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永遠

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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はーい。

またまたぶっ飛んだお話をしまーす。


とても難しく見えてしまうかもしれませんが、この話、ホントは全然難しくはありません。

逆に、あまりにもシンプルすぎるからこそ把握できない話なんです。

例の「aha!」という気付きを促すために、わざわざ反対側の「難しそうに見える方」からアプローチしているだけなんです。

ですので、どうぞアタマを柔らか~くしてご覧ください。


結局のところ、「時間」は思考が作り出す錯覚です。

実際は「過去」も「未来」もなく、ただ「永遠の今」が存在するだけです。


今日は、この「永遠」のニュアンスを掴むチャレンジをしてみましょう。


「永遠」というフレーズに、アナタはどんな意味を見出しているでしょうか。

それを「途方もなく長い時間」というニュアンスで捉えているのであれば、間違いです。

「永遠」の本来の意味は「時間を超えて存在すること。また、そのさま。」となります。

だから「永遠」は「時間」ではないのです。


「永遠」は「時間」ではありませんから、そこには「始まり」も「終わり」もありません。


般若心経に登場する「不生不滅」はこのことを指しています。

私たちの存在は時間を超えた「永遠」ですので、そこには「始まり(誕生)」も「終わり(死)」もないのです。

そういう意味では、「無限」と非常に近いニュアンスかと思います。


さて。

一度ここで「過去」と「未来」という概念は置いていきます。

「時間」の事は一度忘れて、アタマを切り替え「無限」を考えてみましょう。


「無限」は、記号で書くと皆さんおなじみの「∞(インフィニティ)」ですね。

そこには始まりもなければ終わりもない。


これに「次元上昇」という概念を付け加えてお話を続けます。


平面(2次元)を、立体(3次元)に「次元上昇」させ、さらにそこに「永遠」という要素を加えると、『メビウスの帯』が出来上がります。

表を辿っていたつもりがいつの間にか裏になっちゃって… あれ!?

っていうアレです。

そこには「始まりと終わり」や「表と裏」といった「二元性」が無くなってしまいます。


実は、この「次元が上がるとともに二元性が消える」という、このことが「アセンション」なんです。

始まりも終わりもない、表も裏もない、永遠の世界。

一度その世界を垣間見ると、幸(表)も不幸(裏)も「永遠」というメビウスの帯の中に内在された、本当は2つに分けることの出来ない一つのものということが理解できます。


一般的な解釈では「幸福」と「不幸」は対極にある「まったく別のもの」という解釈になってしまいますが、真実はそうではないんです。

メビウスの帯と同じように、幸福を辿っていくと不幸に行き着き、それをさらに進むと幸せが現れて…という、始まりも終わりもない無限ループになっているんです。

なので仏教では「幸福」と「不幸」は対極にあるものではなく、「同質のもの」という立場を取ります。


『陰陽道』もこれと同じ考え方で、この「永遠」を「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」と表現しています。


「幸せ」「不幸せ」は、実は『同じもの』なんです。

「幸せ」をある地点で捉えると「不幸」になり、「不幸」もまた、見方を変えると「幸福」になってしまいます。


それをさらに引いて見てると、そこには幸(表)と不幸(裏)を分ける境界線は見つからず、「物事(メビウス)はただ、ある」ということになるんです。


どうでしょう? 話についてこれますか?

「わからない」と言う方は、一度ここでじっくり考えてみてください。


ついてこれる人はもう少し先に進んでみましょう。


2次元から3次元にアセンションして現れたのが「メビウスの帯」でした。

では、我々がいるこの3次元世界から4次元・5次元にアセンションしたら、どんなものが現れるのでしょうか。


それが「クラインの壺(Klein bottle)」と呼ばれるものです。

「メビウスの帯」が2次元のテープ状のものをひねり、表をたどっていくとそのまま裏に行き着くようにしたのに対し、「クラインの壺」は3次元のチューブをひねり内部をたどると外部に行き着くようにしたものです。


「メビウスの帯」では「表と裏」の区別が無くなりました。

それと同じように、「クラインの壺」では「内側と外側」の区別が無くなっちゃうんです。


自分の「内側」深くをずーっと辿っていくと、宇宙という広大な「外側」に出てしまう。

そして、内側も外側も含めた、その存在の全ては一つのものであるということに気付くんです。



←飛ばしすぎ?

