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眼鏡

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前にね、竹彩に「ねぇねぇ、竹彩はパパのどんな所が好きなの?」って聞いてみたら、

川゜・∀・) 「めがね」

って言われてました。

しばらく時間をおいて同じ質問をしてみても、やっぱり

川゜・∀・) 「めがね」

って言われてたんです。


で、こないだママさんが「ねぇねぇ、パパの嫌いなところってある?」という質問をしてみたら

川゜・∀・) 「めがね」

って言ってたそうで


どっちにしろ、彼女には僕の眼鏡しか印象に残っていないようです…。

あ、どうも、ご挨拶が遅くなりました、眼鏡男子です。(右手中指でニヒルに眼鏡のブリッジを持ち上げながら)


さて。

先ほど、先日のエントリ『「この世」とは何か』に、こんなコメントをいただきました。

*****

前に雲さんは、言っていたよね。

人間が生まれてきた目的は「魂を漂白」することって。

それと、「思い出すこと」とは
どう繋がりがあるのですか?

*****

うん。

実はコレ、僕が言いたいことは同じ事なんです。

同じ事を示すための、表現の違いです。


そこに共通するのは「曇りを取る」といったニュアンスです。

視界を遮っていた要因や、ありのままが見えなくなってしまう「歪み」を取ることで、本当の世界がクリアに、鮮明に確認出来るようになる、という意味合いです。

汚れたガラス窓を拭くことで、外界が鮮明に見えるようになるように。

大事な所をひた隠しにしていたモザイクを除去することで、局部の本当の姿があらわになるように。


要は、歪められてしまったものの見た方・捉え方を、本来の状態に戻しましょう、という話なんです。

ここ、大事ですよ。

ものの見方を「変えましょう」ではなく、「元に戻しましょう」なんです。

この違い、通じますかね。

歪んだ視力を矯正する為の眼鏡を探すのではなく、いままで無自覚のまま着けていた眼鏡の存在に気づき、それを外しましょう、という話なんです。

自分の目が悪いから眼鏡を着けるのではなく、「今こうしてものが歪んで見えているのは、元々は正常な視力状態なのにも関わらず、度のきつい眼鏡をかけていたからなんだ」ということを思い出すこと。

それですよ、という話なんです。

本当はみんな目が良いのに、なんでだか「私は物凄く目が悪いんだ」と思い込んじゃってて、より度のきつい眼鏡を探し続けているんです。

新しい眼鏡を手にしては、「ああ、やっぱりこの度数は合わない。歪んで見えるし、頭痛もしてきちゃう」って、また別の眼鏡を探してるの。

それでさらに度のきつい眼鏡をかけてみたり、近視用のレンズから遠視用に交換してみたり、乱視矯正にチャレンジしてみたり。

どんな眼鏡をかけたって、合わなくて当然ですよね。

だって、元々目はいいんだから。

中には、サングラスかけている事を忘れて「ああ、どこを見ても暗い…」ってぼやく人がいてみたり。


マスター達はみな「その眼鏡をはずして外に出てごらん。キラキラした、とても素敵なまばゆい景色が待っているから」って言ってくれてるんだけど、「いやいやいや!とんでもない!眼鏡なしじゃ不安で不安で、とても道なんか歩けないですよぉ!」って、そうやって眼鏡に執着しているんです。

通じてますかね?


じゃあなんだってそんな必要のない眼鏡なんてかけたのさ、って言ったら、やっぱり「自分の視力を確認するため(思い出すため)」なんですね。

このこと、阿部さんの表現だとこうなるわけです。→「続・たった一つの情報」


で、この眼鏡のことを、「煩悩」とか「観念」とか「思考」って言っているんです。

その眼鏡を外すだけでいいんですよって。

新たな眼鏡を探す必要なんてないんですよって。


だから、以前お話しした「酔っぱらい」の例えも、「自我と真我の違い」の話も、物事の捉え方のお話も、結局は同じ事をお話しているんです。

表現の仕方は違うけど、矢印がさしているのは同じ所です。

で、「じゃ、その矢印って、一体どこを指しているの?」っていったら「あそこ」じゃなくて「いまここ」なわけですよ。やっぱり。


←難しい話をしているつもりはないんだけどなぁ…

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月を指す指

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東京でのコラボ講演会「阿雲の呼吸」に沢山のお申し込みをいただき、ありがとうございました。

お陰様で、昨日の夜をもちまして第一部・第二部ともに全席完売となりました。<(_ _ )>

皆様のご期待に沿えますよう、精一杯お話させていただきます。


僕がこうして「精一杯お話させていただきます」なんて言うと、阿部さんに「いや、精一杯しゃべられたら僕の話す時間がなくなるから、ほどほどにしてください」と言われてしまいそうですけどね(笑)。


