいい。

心を落ち着けて、静かに座ることができたら、迷いや不安、高ぶった感情なんかも自然に消えていくよ。

「一大事だ!」って大騒ぎしていた人でも、いざ冷静になったら、「あれ?なんでこんなことで怒ったり、慌てふためいていたんだろ?」ってなったりするもんなんだ。

目の前にあるものを「どう解釈したか」がその人の「現実」として現れるわけだから、結局のところは「悪い出来事」ってのはどこにもないんだよ。

え?なに?

「そんなこと言ったって、彼のしたことは、私じゃなくたって許せないに決まってるわよ」って?

いや、だからさ。それは色々できる解釈の中の、一側面でしかないんだよ。

物事自体には、本来意味も価値もない。それらを与えているのは僕たち自身。もっと言えば、僕たちの「思考」なんだから。

そりゃ確かに彼のしたことに腹を立てることもできるよ。

でもさ、もう一方では、「君の心の奥底に眠っていた、未消化だったコンプレックスや感情、蟠り(わだかまり)なんかを思い出させてくれる切っ掛けを与えてくれた出来事」として捉えることも出来るんだ。

え? 「そんなこと思い出したくなかった」って?

でもさ、そうだとしたら、そのことは、ずっと君の心の奥底に残り続けるだけだからね。そのままにしていても決してなくなりはしない。ただ心に残り続けるだけだから、結局はそのうち何かの拍子で出てくることになるんだ。

それを引き出してくれたのが、たまたま彼だったってことだけさ。

いいかい? ホントの幸せってのはさ、遠くにあるんじゃないんだよ。「いまここ」にあるんだ。

ああ。ホントだよ。

たとえば今の話で言うとね、「彼がちゃんと詫びたら、私だって幸せな気持ちを取り戻せるわ」って言うなら、君の幸せは「彼の態度次第」ということになってしまう。

でもさ、幸せに対しての主導権をもっているのは、本当は君なんだ。

君が「いまここ」で、彼を赦すことができたなら、「いいわ、彼が謝ろうと、謝るまいと、私は幸せよ」って、「いまここ」で幸せになることが出来るだろ?

君は、今すぐに実現できる幸せよりも、腹を立てて嫌な気持ちで居続けることを選ぶの?

なに?それでも赦せない?

いや、そりゃ僕はそれでも構わないけどさ、それで嫌な思いをし続けるのは他でもない、君自身だからね。

でも、これだけは覚えておいてよ。

いま僕が話したことを聞き入れてくれたとしたら、必ず幸せになれるって。


そして、そのことを実体験を通して繰り返し経験することができたら、その幸せは徐々に本物になっていく。

つかのまの幸せではなく、君の中に永続的な至福をもたらしてくれるよ。

迷いや不安、未消化の感情たちを徐々に解放していった先には、「アタマだけでの理解」じゃなく、本当の意味で仏と一体となる事が出来るんだ。

僕たちの蟠りがほどけるほどに、氷は溶けて水になっていくのさ。

「本当の幸せ」を得る道は、そこにしかない。

事物そのものには、意味も価値もない。あるがままの姿は、すべて中立な存在としてそこにあるんだ。

幸せを探して行く道も、帰る道もない。それはいつだって「いまここ」にある。

いま君の心に残っている、その蟠りがほどけたら、何をするにも、最高のパフォーマンスを発揮出来るようになっているよ。

あらゆるこだわりや思い込みから離れた心は、あの大空のように果てしなく広がって、そこには月の輝きのように「さとり」という光が現れる。

そうなったらもう、「求めるもの」なんて、何一つないよね。

僕たちの心に静寂があれば、そこがすでに「究極の幸せ」だし、この身がそのまま仏なんだよ。




【トークライブ・インフォメーション】


札幌では2度目のソロライブ。
いよいよ来週です!