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2012

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はーい。

唐突ですがぶっ飛んだお話をしまーす。


『2012年12月23日、時間が無くなる。』

なんてことがまことしやかに囁かれていたりしますが、あれ、嘘ですよ。

さらには、その言葉をさらに歪曲して解釈した結果、「2012年で地球が破滅する」とか言い出す始末。

ノストラダムスの大予言じゃないけれど、一体何度騙されりゃ気が済むんですかね。

もう止めましょうよ、そういうの。関暁夫の都市伝説じゃあるまいし。


「世界が終わる」ってそういう意味じゃないんです。

「アセンション(次元上昇)」って、そういう事じゃないんですよ。

2012年12月23日、時間が無くなる?

そうじゃないんです。

2012年に時間が無くなるんじゃなくて、元から時間なんて存在していないんです。

そのことに気付く、そのことこそが、「アセンション」なんです。

「世界が終わる」ってのは、「地球が滅亡する」のではなくて、「自我が紡ぐ幻想の世界に終止符を打つ」ってことなんです。


そんな話題を、先日のトークライブ(夜の部)でお話しました。

ブログでこの話を書くのはチョット抵抗があるんです。

でも、先日会場で「このことはブログでも書きましょうね」って約束しちゃったんで書いてみます。


「時間」という概念は、3次元的なものの見方、思考によって生まれる「錯覚」です。

アタマを柔らかくして、3次元的思考を超えると、「時間」という錯覚のカラクリが理解できます。

3次元的思考の呪縛から離れ、それを超えていくから「次元上昇」と呼ばれているんです。

ですから、それは環境に現れる変化ではなく、アナタの内面に起こる変化です。

自分の内面に変化が起こったことによって、世界の見え方、また、世界との関わり方が変わります。

その変化は、アナタの人生を根底から覆してしまうほどのパワーを秘めたものです。

その時アナタが体験するのは、それまで自分が生きてきた世界(世界観)の終わりです。

それまで持っていた常識や価値観、あらゆる欠乏感がガラガラと音をたてて崩れ去る瞬間です。


折角ですから、いまここでイッちゃいましょうよ。ね。

一緒に時間の概念を超えちゃいましょう。


いいですか。

アナタはこれまで、「今」という瞬間以外に存在できたことなんて、一度もないんです。

だって、「過去」も「未来」も無いんですから。

無いから、そこに存在できないんです。

未来は「未だ来ていません」。だから「未来」です。

来ていないんだから、ありません。

過去は「過ぎ去っています」。だから「過去」です。

過ぎ去ってしまったんだから、ありません。

私たちが存在出来ているのは、いつだって「今」だけなんです。

本当は無い「過去」や「未来」を「ある」と錯覚しているだけなんです。

言い方を変えれば、「生活する上でなにかと便利だから、過去と未来という概念を創り、“ある”ということにしておこうよ」という暗黙の了解を、すっかり忘れている状態です。


「うん。それはなんとなくわかった。でも、だとすると、今わたしの目の前にある、昨日撮影した写真は?お財布の中にある、さっき買ったジュースのレシートは?ほら、やっぱり“過去”はあるじゃない。」


アナタはそう思っているかもしれません。

でも、それが「3次元的なものの見方」に縛られている状態、「思考」に縛られているのだと知ってください。


アナタが今、目の前にしているのは「過去」ではありません。

それは「過去」ではなく、「記録」や「記憶」なんです。

記録も、記憶も、それが存在できているのは、やっぱり「今」なんです。


アナタのスケジュール帳に書かれているアレコレは「未来」ではありません。

「予定」や「展望」「シミュレーション」です。

「明日」が「未来」のまま自分のもとへやってくることはありません。

「明日」だって、来てみりゃ必ず「今」なんです。


だからね、何かに後悔している人は、「過去に縛られている」のではなく、本当は「自分の記憶に縛られている」んです。

だからね、何かを必死に追いかけている人は、「未来に縛られている」のではなく、本当は「自分の予定に縛られている」んです。


そうやって自分の思考で自分を苦しめている事を「カルマ」って言うんです。


え?

「いつかカルマの清算が出来るようになればいいな」って?

だから!

「いつか」なんて「未来」は、ないんだってばさ!



←飛びすぎ?

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例年より2週間も早く札幌の桜が満開なんですよ。

いつもならゴールデンウイークに合わせるように咲き出して、風の冷たさに軽く震えながらジンギスカンをするってのが札幌スタイルのお花見だったんですけど、今年はホントに暖かくなるのが早いなぁ。

竹彩ちゃんはもはや水遊びを始めちゃってるそうだし。僕もTシャツ出勤だし。

このままいったら12月には何十℃になっちゃうんでしょう?



