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あるがまま

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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♪ブルブルブル、ブルブルブル(携帯電話の着信バイブレーション)



もしもし。

あ。お父さん。

何?どうしたの?

えっ?

パソコンがどうしたって?



うん。 うん。

あ~、うん。

違う、違うよ。

気持ちはわかるけど。


初音ミクは、エロゲじゃない。





ってぐらいね、何かと勘違いされていると思うんですよ。

「ありのまま」「あるがまま」の意味。


と、いうことで、『「ありのままを受け入れる」「あるがままでOK」の本当の意味って、どう表現したらいいんだろね?』をテーマに沢山のコメントを頂いております。


いや~。ホントに面白いですよね。凄いですよね。

1つのことを言うのにも、こんなに人それぞれのアプローチがあるんですもの。

その1つ1つが、非常に深い。

「コメント欄はあまり読まないんですよね」っていう方もいらっしゃるかと思いますが、ここ最近のコメント欄は、本当に勉強になりますよ。

是非ご一読下さい。


で、僕も僕なりの表現でまとめたいと思っていたのですが、やっぱり難しいね。これって。

凄くシンプルな話のはずなのに。当たり前の話のはずなのに。

(これから、考えながらキーボードを叩いていきますので、いつもより若干箇条書き的になるかもしれません。)


で、「なんでこんなに、ありのままを受け入れるということが難しいんだろう?話が通じないのだろう?」ということを、自分を振り返って考えてみました。


その理由は、単に「事実を受け入れたくない」という姿勢にあるんだと思います。

自分にとっていいことは受け入れられても、都合の悪いことは受け入れたくない。

まぁ、当然なんですけどね。

でも、「ありのままを受け入れる」「あるがままでOK!」ってのは、そういう自分にとって都合の悪いことも、シッカリ引き受けることだと思うんです。やっぱり。

どんなに理不尽に思えることでも、自己責任として受け入れる姿勢。

本当は見たくない自分の欠点・弱さ。目を反らしたい問題点の数々。

そう言ったあれこれも、まるごと引き受けてこそ、「ありのままを受け入れる」なんだと思うんです。


それが出来ている人にしてみれば、それはそれで当たり前の話なんだけど、出来ていない人にとっては、「そんなの、言うは易しだよ。ただの道徳、きれい事を並べているだけじゃないか。」ってなるんだよね。だって、僕もそうだったもん。

