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※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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(てきとーなメロディーにのせてどうぞ)

仕事・仕事・仕事納めだよ~♪

明日から~♪

夢の9連休なの~♪

でも・でも・でもね~♪

昨日の夜のこと~♪

奥さんから~♪

川* ̄д ̄;) 「え? 仕事4日からじゃないの?」

( ̄д ̄ ) 「いや、7日からだよ。」

川* ̄д ̄;) 「…。じゃあ、9日間も連続でパパと一緒なの?」

って言われたよ~♪



(メ ̄Д ̄)ノ^┻━┻  「いちゃ悪いかゴラぁ~!!」



あ、こんにちは。明日から、家族と穏やかな年末年始を過ごす予定の黒斎です。

そういうわけ(どういうわけ?)でして、仕事納めに合わせ、本年の更新は本日で終了。…の、つもりです。(気まぐれで更新するかもしれません。)

今年も、皆様ご多忙中にも関わらず、「あの世に聞いた、この世の仕組み」においで頂き誠にありがとうございました。

運命のいたずらとはいえ、このような形で皆様にお会いでき、言葉に言い尽くせない喜びと同時に、感激の極みでございます。

また、連日お越し頂き、ランキングボタンやコメントなどにご協力いただきました皆様に、なんとお礼を申し上げてよいものか、お礼の言葉もみつかりません。


( ̄ω ̄) 『みつからないから言いませんが。』


Σ( ̄Д ̄;) 「ええっ!? なにげに去年と同じネタ!?」



閑話休題。


この年末、本屋さんを覗いてみたら、なんだか、やたら「読書案内」が目に飛び込んでくるんです。

『FIGARO』が「目覚めよ、私!フィガロの読書案内202」と特集を組んでいたり、『BRUTUS』の表紙では太田光さんが「読書計画2008」なんてプレートを持っていたり、はたまた今年の「このミステリーがすごい」や「このマンガがすごい2008」コーナーが出来ていたり…

さらには、時同じくして、いろんなblogなんかでも、「私のオススメ」的な記事が増えてたり。

あれなんですかね。年末年始って、やっぱり読書される方が多いんですかね?


で、結局、何を言いたいかと申しますと、「僕もそれ、年が明ける前にやっておきたーい☆」って、それだけの話です。


ってことでサクサク進めまーす。

僕が日々お話しているあれこれが、もっと分かりやすく書かれている、ぜひともご一読いただきたい品々を集めてみました。各出版社の書評を添えてご紹介します。

ヾ(≧▽≦)ノ 「輝け! 第1回 黒斎が勝手に選ぶ、僕が好きな本大賞~!」


<黒斎レコメンドその1>

『つっこみ力』パオロ・マッツァリーノ著
ちくま書房 定価:735円(税込)

愛と勇気とお笑いと。

世の中をよくしていくために、「正しい」議論をしていこう!ってそれは大いにけっこうですけど、でもその議論、実は誰も聞いてなかったりなんかしてません?ちょっと、エンターテイメント性に欠けてない?そこで本書でおすすめするのは四角四面な議論や論理が性にあわない日本人におあつらえ向きの「つっこみ力」。謎の戯作者パオロ・マッツァリーノによる本邦初の「つっこみ力」講演(公演)会、おせんにキャラメルほおばりながら、どうぞ最後までお楽しみくださいませ。

「愛とは、わかりやすさである。」という、パオロさんのストレートな思いが大好きです。


<黒斎レコメンドその2>

『哲学的な何か、あと科学とか』飲茶著
二見書房 定価:1575円(税込)

きっと、あなたの常識がひっくり返る。

考えるって、ちょっといいかも! オモシロすぎて中毒になる哲学・科学の有名問題を難解な用語をいっさい使わずに解説した画期的なテツガク入門書。「自分のようなココロを持っているのは、本当は自分だけではないのか?」「脳を分割したら、『この私』の意識はどうなるのか?」などなど、日常見すごしてしまいがちな疑問にひとたび気づいたら、もう抜けられない。ハマってしまいます。特に「クオリア」「哲学的ゾンビ」「思考実験」「脳分割問題」は必読。あなたのジョーシキが崩れるかもしれない。同名の人気サイト、ついに書籍化!