◎11月23日(水・祝) 札幌ソロライブ
 ※携帯からお申し込みの方は【こちら】

◎12月3日(土)阿雲の呼吸 in 東京(Thank you! Sold out!)
◎12月4日(日)阿雲の呼吸 in 大阪


第一部『EGO~偽の自分のメカニズム~』
第二部『他言無用の禁断トーク』

共に、お申し込みは、阿部さんのブログ「いまここ」からお願い致します。


←みんながちゃんと押してくれたら、僕だって幸せな気持ちを取り戻せるのに。(←黒斎くんに座禅和讃を教えてあげてください)
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苦諦

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いやいや、久々に凄いコメント数ですね。

先ほどザッと拝読しておりましたら、「このコメント欄のありさまを、黒斎さんはどう思っているのだろう」といった様な書き込みもございましたが、ごめんなさい。

コメント欄の喧噪も知ることもなく、連休中は家族と共にキャンプ場でゆっくりと寛いでおりました。

そんなこんなで、ただいま虫さされによる体中の痒みに悶絶しております。

小生、体中に乳首が増殖したかのようなセクシーな状態になっておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。


さて、それはさておき、「苦しみ」のお話を続けてみようと思います。

これまでコメント欄でご指摘いただいていたように、一言で「苦」と言っても、色んな「苦」がありますよね。

肉体的な苦しみと精神的な苦しみは、やっぱり「同じ」とは言いづらい。

そこら辺のことを、「苦しみ研究」の第一人者であるお釈迦様は、このように解説しました。

『苦って言うのはね、色々あるんですよ』と。


実は以前も仏教テーマの時にお話したことのあるものなんですが、今日はまた別な言い方に書き換えてお話してみたいと思います。

まず、お釈迦様の話の前提は、初転法輪経に出てくる『苦諦(くたい)』からスタートします。

これは、「苦であることが真理である」というお話です。

お釈迦さまは「苦」という言葉で「この世の真実」を表現しましたが、この「苦」、元は「ドゥッカ(duHkha)」というサンスクリット語から来ています。

「ドゥッカ」の「ドゥ(duH)」は、「悪い」を、「カ(kha)」は「状態」を表すそうです。

それをつなげて「悪い状態」の意。

ですので、「苦」とはいえ、その意味は僕たちが普段使っている「苦」とは、ちょっとニュアンスが異なるそうです。

「苦しい」というニュアンスの他にも「空しい」、「不満」、「不安定」などといった意味合いも含まれるそうなので、最近の僕たちの感覚では『ストレス(ひずみの生じた状態)』といったニュアンスの方が近いのかもしれません。

なので、この『苦諦』を、ぐっと現代風に訳すと『人生とは、ストレスである』といった感じでしょうか。


で、お釈迦様はまずこのストレスを、2つに分けて解説しました。

それが『二苦』。

1つは「精神的・肉体的に自分自身の内的な要因をもとに現れるストレス」(内苦)。

もう1つは、「自然災害や他人からの迫害など、外的な要因によってもたらされるストレス」(外苦)。

これを、僕の状況(虫さされ)で例えるなら、「虫に刺された」というのは外からの要因で「外苦」。これから「ちっ、こんなことならキャンプなんて行かなきゃよかった!」などというふうに不満を募らせたとしたら、内側からの要因なので「内苦」。

でも、仏教の中心となる教えは、「たとえ外的な要因であっても、それを内に感じていくところに苦があるんだからさ」という感じです。


で、お釈迦様の解説はさらに進み、今度は「ストレス」を3つに分類します。

『三苦』と呼ばれるのですが、その中身は「苦苦(くく)」「壊苦(えく)」「行苦(ぎょうく)」の3つ。

と、いうことで、次回はこの『三苦』のお話をしてみたいと思います。



←要因をどう解釈するかによって内苦は変わります
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阿羅漢向・阿羅漢果

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さて、それでは最後「阿羅漢向(あらかんこう)・阿羅漢果(あらかんか)」のお話をして、とりあえずこのシリーズを終えたいと思います。


「阿羅漢果」の一つ手前、「不還果」では欲界への執着が消えました。それゆえ、死後は欲界(六道)のどこにも生まれ変わりません。

地獄界・餓鬼界・畜生界はもとより人間界・天界にすら輪廻しません。「欲界」に帰ることがなくなるので「不還(ふげん)」と呼ばれています。

不還果を達成した際「圧倒的な禅定」を体験し、梵天界の素晴らしさを経験しましたが、凡夫のそれとは異なり、「この素晴らしさもまた無常」という理解がありますので、凡夫のように梵天界への執着が強いわけではありません。