だから「ありのままを受け入れる」ということは、きっと凄く勇気がいることなんだ。


じゃあ、そういう自分の見たくないコトを受け入れるためにはどうしたらいいんだろう?ってことで、はじめて「ジャッジしない」という話に繋がるんだと思うんです。

今、自分が持っている判断は「悪いコト」かもしれない。

でも、その時「悪いコト」を「悪いコト」という認識のままでいたら、やはり受け入れられるものではない。

「受け入れること」その物が大きなストレスになってしまう。

だからこそ、一旦善悪の判断を止めてみる。

しかしながら、この時の「善悪の判断を止める」は、「理性を捨てる」という意味ではない。

むしろ、理性に基づいているからこそ行える行動だ。


そして、勇気を出して「えいやっ!」と受け入れてみる。


実際に受け入れてみると、価値観が変わる。

「自分だけ」という狭い範囲でしか物事を見ていなかったことに気付く。

「自我」という名のサングラスを通して、世界を見ていたのだと気付く。

サングラスを外してしまえば、元々世界は明るかったのだと気付く。

気付きがあると、世界が変わる。


自分中心だった物事の捉え方から、「自分の苦悩は他人事のように、他人の苦悩は自分の事のように」という風に、それまでと真逆の捉え方になってしまう。

それが、自分にとって、皆にとって幸せな結果に繋がるのだと実感できる。


そう考えると、誰かも書いていたけど「ありのままを受け入れる」ってのは、スタートだね。

いつスタートするのかはその人次第。

でも、いつまでもスタートを渋っていると、自分の意思とは関係なく、「ありのままを受け入れざるを得ない状況」まで、自分を追い込んでしまうことになる。


まさに、今世界が目の当たりにしている状況は、ありのままを受け入れず、あらゆる問題から目を反らしてきた結果だろう。


そして、そのあらゆる問題を生み出してきた原因を考えると、やっぱり人間の欲と怒りと無知だ。


自分の欲と、怒りと、無知が、自分を苦しめているという事実を受け入れるということは、自分の愚かさを認めることだ。

自分がバカだと知ることだ。


自分がバカだと気付いたバカは、自分がバカだと気付いていないバカより、よほど賢い。

まぁ、バカはやっぱりバカだけど。

でも、自分がバカだと気付いたら、そこから本気で学びだすんです。

バカという自覚があるからこそ。



←あるがまま。

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ありのまま

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♪プルルルル、プルルルル(携帯電話の着信音)



もしもし。

あ。お母さん。

何?どうしたの?

えっ?

谷隼人がどうしたって?



うん。 うん。

あ~、うん。

違う、違うよ。

気持ちはわかるけど。


松岡きっこは、ブログの女王じゃない。





ってぐらいね、何かと勘違いされていると思うんですよ。

「ありのまま」「あるがまま」の意味。


「ありのままを受け入れる」「あるがままでOK」は、問題をごまかすために使う言葉ではありません。失敗をそのままにしておいて良いというコトでもありません。

だって、自分が不幸だと感じている時、誰かが苦しんでいる時、困っている時、「あるがままでOK!(そのままでいい。)」で、いいわけないじゃないですか。

誰かが病気になっている時、「そのままでOK!」なんて放置してたら、治るモノも治らなくなっちゃう。

「あるがままを受け入れる」は「目の前にある状況を放置しておく」ではなくて、「目の前にある状況を引き受ける」というコトだと思うんです。

う~ん。。。

これ、どう説明したらいいのだろう…


もう少し考えてみたいのでお時間をください。



あ、皆さんのご意見も、どしどしお寄せ下さいね!



←「そのままでOK!」なんて放置してたら、上がるモノも上がらなくなっちゃう。

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絶望の向こう側

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えー。

なんだかコメント欄がとても面白くなってきました。

沢山のコメントありがとうございます。とても勉強になります。

あ。「面白い」なんて言葉を使うと、それはそれでご立腹の方もおられるかも知れませんが…。


折角なので、一旦、話の流れをここで一度大きく変えて質疑応答的にお話を進めていこうかと思っています。

お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


今日は、前回のコメント欄で癌患者さんからご質問のあった「絶望」について、少しお話させてください。


2008年10月24日投稿「失敗は成功のもと」コメント欄 癌患者さんより

*****
はじめてコメントさせて頂きます。
今回の内容とは関係無いんですがど~しても教えて頂きたい事があります。(黒斎さん以外でもわかる方はコメント頂きたいです)

僕は名前の通り癌患者なんですが預流果を迎えていない僕には「今の自分(=癌)があるのは、こういう理由(原因・条件)があったから」と言う原因がどうしてもわかりません。

黒斎さんがお話されてる事も頭では理解は出来ているんですが実感として何も感じる事はなくアハ体験も未経験です(-.-;)

癌になった原因は自分で預流果を迎え自分で解決しなければならない問題だとは思うんですが
黒斎さんが預流果を迎えたきっかけの「絶望(地獄を見る)」という経験をされた際、心の在り方としては地獄と向き合っていましたか?それとも希望(天国?)を見つめる事で預流果を迎えられましたか?

今自分は絶望的な状況です(>_ <)