小春日和の定番ネタとともにこんにちは。

欲求不満気味の男性を中心に絶大な支持を頂いております、「サクラに聞いた、テレクラの仕組み」です。





えー。

今日はね、久々に「アセンション」のお話をしようかと思います。

※ちなみに、前にお話したのはこんな感じでした。2007年12月22日投稿「宇宙立この世学院.8」


いろんな所で、「なんか難しそうに聞こえるけど、結局アセンションってなんなのさ?」って話になってると思うんですよ。

「結局何が起こるのさ?」ってな感じで。

この話をね、未来の話じゃなくて、過去の事例から考えてみたいと思います。

その方が、何となくリアリティがありそうなんで。


アセンション。日本語に訳すと、「次元上昇」。

「次元が上がる」。これって素直に考えると、1次元が2次元に、2次元が3次元に、3次元が4次元に…というようなことですよね。

1次元=座標(点・線) → 2次元=平面 → 3次元=立体

これを踏まえて考えるとね、過去にも「次元上昇」って何度か起こっていると思うんですよ。僕。


例えばね、「え!?地球って丸かったの!?」っていうアレも、一つの「次元上昇」だと思うんです。

ロング・ロング・タイムアゴー。

古代の人々は地球は無限に続く「平面」であると考えていました。

今から見るととてもおかしな話に見えますが、当時はそれが当たり前。

逆に「地球はもしかしたら丸いんじゃない?」なんて言う方が異端児扱いされてしまいます。

それでも時の流れとともにその考え方は修正され、皆が皆「うん。地球は丸いね。」と言う時代になりました。

「地球は平面」という当たり前が、「地球は丸い」という当たり前に変わりました。


こういう大きな考え方の変化を、「パラダイム-シフト(パラダイム-チェンジ)」と呼びます。

パラダイム-シフト【paradigm shift】
ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること。規範の遷移。思想の枠組みの変動。社会全体の価値観の移行。


「地球は平面」という当たり前が、「地球は丸い」という当たり前に変わった時、何が起こったのかというと、実は、それまでと何も変わっていないんですね。

地球は、地球のままなんです。

地球が「平面」から「球」へ変貌を遂げたわけではないですよね。

「解釈・考え方」が、「平面(2次元)」から「球(3次元)」に「次元上昇」しているんです。

「周り」が変わったのではなく、「自分(の考え方)」が変わったんです。



ここで、古代ギリシャの様子を想像してみましょう。

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ある時、町中にとある噂が広がり始めました。

なんと滑稽な話でしょう。この地球が、なんと「丸い」と言うのです。

ギリシャ中の知識人(常識人)達は、当然耳を貸しません。

「地球は平面に決まってるじゃないか。地球の裏側?何をバカな事を。www」

******


古い考え方に縛れれていると、「アセンション」に取り残されちゃいます。(このフレーズ、精神世界のあれこれがお好きな方は、最近よく耳にしますでしょ?)


そして今、巷に「ある噂」が流れています。

なんと滑稽な話でしょう。私たちが「現実」だと思っているあれこれが、全て「幻想」だと言うのです。




<本日のオマケ>
僕が好きなバンド、monkey majikの曲から「ガリレオ」(歌詞はこちら


←異端児大歓迎。

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宇宙立この世学院.8

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本日のエントリは長文となります。(とはいえ、そのほとんどは「引用」なのですが。)

でも、とても大切な内容ですので、「じっくり」時間をかけてご覧いただきたく。。。

<(_ _ )>





 多くの人は、社会というものが、何かそのようなものとして存在していると漠然と思っている。でも、考えるということは、漠然と思うことではなくて、正確に知ることだ。さあ、「社会」というものを、その正確な形で思い浮かべてみよう。いや、社会というのではあまりにも漠然としているというのなら、学校でもいい。小さな社会としての「学校」というものを、正確な形で思い浮かべてみてごらん。これが学校ですと、明確に示してみてごらん。

 君はまず、学校の校舎を思うかもしれない。でも、それは学校の“校舎”なのであって、それが学校なのではないね。次に君は、学校にいる人々、いく人かの先生とたくさんの生徒を思うかもしれない。でも、それは学校にいる“人々”なのであって、それが学校なのでもない。あるいは、学校の授業の風景や、規則の数々のことを思うだろうか。でもそれも、学校の授業や規則ではあっても、それが学校そのものというわけではない。じゃあ、これが学校だと言える何かを、目に見える形として示すことはできるだろうか。