むしろ、(梵天界とはいえ、そこに輪廻が続くことを理解しているがゆえ)梵天界への執着も「欲」と捉え、それすらも滅することに興味が向きます。その状態が「阿羅漢向」です。

そしていよいよ煩悩という煩悩全てが消えると「阿羅漢果(悟りの最高到達点)」となります。

本当の意味での「悟り」。「仏陀」つまり「目覚めた者」の完成です。

「仏陀」と「阿羅漢」は同じレベルの事を指しますが、はじめて自力でこの境地に辿り着いたお釈迦様に敬意を表し、「仏陀」はお釈迦様に対して使うものとされ、後続の者は「阿羅漢」と呼ばれています。


ここまでくると、もはや人間の能力を大きく超えた「智慧の塊」です。

それまで「智慧(目覚め)」の働きを邪魔していた「煩悩(眠気)」がキレイさっぱりなくなっているので、本来備わっているパフォーマンス能力が全開になっています。

「自己」がなく「行為」だけが残る存在となっており、カルマは完全に清算され、善行為も、ただ行うだけです。

全ての煩悩が消えているので、「アレがしたい、これがし足りない」とか「どこかに生まれ変わりたい」とか、そう言ったもの全てがありません。

全ての作為・動機がないので、梵天界へ向かった不還果者同様、死後はフッと消えるだけです。

昨日のコメント欄では、ken2さんから「どこにも輪廻せずに、そのまま消えてしまうというのは、消滅してお終いということではないですよね。」というご質問を頂いておりましたが、僕にはわかりません。

ただ、本当に名のある原始仏教の長老さんたちや、阿羅漢と呼ばれる方々が「消えるものは消える。本当の滅が一瞬あって、その後は滅すらもない。ないものはないのだからそれ以上何も言えない。」と説明しています。

僕にはまだ、その言葉の意味がわかりません。

ken2さんは続いてこのようなご質問をされました。

「人間としての修行が終わり、神の領域または、別次元の領域にステップアップするとかそういう事ですよね?」

これに対しては、勿論僕なりの思い、考えはあります。

ですが、ここでそれを語るのは止めておきます。

その理由は、語っても意味がないからです。

「神」という単語は取扱が非常に困難な言葉です。

なぜなら、人によって「神」の意味・定義があまりにもバラバラだから。

100人いたら、100人分の「神」の定義があるんです。

定義の違うモノをいくら語ったところで、話にはなりません。

ですから、「阿羅漢は、神々の領域を超えた次元」とも説明する人もいるでしょうし、「いや、その領域をさらに超える次元があるのだ、それこそが本当の神の次元」と説明する人もいるでしょう。

「神」の本当の意味を知らない者同士が、いくら「神」を語っても不毛なんです。

その不毛さを理解せず、あれやこれやと知ったことのように語るから、話がややこしくなるんです。


もう一つ。

本当は、人間には「神」を語ることはできません。

「神」は、そもそも「定義」できるようなものではないはずですから。

「これこれこういうものを“神”としよう」としたところで、それは「これこれこういうもの」に対して、人間が勝手に「神」と名札を付けただけであって、本当の「神」を語ることにはなりません。結局「これこれこういうもの」について語っているだけです。

まして、「自己」や「個」という幻想・妄想から抜け、「自分」という概念がなくなった存在、そのまた先の次元にある存在が、「私こそが○○という名の神である」なんて自己紹介してるなんてこと、あるわけないじゃないですか。

「個性のある神」って、なんじゃそりゃ?ってなるでそ。

「個」という特性がないからこその「神」でしょうが。


あ。また脱線しちゃった。。。

ま、と、いうわけで(どういうわけで?)、とりあえず「悟りの階梯」のお話は、この辺で止めておきます。

お付き合い、ありがとうございました。


次は、もっと身近なテーマにしましょうね。(反省モード)