まぁ、どちらが話すにしても、お伝えしたいことの核は同じです。

その表現の仕方やアプローチの方向に違いはありますが、基本的にお話しているのは同じことです。

言葉としては正反対の意味で感じられることでも、同じ事を指していることもあります。

なので、言葉に囚われすぎていると、僕と阿部さんの話に矛盾が発生しているように感じてしまうこともあるかもしれません。

たとえば…

そうですね、仮に阿部さんが「手放す」というキーワードでお話している流れを受けて、僕は「受け入れる」というキーワードで繋げる事があるかもしれません。

「手放す」と「受け入れる」は、その言葉の意味だけを捉えるとまるで「対極」にあるものとして感じられますが、話のニュアンスを把握している人にとっては、それは時に「同義語」として感じられます。

やっぱり厄介ですね、言葉って。

パーマンのコピーロボットみたいに、おでこをくっつけたら「ピッ」と思いがそのまま伝わるようなことでも出来たら、通約不可能性なんて起こらないのにね。


仏教の世界で語られる「月を指す指」のお話って知ってます?

これは、「どうやったら幸せになれるのか」とか、「どうやって悟るのか」という方法論ばかりに囚われていると、幸せや悟りというものの本質が見えなくなり、逆に遠く離れていってしまう結果になってしまいますよ、という事を伝える例え話なんですけどね。


ブッダ曰く、「わたしが月を指差すときには、指ではなく月を見なさい。言葉は指にあたり、真理が月だ。言葉にのみ囚われることは、指を見て月を見ないことと同じです。」と、まぁそういうお話。


先日もコメント欄にて「言葉ってなんだろう」といった趣旨の書き込みがありましたが、そういう意味では言葉はやっぱり「道しるべ」ですよね。

言葉そのものが本質なのではなくて。

矢印(言葉)そのものではなく、矢印(言葉)の指す方向を見ないとね。

で、矢印の質にも色々あるけど、どこを指しているのかが曖昧なら、どんなに豪華な標識だって無意味なわけで。

逆に、間違って「用」って書いてる道しるべだって、的確に「月」を指し示しているならそれはそれである意味正解だし。


さらに話を裏返せば、マトリックスの中では「言葉そのものが現実(A)を創る」、となります。

それゆえ現象界においての言葉は非常に大切なものです。





で、僕は今日のお話を通して何を伝えようとしていたんでしたっけ?(←道しるべを見失っています)



←←←(大事なのは、矢印ではなく、矢印の指し示すその先でありまして…)

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多多ー多!

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ヾ(≧▽≦)ノ 「多多ー多ぁぁぁぁぁぁ!」


東京でのコラボ講演会「阿雲の呼吸」に沢山のお申し込みをいただき、ありがとうございます。

昨日の夕方に阿部さんから連絡があり、なんと、昨日の段階ですでに予定数を超えてしまったそうです。

そこで、会場へ問い合わせをし、急遽大きいホールに借り直したそうで…。

<(_ _ )> ありがとうございます。


なお、会場を拡大したものの、第一部・第二部ともに残り数席という状況ですので、参加ご希望の方はお早めにお申し込みください。

お申し込み受付はコチラ、阿部さんのブログ「いまここ塾」にて Thanks! Sold Out


それと、コメント欄にて「講演会の内容ですが『あっ』の部と『うん』の部では内容が違うのでしょうか?」というご質問をいただいておりましたので、この場を借りてお返事させていただきます。

正直にお話します。

僕も、阿部さんも、タイトルは決めたものの、そこで何をお話するかは、いまだ定まっておりません。

これは、東京に限らず、どこの会場でも同様です。

先日阿部さんも同様の趣旨の記事を書かれていましたが、決して手を抜いているワケではないんです。

勿論、毎回テーマに沿ったお話を進めますが、その中身はその場の流れに合わせて一番適したものを選びながらお話しています。

阿部さんとのコラボ講演会は、僕たちが一方的に話す場、ということではなくて、会場に来てくれた方々と共有することによって初めて出来上がります。


また、それこそ証明せよと言われても到底無理な話になってしまいますが、べしゃりスイッチが入っているときの僕は、単なるスピーカーとなっている場合があります。

僕の考えをお話しているのではなく、考えることなく自然と言葉が流れてきます。

で、スイッチが途切れないうちに、全部お話し尽くしてしまいたいという気持ちから、どんどん早口になってしまいます。(そうすると阿部さんから「相づちをうつ暇もない」と言われてしまいます…あはは…。)