絶望的な僕にヒントを下さい。

…(中略)…

絶望的な状況って書きましたがあくまで客観的な状況を書いたもので自分自身は病気に感謝しているくらいです。

癌は家族の大切さ、友達の大切さ、普通に生活する事の大事さや自分の体に対する感謝等様々な事を教えてくれました。

また、悲観的にならず病気を絶対治してやるって気持ちもあります。

そこで自然治癒で治った人の話を聞くと預流果を経験された黒斎さんと同じような在り方でいらっしゃる人が多く自分も同じ境地に到れればと思ってます。

黒斎さん、blogの内容と離れた書き込みしてしてしまって申し訳ありませんでした。

*****

コメントをお寄せいただいた癌患者さん以外にも、「病」に苦しみや悩みを感じて、このブログに辿り着いた方も多いと思います。

また、患われているご本人に限らず、看病する側でお悩みの方も多くいらっしゃると思います。

現実世界とは別次元の、奇跡や神秘などによる好転を求めて、宗教や精神世界の扉を叩いた方も多いかと思います。


ですが、残念なことに本当の宗教、精神世界は、現実社会以上に現実的です。

こと仏教においては、特に耳を塞ぎたくなる言葉に出会うことになります。

「一体何を考えているのか。 アナタは、自分が病気にならないとでも思っていたのですか? 死なないとでも思っていたのですか?」と。

そこには、一部の宗教や精神世界で語られる、奇跡を迎えるための方法論や、優しい言葉、慰め等はありません。

「徹底的に探してご覧なさい。病から、老いから、死から逃れ、延々と生き続けている人間などいるものですか。人間は、病に倒れて当たり前。死んで当然。だからこそ、“人生は苦だ(輪廻は苦の連鎖だ)”と言うのです。」


奇跡を夢見て相談したのにも関わらず、返ってくるのは受け入れがたい超現実的な言葉です。

お釈迦様に、「病気になったら、どう対処したらよいですか?」と聞いても、「医者に診てもらえ。」と返ってきます。


ええ。まさに「絶望的」です。

なのですが、本当の宗教は、「人間は、その絶望を超えることができるのだ」と説くのです。

身体の病みではなく、心の病みを改善するのが、宗教の仕事だからです。


人間は、絶望を超えることが出来る。

僕は、幸運にもこの言葉の意味を知ることが出来ました。僕自身が、実際に絶望を経験することによって。


人間は、絶望を超えることが出来る。

そうは言っても、やはり絶望を見ることは、あまりオススメしたくはありません。

ホントに痛いんです。辛いんです…。

自分からわざわざ見に行く必要はないと思います。

ですが、もし、今現在、正に「絶望的です」という人がいるのなら、どうか知ってください。

絶望は、超えることができます。「煩悩から離れる」ということによって。


人はよく、自分の苦境を「絶望的」と表現します。

絶体絶命の大ピンチ。にっちもさっちも行かなそう。

なのですが、人は、どんなに「絶望的」な環境に身を置いても、なにがしかの「望み」を抱いているモノなんです。

何か方法があるのでは…。誰かが助けてくれるのでは…。奇跡が起こるのでは…。

具体的な方法論は一切浮かばなくとも、どこかに光を探しているんです。

苦境の中で、自殺を選択してしまう人ですら、望みを持って死んでいくのです。

「死を選択したら、今より楽に違いない。」

「楽になるはず」という望みを持って死んでいくのです。それを信じて、死んでいくのです。


ですから、苦しみの中にいる時は、あくまで「絶望的」であって、「絶望」ではありません。「望み」は絶えていないのです。


「絶望」は、文字通り「望みが絶えた」状態です。

本当に望みが絶えると、人は、何も出来なくなります。(僕の場合、喜怒哀楽という感情すら、出すことが出来なくなっていました。)


それは、「悲観的な諦め」を通り越した、完全な「降参・降伏」という状態です。

そこまで行き着いてしまうと、後は「なるようになれ」という完全に無防備な態度しか残らない。


そうすると、どうなるかと言いますと…

「望み(欲)」はすでに諦めてますし、誰かや何かに八つ当たりして(怒りを発散して)何とかなるとも思っていません。

つまり「なるようになれ」となっている時、自分では意図せずに「欲」や「怒り」から離れていたんです。



「欲」や「怒り」は『煩悩』ですから、そこから離れてしまうと、ある瞬間…


「あれ?」


…ってなるんです。

不意に、気付いちゃうんです。「仕組み」に。


その頃は、仏教の「ぶ」の字も知りませんでした。精神世界にも興味も関心もありませんでした。

むしろ、嫌いな分野でした。

ですから、その時何が起こったのか、自分で理解出来なかったんです。

一体自分の身に何が起こったのか。

それを突き止めたくて、その後とにかく色んな勉強をしました。

信じていいんだか悪いんだかわからない、「インスピレーション」「自分のモノではない思考」の指し示すものに従って。

そこではじめて「煩悩」という言葉の意味を知ります。

「自業自得」という言葉の、本当の意味を知ります。


「ああ!あの時、僕の身に起きたのは、そういうことだったのか。」


偶然にも「欲」「怒り」という煩悩から離れることで、「智慧」が姿を現してくれたのだと、やっと理解できたんです。




どうでしょう。伝わりますかね。こんなんで…。



←ランキングは上がったものの、ちょっと寂しくなりました。


P.S.