←「不毛」なんて言わないでぇ~。

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訂正

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イヤン(*ノ∇)ゝ やっちゃったー☆


先に謝ります。ごめんなさい。

僕、間違ったこと書いてましたー。


只今、先ほど「なちゅ」さんからいただいたコメント拝見して、

(/ω\) ハジカシー

ってなっております。紅顔の美少年、黒斎ですこんにちは。


まずは、その「なちゅ」さんのコメントをごらんください。


*****

初めて投稿しますがこのブログ好きです。

であえて間違いを指摘させていただきますがテーラーワーダ仏教をもとに書いてらっしゃると思いますが明らかに禅定(サマーディー)と智慧(パンニャー)は別物なので禅定の最高段階まで達していたアーララカーラマ師にしろウッダカラーマプッタ師などでさえ悟りということでは預流果にさえなってはいないはずです。(あくまでも一切皆苦と無常を頭ではなく修行により実体験して初めて悟りの段階に入る、よって禅定はあったほうが良いが絶対に必要ではないらしいです)
アビダルマによりこれは明らかです。
参考としてはスマナサーラ長老のブッダの実践心理学の第4巻に詳しく書いてあります。


*****


悟りということでは預流果にさえなってはいないはずです。

悟りということでは預流果にさえなってはいないはず…

悟りということでは預流果にさえなってはいない…


はい…。ご指摘のとおりですぅ~。 _| ̄|○ ヤッテモ-タ…

「悟り」のレベルと「禅定」のレベルの話を混同して書いていました。ごめんなさいぃぃぃぃぃ。

※なちゅさん、鋭いご指摘ありがとうございました。


ってことで、ちょっと書き加えさせてください。

えーと、どこからどう修正すればいいかな…(←動揺しているご様子)


まずですね…、昨日ご紹介した「梵天界」。実は、悟らなくても入れるんです。


死後、梵天界へ入る方法は2つ。

1.不還果に到達する。

2.禅定を経験する。


この2つ、その経験を通して到達した世界は同じ「梵天界」なのですが、決定的な違いがあります。

それが、なちゅさんのご指摘どおり、「無常(無我)」を「体験」として理解できているか否か(悟っているか否か)。

その経験を通じ、「私がいる」という「有身見」が消えているか否かで、梵天界での寿命が尽きてからの行き先が異なるんです。


ん~と…これ、どういう風に書けばいいのかなぁ…。

まず、「悟らなくても禅定(三昧:サマーディー)は経験できる」ってとこに戻りましょうか。


「禅」という言葉を聞くと、どこか「仏教的な修行」という印象をお持ちの方も多いと思います。

いえ、実際そうなんですけど、「禅」には、実はもう一つの顔もあるんです。

それは、「大衆娯楽」という一面です。


今のようにインターネットやテレビ、ゲーム、パチンコ、カラオケどころか、文明的なエンターテインメントが一切なかった2,600年ほど前の地球。

その頃の人々は、「瞑想」を娯楽として楽しんでいたんだそうです。

「瞑想」は修行ではなく、「気持ちいいから」という理由で楽しまれていた「娯楽」だったんです。


その娯楽(瞑想)は、当時のインドでは、パーリ語で「ジャン」と呼ばれていました。

それが長い時を超え、中国に渡り「定(ヂャウ)」となり、日本に入って「禅(ゼン)」と呼ばれるようになりました。

同じく古代インドで発展を遂げてきた、姿勢や呼吸法を重視する修行法「ヨーガ」も、それ単独として発展してきたワケではなく、この「ジャン」の気持ちよさ、至福体験(エクスタシー)を深めるための方法として広まったのだそうです。