 できないね、すごくおかしなことだけど、「学校」なんてものを、目で見たことのある人はいないんだ。なのに人は、それが何か目に見える物のように、自分の外に、自分より先に、存在しているように思い、事実そのようにして毎日を生きている。「社会」というものもこれと同じなんだ。いや、「学校へ行く」とは言えても、「社会へ行く」とは言えないのだから、人が漠然と「社会」と言う時の曖昧さはそれ以上だ。「社会」なんて、いったいどこにどのように存在しているのだろう。

 (中略)

 で、「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。だって、何かを思ったり考えたりしているのは自分でしかないのだから、どうしてそれが「自分の外」に存在しているはずがあるだろう。「社会」は、観念として、自分や皆の「内に」存在しているものなんだ。いや、「内・外」という言い方は、「自分」を考えるとあり得ないということも先にわかったね。物のように外に存在しているかのように思われる「社会」、社会という現実は、皆が内で思っているその観念の、外への現われだ。観念が現実を作っているのであって、決してその逆じゃないんだ。

 このことに気がつくことはすごく大事なことで、うまくこれに気がつくことができると、すべてがそんなふうにできあがっているということもわかるはずだ。「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。でも、自分の外に存在しているかのように思われる社会というものを、それならよく見てごらん。その社会に存在しているのは、やっぱり同じように思い込んでいる人々がいるばかりじゃないか。その人々の集まりのことを、「社会」と呼んでいるだけじゃないか。

 「ない」のに「ある」と思い込まれたものは、当然あることになる。自分の外に物のようにある社会は、当然自分に対立してあると思われることになる。社会は個人を規制するわずらわしいもの、個人主義のあの彼の捉え方だ。その極端なのが、わかるね、自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、他でもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言っていることになるのだろう。

 社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべきなんだとわかるね。何でもすぐ他人のせいにするその態度を変えるべきなんだ。だって、すべての人が他人のせいにし合っている社会が、よい社会であるわけがないじゃないか。社会は、それぞれの人の内の観念以外のものではないのだから、それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ。現実を作っているのは観念だ。観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。

※以上、「14歳からの哲学」(池田晶子著)より抜粋。



巷でまことしやかに囁かれている「アセンション(次元上昇)」という言葉。

僕は、この言葉の指す意味は、この「宇宙立この世学院高等学校のレベルアップ(偏差値向上)」だと思っている。

どうだろう。聞きなれない「アセンション」や、何を指しているのか分からない「次元」という言葉よりは、よほど捉えやすいと思うのだが。


この「学校(この世)のレベルアップ(偏差値向上)」という比喩と、先にご紹介した内容を組み合わせて考えてみて欲しい。


「学校」は、物質として存在しない観念的な存在。

では、その実像を持たない「学校」のレベルを上げるということは、どういう意味だろう。

校舎を新しく、より大規模に、よりキレイに磨き上げることだろうか。

いや、それでは単に建物がレベルアップしただけであって、「学校」がレベルアップした、と言うことにはならない。

それを証拠に、世の中のあらゆる学校を見渡しても、「校舎の大きさ・新しさ」と「学力・偏差値」が比例しているわけではない。

どんなに環境を整えても、どんなに立派な校舎を用意しても、そこで学ぼうという意欲そのものがなければ、そんな環境など、何の役にも立ちはしない。


では、教員のレベルを上げるということだろうか。

これも違う。だって、そもそもここの生徒達は教員の話に耳を傾けるどころか、その存在すら確認できてないのだから。(ましてや、自分達を超える、そんな存在などいるわけがない、と思い込んでいる人間の数のほうが、圧倒的に多いのだから。)教員を入れ替えたところで、何も変わりはしない。

教師はひたすら、生徒達が自分達の話に耳を傾けてくれることを、辛抱強く待つしかない。


学校のレベルを上げる方法、それは、環境ではなく、生徒達自身の「学力・偏差値」を向上させる以外、術はない。

誰かや何かに頼るのではなく、生徒達(私達)自身が変わらなければ、何も変わらない。

無論、勉強そのものを始めてもいない私達の学力が、ある日突然、何か得体のしれない力によって向上するなどということもないだろう。学力を向上させるには、当然、それなりの努力が伴うからだ。

今、私達がしなければならないのは、勉強のスタートラインに立つことだ。

「学力」以前に、少なくとも「学ぼうとする力」を持たなければ、この学校を卒業したとしても、就職先も、進学先もありゃしない。


「マーフィーの法則だ」「引き寄せの法則だ」と浮かれて、「新たな教科書・教材」を引き寄せるのは、そろそろ、やめにしないか。


引き寄せるべきは、「教科書・教材」ではなく、その先にある「学力」だ。



←I wish your Merry Christmas.