病気でお悩みの皆様へ

今日お話した内容は、あくまで僕個人の経験を綴ったモノです。
ご覧になってどのような感想をお持ちになったかはわかりませんが、やはり、あまり参考に出来るようなものでは無いと思います。
本当は、もっと大切なコトをお伝えしたいのですが、一口に「病気」とは言っても、その方その方で状況が全く異なります。
それゆえ、具体的にあれこれと語るコトもできないのです。

ですが、このことだけは知っておいてください。
病気の原因は「天罰」でも、誰かの「怨念」でも、「祟り(たたり)」でも、「間違った先祖供養の仕方」によるものでもありません。
これまでの自分の生き方の中に理由の見いだせる、原因・条件によって発生する現象です。

「癌」においても、限られた方だけの病気ではありません。僕ら人間の誰もがなりうる可能性のある病気なのです。
癌患者さんは、「この原因がなにかわからない」とおっしゃいますが、ここ最近の日本を眺めてみれば、癌にならないことの方が不思議なぐらい、原因に溢れているのです。
あまりに原因が多すぎて特定できないぐらいです。

どうぞ、誤った宗教観や精神世界のあれこれに振り回されることのないよう、ご注意下さい。

また、仏教の解釈は「超現実的なもの」と書きましたが、それは「諦めなさい」という悲観的な話ではありません。「治りません」という話でもありません。

健康に健やかに生きるすべ、治癒力を向上させるすべ、病気を改善させるすべ等のお話も、シッカリと語られています。

病気になる人・ならない人の違い、治療に時間のかかる人・かからない人の違いなども、明確に示されています。

ですが、これも以前お話したとおり、「方法論」というよりも「存在論」なんです。

簡単に言ってしまえば「病は気から」という一言になってしまうのですが、その言葉を目にしても、その明確な理由や本当の意味を捉えるのは難しいと思います。

僕も未熟故、上手く説明できません。

一応、この後引き続きお話してみようかとも思っていますが、僕の表現の未熟さでは、的確にお伝えできないかもしれません。

なので、代わりにオススメの本をご紹介します。もし、病床にて本を読むことが出来る方であれば、この本を読んでみてください。(患者さんのお世話をされているご家族の方々にもお勧めです。)

こんな、拙いブログとは比べものにならないほど、確実に参考になるものと思います。

『まさか「老病死」に勝つ方法があったとは-ブッダが説く心と健康の因果法則-(アルボムッレ・スマナサーラ著/サンガ:1,680円)』

本屋さんでは宗教カテゴリー(仏教系)の棚付近に置かれているコトが多いかと思います。

コーナー自体もマニアックだし、なんだか難しいそうなタイトルだし、ということで、なかなか手に取る類の本ではないと思います。

ですが、これほど病と心の因果関係がわかりやすく説明されている本は、他に見たことがありません。

何となく取っつきにくいタイトルかもしれませんが、内容は決して難しいモノではありません。ご一読をオススメします。


皆様の一日も早い回復を、心よりお祈りいたします。

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失敗は成功のもと

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えー。

まいどどうも。

悟りの階梯についてお話を続けてきたところですが、今日はちょっと小休止して、他のお話をさせてください。


いえ、ちょっとね、気になるコメントがあったもので…。(すいませんね、めんどくさい性格なものだから、気になっちゃったら、そのままにしておけないんです。^^;)