以前も書きましたが、そういうときは「意識的におしゃべりを始める」のではなく、「勝手におしゃべりが始まる」んです。


あぁ、なんとも表現しがたいこの感じ。なんと説明したらよいのやら。

僕としてはそういう感覚でお話を進めているのですが、ご覧になられている皆様が、それをどのように感じられているかは、やはり僕にはわかりません。

僕はこういった講演活動をしてきたプロでもありませんし、長年に渡って研究してきたものを発表しているわけでもないですし、霊視など特殊な能力を駆使できるわけでもありません。

単に僕の体験を通して得た確信をお話しているだけです。

その確信もまた「それこそがお前のマトリックスではなのか」と詰め寄られ、その信憑性について言及を求められましても(できるだけお答え出来るよう努力はいたしますが)絶対的な根拠を用いて返答する術を持ち合わせておりません。

やろうと思えば、自分の書いた記事を僕自身の手で批判的に書き直すことだって可能なぐらいなのですから、最終最後には「だってそうなんだもん」という、子供の様な態度で開き直ることしかできないのです。

言ってしまえば、異常な精神状態を体験してしまった哀れな男の、いかがわしい戯言とも取れるわけで。


そんなこんなを予めご理解いただき、それでも「聞いてやろうじゃないか」と言ってくれる心の広い方々に対してだけ、本気でお話したいと思っております。(まぁ、わざわざそんな事を言わなくとも、至極当たり前な話ですが。)

「なにを都合のいいことを」、とお思いの方もおられるかとは思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします。



←「押してやろうじゃないか」と言ってくれる心の広い方ですか?

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あうんの呼吸

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【あうんの呼吸】

二人以上で一緒に物事を行うときの、互いの微妙な気持ち。また、それが一致すること。
2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさま。


と、いうことで、そんな意味で使われているこの「あうん」、もともとはなんの事かご存じですか?


漢字で書くと「阿吽」となります。

もとは密教の真言で、宇宙の始まりと終わりを表す言葉と伝えられています。

「あ(阿)」、と口を開くことで万物の始まりを、「うん(吽)」、と口を閉じることで終わりを表現しています。

面白いですね、もともとはサンスクリット語なんだけど、今の日本語にあてはめても、同じく「あ」で始まって「ん」で終わるってのは。


で、この「あ」と「(う)ん」という音をそのまま形にして表現したのが、神社の前に鎮座している2匹の狛犬(こまいぬ)や沖縄のシーサー、法隆寺の金剛力士像など。

神道・仏教の宗派を問わず、宗教で対として表現されるモチーフには口を開けている阿形(あぎょう)と閉じている吽形(うんぎょう)でコンビとなっているものがあります。


そんな「阿吽」にあやかりまして、今度の阿部さんとのコラボ講演会のタイトルを「阿雲(あ・うん)の呼吸」としました。

あ、はい。

なんだかありがたいものかのように書いてみましたが、単にダジャレです。


で、ダジャレついでに、第一部を「あっ!」で「気づきの章」、第2部を「う~ん!」と伸びをして「目覚めの章」ってことでお話を進めさせていただきます。


「講演会」なんていうと、なんだか小難しいお話が続きそうな印象もあるかとは思いますが、なんせスピーカーが僕と阿部さんですからね。

実際にご参加された方ならご存じだと思いますが…まぁ、あのノリですので。

肩肘張らず、お気軽にご参加ください。


ってことで!

12月のコラボ講演会 in 東京「阿雲(あ・うん)の呼吸」の受付を本日より開始しました。

お申し込み受付はコチラ、阿部さんのブログ「いまここ塾」にて Thanks! Sold Out


また、11月の講演会 in 大阪「イク時は一緒!」も引き続き受付中です。


ブログではお話していない「ここだけの話」や、文字だけでは伝えきれない「ニュアンス」は、実際にお会いすることができる講演会ならではの醍醐味。

皆様、是非お誘い合わせのうえ、ご参加いただければと思います。


ヾ(≧▽≦)ノ どうぞ、よろしくお願いいたしまっす!


←今日も押してくれる?(「あ、うん。」って答えて欲しい)

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戒禁取

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信じる者が救われるのは、当然である。なぜなら、救われたくて信じるからである。

したがって、信じない者が救われないのも当然である、そのような仕方で救われることを、拒否するからである。

ところで、人が何かを信仰するとき、たとえばオウムのような明らかにウソとわかる宗教でも、信じられる人はそのことによって救われているからいい、という言い方をする人もいる。

しかし、これは本当だろうか。

*****

上記は、以前より僕が敬愛する哲学者、故池田晶子先生の著書「残酷人生論」からの抜粋なのですが、このこと、皆様どのように考えられておりますでしょうか。

この疑問提示に対しての氏の明快な見解は、是非ご紹介の本をご一読ください。


で、今日はチョットこれに関連した「戒禁取」についてお話を進めてみたいと思います。


覚えていますか?