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宇宙立この世学院.7

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中間徹と加藤浩志が在籍する、私立愛徳高校はもとより、さらに偏差値の低い私立城東工業高校や私立戸塚水産高校などですら可愛らしく見える、究極のヤンキー校。ここは正に、不良の吹きだまり。

生徒達の偏差値は最低ランク。高校と名の付く場所に席を置いてはいても、ハナっから勉強なんてするつもりはなく、社会に対しては敵意むき出し。就職や進学などといった卒業後の身の振り方など考えたこともなく、来る日も来る日も相手を再起不能にするほどの喧嘩やいたずらに明け暮れ、恐喝や窃盗、売春などの犯罪は日常茶飯事。タバコ・ドラッグ・アルコールは僕らのサプリメント。

(`⌒´メ) 「え? そんな場所にいてストレスを感じないかって?」

(#`▽´) 「あはは。ストレスを感じたら、その場で誰かをぶん殴ったり、壁に蹴り入れて穴の一つでも開ければスッキリするから大丈夫だよ。」


(`▽´)y-゜゜゜バキッ( ̄ヘ ̄)θ★゜ο゜)ノゲッ

バーン!! ( メ▼Д▼)┏☆====(((_◇_)======⊃


きうちかずひろの想像力をも軽く超える生徒達が、無数に在籍している、そんな高校を想像していただきたい。

この学校の「校舎」は今、どのような状態になっていると思いますか。

「床から天井まで、徹底的に磨き上げられ、備品一つ一つも丁寧に整理整頓され、どこを見渡しても、傷の一つも付いていない新築同様の明るく輝く校舎。」こんなイメージをする人は、まずいないでしょう。

想像できるのは、「ガラスは1枚残らず割られ、床はタバコの焼け焦げだらけ。壁には無数の穴が空き、黒板は傷だらけで、もはや黒板として機能しない。壁も天井も見渡す限りヤニだらけで、壁に寄りかかるだけで、制服が汚れそうだ。机やイスも当然ボコボコ。掃除なんてしたことないから、ゴミであふれかえったゴミ箱からは悪臭が立ち上っている。見渡すと、どの教室の柱も無くなっている。生徒に理由を聞いたところ、昨年の冬、寒かったから柱を抜いて燃やした、と言っていた。なるほど、後先を考えられない彼ららしい発想だ。」

まぁ、そんなところだろう。


さて、この話を聞いて、あなたは笑えるだろうか。


宇宙立この世学院高等学校の「校舎」は、言わずと知れた、この「地球」だ。


今、この高校の職員室(あの世)では、教員達がある議論を交わしている。

この高校を、このまま存続させるか、否か…。


教員A 『校舎もすっかり荒廃してしまった。一度スクラップして、建て直した方がいいんじゃないか?』

教員B 『そうだな。どうせ校舎を新しくするなら、それを機会に校名も変えてさ、偏差値も上げようじゃないか。』

教員C 『スクラップって…。そんな乱暴な!まだ生徒達は校舎の中にいるんだぞ!?』

教員A 『いまだってスクラップし続けているじゃないか、生徒たち自身が。w』

教員C 『ちょっと待ってくれ!今まで何度も再入学を繰り返してきた生徒達はどうなる?学校の偏差値が上がったら、彼らはもう入学出来なくなるじゃないか。』

教員A 『いいんじゃないか?別な、偏差値の低い学校に行ってもらおうよ。』

教員C 『彼らにもう少しチャンスをくれないか。彼ら自身が、校舎を復旧させる事ができたら、このままでもいいだろ?』

教員B 『う~ん。彼らにそれが出来るかなぁ。。。』

教員C 『頼むよ、考えてみてくれ。彼らが自分達で建て直す事が出来たとしたら、結局今までより「偏差値が上がった」と言うことじゃないか。』

教員A 『なるほど。それも一理あるな。』

教員C 『だろ?』

教員A 『わかった。それではもう少し様子を見てみよう。私たちが手を加えなくとも、まもなく解体されそうだしな。w』



←なんだてめー。無視こいてんじゃねーぞ、コラ。

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