2008年10月15日投稿「僕がしようとしているコト」のコメント欄にて、Unknownさんから頂いた書き込みです。

*****
ありのままを受け入れるって今を受け入れることですよね?
ならば気付いていないことを気付かせようとすることは、ありのままを受け入れていることなのでしょうか?

*****


これを拝見しましてね、素直に「あー。なるほどなー。」と思いまして。

うん、実はこれ、僕自身もずーっと考え続けてることなんです。

ただ、同じ事を前提としていても、Unknownさんが考えられていることと、僕が考えていることでは、若干の温度差がありそうなので、そこをお話させてください。


僕はなにも、気付かせようと頑張っているわけではないんです。

そりゃ勿論、お話したことの真意がそのまま通じたときは嬉しいし、通じない時は残念に思います。

でも、通じないからと言って、そこで苦しんでいるわけでも、躍起になるわけでもありません。

「通じないなら通じないでしょうがない。」

「理解」と言うことの仕組みもわかっていますし、自分の表現の未熟さも感じています。

予め、そういう気持ちがあるから、伝わらないことに対してのストレスは、さほど大きくはないんです。

むしろ、「じゃあどういう風にしたら伝わるのか」と改めて考えていけることも楽しいんです。

まぁ、その態度を「不謹慎」と捉えられる方もいるかもしれませんけどね。

それはそれで、その人の捉え方だからしょうがない。


そういうスタンスが、僕の中でハッキリ確立しているので、僕は無理に話を聞いてもらうつもりはありません。

「聞いてあげてもいいよ。」という方にだけお話しようと思っています。

勿論、沢山の方に聞いて欲しい気持ちもありますが、わざわざ聞く気も無い人の所に出向いて、「俺の話を聞け」と言うつもりもありません。

なので、僕はこういう「ブログ」という形式の中でお話させていただいています。

聞きたくないなら、こなきゃいいんだから。ね、とてもシンプル。


まず、今回お話したかったコトの1つめは、そういうでした。


で、お話したいコトその2は、以下のコメントについて。

*****
戦争が起きていいじゃない。人殺しが起きていいじゃない。人が無知でいいじゃない。人が常に苦しんだっていいじゃない。人が幸せじゃない生き方をしていたっていいじゃない。人が分からず屋で輪廻転生を繰り返したっていいじゃない。人が自分勝手に生きたっていいじゃない。
そういうことをありのまま受け入れることが大事なのでは無いんですか?

*****

おいおいおい。ちょっと待て。

それでいいわけないだろう。


勘違いや早とちりにもほどがあるでしょう。

どこをどう間違えたら、「戦争が起こっていい」「人を殺していい」「無知でいい」「苦しみ続けていい」「自分勝手に生きていい」になるんだよ?

いいわけないだろう。(Take2)


「ありのまま受け入れる」とは、そういうコトではありません。

むしろ全く逆です。

ありのままを受け入れるコトができていないからこそ、「ありのままを受け入れる」ということの意味が理解できていないでいるからこそ、戦争が起き、殺人が起き、無知なままで、苦しみ続け、好き勝手に生きるなんてバカなことが起こっているんです。

ほっといていいわけないじゃないですか。


「戦争」も、「殺人」も、「無知」も、「苦しみ」も、「自分勝手」も、すべて人間の愚かさから生まれた『失敗』です。

「ありのままを受け入れる」とは、「失敗」は「失敗」として、自分の愚かさをきちんと認める態度です。

「失敗」を「失敗」として、ちゃんと受け入れているとしたら、「また起きていい」という態度にはならないじゃないですか。

「ありのまま」を受け入れずに、「失敗」を認めないでいるからこそ、愚かさの中で苦しむ羽目になっているんです。


そういった本質的なことを、ちゃんとわかった上で、「余計なお世話です。自分が苦しむ原因や仕組みは理解できています。理解した上で、あえて苦しむことを選んでいます。苦痛・苦悩がたまらなく好きなんです。」というのであれば、「あー。そうでしたか。それじゃあ、周りに迷惑かけない程度でお願いしますね。」となりますけどね。

「なるほど、この人は真性のマゾなのだ。苦しみを喜びとして生きているのだ。」ってなりますけどね。


でも、世の中を見回すと、そう言うコトじゃないんですよ。

本当は苦しみたくない人が、自分で自分を苦しめていることに気付かずに苦しみ続けているんです。

無知故に、苦しんでいるのに苦しみにしがみついているんです。

そんな方々に対し、僕たちは「好きにさせとけば?」という無関心な態度でいていいんでしょうか?