戒禁取とかいて、「かいごんじゅ」と読みます。

「存在の根源」に対しての気づきが起きたとき、真っ先に消えると言われる煩悩の一つです。(その解説は以前の記事をご参照ください。)


まじないや占い、ジンクスに始まり、祖霊信仰に基づく生活習慣など、科学的根拠に基づかず、経験や文化に基づき唱えられる場合が多い縁起担ぎに関するアレコレ。

言われたとおりにやってみたら、確かに効果が現れた、いや、私の場合は何も無かったなど、どうにも確証を取れないこれらのことも、先の一文と同じようなことでね。

よくよく考えてみれば、以外と単純なロジックで。


信じる者が救われるのは、当然である。なぜなら、救われたくて信じるからである。

したがって、信じない者が救われないのも当然である、そのような仕方で救われることを、拒否するからである。


と、まさにこの様になってしまうわけですが、本当は因果関係のない物事に対して「結果、実際に救われたから本当のことなのだ」となってしまうのはやはり「マトリックスにおいて」の話なワケです。

そのマトリックスに嵌ってしまうと、まさにオウムの洗脳にコロリとやられた方々と似たような状況なわけで。

「お月様に向かってお財布ヒラヒラしたらお金が入りました!」だとか、「モニャモニャと言われた呪文を繰り返し唱えてたら幸せになりました!」とか、「お参りの仕方をどうこう変えたらお通じが良くなりました!」だとか、その様に思えた所で、ウソはやっぱりウソ。

結果が実際にそのように見えたとしても、その因果関係を証明したことにはなりませんし、また、「では、それをしなかった場合はどのような結果になっていたか」という検証も、事後となっては確認不可能なワケです。

そのうやむやな状況を、もっともらしく説明したところで、マンガ雑誌の広告ページでみたことのある「彼女の出来る祈祷済みペンダント」や「お金持ちになれるマジックストーン」とさほど変わりはありません。

とはいえやはり『信じる者が救われるのは、当然である。なぜなら、救われたくて信じるからである』という言葉のとおり、ペンダントを買って、その後彼女が出来ちゃった彼にしてみれば、その因果関係を無理矢理ペンダントに結びつけて捉えてしまう可能性があるわけで。ああ厄介。


さて、この「ウソ」のことを脳科学や認知学の世界では「情報のバイアス」という用語で説明します。

「洗脳」よりもっと単純で「勘違い」に近い思考のことです。


この事を、スポーツ界で実際にあったジンクスを例にご説明します。

その昔、アメリカのバスケットボール業界にある噂が広まりました。

それは、あるスポーツ雑誌の表紙を飾った選手は、その後決まって落ち目となってしまう、というジンクスでした。

確かに表紙を飾った選手達は次々と落ち目となり、それゆえ選手は皆その雑誌の表紙に登場することにひどく脅えていたそうです。

当事者たちはコレを「ジンクス」として脅えていましたが、実は当然と言えば当然のロジックがあるのです。


雑誌の表紙を飾る、ということは、当然その時最も活躍しているスター選手が掲載されることとなります。

と、いうことは、掲載時は、その選手のパフォーマンスがピークに達しているワケです。

そこから比較したら、どんなに超人的な選手だってピークをずっと持続し続けるのは至難の業なわけですから、その後が「落ち目」に見えて当たり前です。


これには逆のパターンも考えられます。

そうですね…。

これは仮に、部下を叱るのが大好きな社長さんとでもしましょうか。

この社長さん、部下の仕事を褒めることはありません。

「人間ってのは、褒めるとそのあとヘマし出すもんなんだよ。褒めてみたこともあるけど、やっぱりその後はろくな事がないね。むしろビシバシ叱って灸をすえてやった方が好成績を残す結果につながるんだよ。」というのが持論です。

でも、これも先の勘違いと同じでですね、部下を褒めるってことは、すでに好成績を収めている時ですよね。そこから調子をおとしちゃうと、まるで褒めたことが悪かったかのように見えてしまいます。

逆に、部下の成績やモチベーションが上がる手前の停滞期に叱るから、薬が効いたみたいに見えているだけ。


これ、先ほどの「彼女ができるペンダント」と同じことです。

そのペンダントを買うってことは、「今現在彼女がいない」ってことですから、そこから彼女ができたらまるでペンダントの御利益かの様に見えているだけです。


こういう偏見を「情報のバイアス」がかかった状態、と言います。ジンクスに限らず、この手の勘違いってのは、僕自身も意外と色んな所でやってしまっています。


古今東西いろいろな縁起担ぎがございますが、まぁ、ほどほどにしておきましょうね。



←残念ながら、押したところで何の御利益もございません。(いや…もしかしたらあるのか?)(←検証不可能です)

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