「禅」のルーツは「娯楽瞑想」なんです。


そこから発展した瞑想のエキスパートが、アーラーラ・カーラーマ先生、ウッダカ・ラーマ・プッタ先生。

なので、この時はまだ、なちゅさんのご指摘通り、両氏は悟りを開いていませんでした。もっといえば、悟りがなんたるかも気付いていない状態です。

ですので、「梵天界レベル」ならまだ良しとしても、「不還果レベル」という説明は不適切であり、明らかな間違いです。ごめんなさい。


えー…。折角ですので、そこから一歩踏み込んでみましょう。


無常を体験して、悟りの段階に入った人が禅定に達し梵天界に入る場合と、凡夫が梵天界に入るのでは何が異なるのでしょうか。

凡夫が一度「禅定」を経験すると、その素晴らしさゆえ、梵天界への強い執着が生まれます。

その代わりに欲界への執着はあっさりと手放し、死後は梵天界へと生まれ変わることになります。

しかしながら、禅定で得られた功徳が尽き梵天界での寿命を全うすると、欲界で経験した「楽」への執着と、いまだ清算できていないカルマの力に引きずられ、また、欲界(六道)のどこかへ転生してしまうのだそうです。

一方、「有身見」がなくなった者は、同じく梵天界のすばらしさに執着はあるものの、「それもまた無常」という諦めがあるので、寿命が尽きると、そこで思い残すことなく満足し、どこにも輪廻せずに、そのまま消えてしまうのだそうです。


また、六道の最上部「天界」においても、これと同じように、悟りを経験した天人と、未経験(凡夫)の天人がいます。

凡夫出身の天人の一部には、人間が自分のレベル(天界)を超え、悟りを開いたり不還者として梵天界に到達することに「やっかみ」を持ち、誘惑(快楽)や恐怖などのエネルギーを使い、梵天界行きを邪魔する者もいるそうです。

そう言ったエネルギーのことを、仏教では、釈迦の悟りを邪魔しにきた「マーラ(魔)」と表現しています。



←日々皆様からのクリックとコメントに支えられている当ブログでございます。

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梵天界

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いよいよ対談の原稿があがってきましたよ!

昨日僕のチェックが終わり、只今阿部さんが確認中です。

公開まで、今しばらくお待ち下さい。





ということで、その前にこのシリーズを終えちゃいましょうね。


さて、圧倒的な禅定体験を通して到達する「不還果(ふげんか)」と呼ばれるレベル。

このレベルを持ってしても、「煩悩が完全に消えた」とは言えない状態です。

煩悩を滅すると言う修行活動的にみますと、あまり「一来果」と変わりないように思えます。

それなのに、お釈迦様登場以前、このレベルが「最高の境地」と思われていたのには、「一来果」との決定的な違いがあったからです。

その違いとは、「物質や肉体に対する欲からの脱却」。

「一来果」では弱まるだけだった六道界(欲界)への執着・煩悩が、「不還果」では完全に消えてしまいます。

「禅定」という体験を通して、「視覚・聴覚など五感に基づく認識」や「六番目の感覚(心で考える想像・妄想)に基づく認識」を超える世界を知ってしまうゆえ、それまであった五感や想像などに基づく欲が、すっかりなくなってしまうのだそうです。

「存在そのもの」に対する執着(梵天界への執着)はあっても、俗世間に対する欲や怒りはなくなるので、この世への執着が全くなくなってしまいます。

この世への執着がなくなった分、それまでとは比べものにならないほど「智慧」が豪快に現れるので、『慈悲が溢れる心静かな聖者』といった存在になるのだそうです。

その世界に到達すると、もう六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天界)の世界に転生することはなく、死後(肉体を失った後)は欲界を大きく超えた世界、「梵天界」へ生まれ出るとのこと。

「生まれ出る」とはいっても、僕たちが認識しているような物質界ではないので、「生まれる」という概念そのものも僕たちの想像を超えています。

「親」という媒体を介さずに、パッと現れる様な感じ、とのことですが、そのレベルに達していない僕らにとっては、どんなに想像しても理解できないお話です。なにせ「想像を超えた世界」の話なのですから、「想像」でわかるわけがありません。

さて、その梵天界。

その世界も大きく2つの世界に分けることができるのだそうです。

瞑想の対象となる、何らかの物質(認識できるもの)がわずかに残る「色界」と、それすらもない「無色界」。

この「色界」がアーラーラ・カーラーマ先生レベル、「無色界」がウッダカ・ラーマ・プッタ先生のレベルです。


ね~。

聞いたところで、ちっともピンと来ませんでしょ?



←執着。

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