僕自身、自分の愚かさに気付いてしまったので、どうしても無関心ではいられないのです。


それを理解した上で、それでもUnknownさんが「私が幸せじゃない生き方をしていたっていいじゃない。人が自分勝手に生きたっていいじゃない。自分の身にどんな迷惑がかかろうと、それを喜んで受け入れます!」って言うのであれば…



是非ご住所を教えてください。

後日、有志を募って、リサイクルショップの買取スタッフと共にお伺いいたします。


※とはいえ、Unknownさん、コメントありがとね♪



←現在僕がとっている、唯一の宣伝方法です。

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一来果

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さて、それでは次なるステップ「一来果(いちらいか)」へ向けてお話を続けていきましょう。

「預流果」までは、何かを切っ掛けとした偶然や説法など、いわゆる「外的要因」によって迎えることも可能でしたが、ここから先は「自力」でしか進めません。

日々の精進(一来向)と瞑想修行が必要になります。(「必要となります」とは言っても、義務でも強制でもありません。ごく自然に、そういう姿勢になっていきます。)

また、「瞑想修行」と聞くとどこか仰々しいですが、あまり難しくは考えないでください。

「ゆっくりと、心をなだめてあげる。」まずは、そのぐらいの気持ちで捉えていただければいいかと思います。


欲や怒り、妄想など、日々自分の心を掻き乱しているあれこれを静め、精神状態がスーっと落ち着いてくると、徐々に思考が明晰になり、智慧(真理を見極める認識力)が現れてくるのを感じることが出来ます。

その心の落ち着きが、ある一定のラインまで静まると、もう一度あの時の「無我(私がいない)」という瞬間が訪れます。

2度目の内的体験。それによって真理に対する確信が、よりいっそう高まります。

「ああ、やっぱり! あの気付きは、間違いでも、勘違いでも、気のせいでもなかった!」

これを「一来果」と言います。


さて、前段階の「預流果」では、「有身見・疑・戒禁取」の3つの煩悩が消えました。

「一来果」を迎えると、どうなるのでしょうか。


「貪欲(欲)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)」の『三毒(三大煩悩)』、それらが弱くなります。







「え?」



いえ、ですから、「欲・怒り・無知」が弱まります。



「何かの煩悩が消えるのではなく、弱まるだけ?」



はい。それだけ…ですが、なにか?



「地味…ですね。」



ええ。地味ですね。

地味ですが、何かを死に物狂いで追いかけることもなく、誰かや何かに必死にしがみつくこともなく、執拗に怒り続けることもなく、しつこく悲しみ続けることもなく、思考がクリアで何事にも要領よく対応できる様になっているので、以前と比べると、格段に幸せになっています。

自分の「あり方」がハッキリしているので、誰かや何かに流されることも減っていきます。

物事の因果関係を明確に捉えられるようになっていくので、物事がスムーズに進むようになり、強く望まなくとも、希望は自然と叶っていきます。

穏やかに、朗らかでいられるようになります。

煩悩が薄れれば薄れるほど、自由になっていくことを実感しているので、自ずと修行も進みます。



「あぁ。そう言われると、なんだか幸せそうでいいですね。」


でしょ?

でも、そうとはいえ、やっぱり「修行段階」であることには間違いありません。

ですから、この段階で死んでしまったとしたら…


「死んでしまったとしたら!?」


もう一度、人間界に生まれてくることが確定します。


「どうしてですか?」


まだ完全に悟っているわけではないですし、この上の段階「不還果(ふげんか)」の様に梵天界へ遊びに行くこともできません。

完全な悟りのために、もう一度「再挑戦」しなければならないんです。

そのためにもう一度だけ輪廻しなければならないのですが、人間界より下の世界は、修行の必要性を感じない愚かな世界ですし、天界は「楽」を感受するだけの世界ですから修行にはなりません。

ですから、その修行のためには、人間界が必要なんです。

もう度だけ、人間界にる必要があるので「一来果」と言います。



←地味な作業にご協力お願いします。

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