気になる方は、同名のサイトがありますので、まずは覗いてみてください。


<黒斎レコメンドその3>

『99.9%は仮説~思い込みで判断しないための考え方~』竹内薫著
光文社新書 定価:735円(税込)

あたまが柔らかくなる科学入門。

「最近どうも頭が固くなってきたなぁ」
そんなあなたにつける薬は“科学”です。文系理系を問わず、科学のホントの基本を知るだけで、たったそれだけで、あなたの頭はグニャグニャに柔らかくなるかもしれないのです。科学の基本---それは、「世の中ぜんぶ仮説にすぎない」ということです。思いこみ、常識、前例、先入観、固定観念……そういったものにしばられて身動きがとれなくなっている人っていますよね? 「なんでこんな簡単な話が通じないんだ!」ってイライラしますよね? そんなときは、気休めにこの本を読んでみてください。きっと、ものの考え方から世界の見え方まで、すべてがガラリと音を立てて変わるはずですから。

科学と哲学は、実は仲良し。
上記の「哲学的な…」同様、世の中にはびこる固定観念を気持ちよく破壊してくれます。


<黒斎レコメンドその4>

『アキハバラ@DEEP』石田衣良著
文藝春秋 定価:1700円(税込)※文庫は720円(税込)

秋葉原のネット・ウォーズ、開戦!!

「池袋ウエストゲートパーク」シリーズにハマったという方に、ぜひ読んでいただきたいのが本書です。
秋葉原の小さな会社「アキハバラ@DEEP」で働く六人の若者。それぞれ心と体を病み、社会からドロップアウトしてしまった者ばかりだが、最先端の技術と豊かな才能を結集して、AI機能をもつ画期的なサーチエンジンを開発し注目を浴びる。ところが、IT長者の標的とされ……。現代感覚の妙手ならではの、夢と希望にあふれたサクセスストーリーです。

僕の座右の銘は、「THE ONLY WAY IS UP.」かもしれません。
なんだかね…この話、ウンコクサイんですよ…とっても…


<黒斎レコメンドその5>

『残酷人生論~あるいは新世紀オラクル~』池田晶子著
情報センター出版局 定価:1470円(税込)

『14歳からの哲学』の著者による、人生の真実を知るための言葉。

科学も宗教も哲学も、すべてがここへと回帰する人類への異論!生きて死ぬのはなぜですか?あなたであるのはなぜですか?気鋭の哲学者が当たり前の人生観・世界観を疑い、見せかけの知性を容赦なく一刀両断する。

しつこい? いや、大好きなんだよね、池田晶子さんの本…
「宇宙立この世学院」シリーズの締めは、この本に書かれている内容に繋がる予定です。
先走りぎみのあなたにオススメ。


<黒斎レコメンドその6>

『ほとんどすべての人のための《神様学》入門』村松恒平著
洋泉社 定価:1260円(税込) ※絶版

INTERVIEW WITH GOD.

準備さえ整えば、神様はやってくる。神様について考えることは精神の冒険である。無神論者の家庭に育ちながら、若い頃より神様の世界に興味を持った著者が、神様へのインタビューを中心に、神様の基礎知識をまとめる。

うわ~。もはや絶版になっていたのかぁ~。
これ古本屋さんで見つけたとき、ホントにびっくりしたんですよ。
うわ!僕と同じことしてる人がいた!って。^^;
僕と雲さんの対話がお好きな人は、多分好きなんじゃないかな。


<黒斎レコメンドその7>

『都立水商!』室積光著
小学館文庫 定価:630円(税込)

水商売専門の都立高校発足!?

平成××年3月2日、東京都教育局は、水商売に関する専門教育を行う都立高校を歌舞伎町に設立すると発表。正称「東京都立水商業高等学校」。ホステス科、ホスト科など七学科で発足された「水商」だが、集まったのは問題児ばかり。彼らに水商売の未来を支えることはできるのか!? その道のプロが指導する奇想天外な授業、みんなが燃えた甲子園…。世間の白い目なんか笑い飛ばす、エネルギッシュでちょっと泣けちゃう異色の青春コメディー。

いや、ただのエロコメ小説なんですけどね。。。
実は数年前、僕が鬱真っ只中の時に、雲さんに薦められて読んだ本なんです。
雲さんが僕に薦めた、その理由は…
いずれ書きます。


<黒斎レコメンドその8>

『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』安部司著
東洋経済新報社 定価:1470円(税込)

「食品添加物の神様」が明かす真実。

添加物の世界には、消費者には見えない、知らされていない「影」の部分がたくさんあります。食品製造の「舞台裏」は、普通の消費者には知りようがありません。どんな添加物がどの食品にどれほど使われているか、想像することさえできないのが現状です。本書は、そんな「裏側」を告発するはじめての本だと思います。

この本は、黒妻さんの紹介で読みました。
凄いです。著者安部さんの物事の捉え方や行動指針の考え方、すばらしーです。
あー。安部さんの講演、聞いてみたい。


ご紹介したい本は、まだまだ沢山あるのですが、とりあえず、このぐらいにしておきます。


以上、「輝け! 第1回 黒斎が勝手に選ぶ、僕が好きな本大賞~!」でした!!



( ̄¬ ̄)ノ”( ̄¬ ̄)ノ” 『そそれれでではは皆皆様様、、良良いいおお年年をを!!』


←今年1年ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

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宇宙立この世学院.11

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「お墓参りや、仏壇に手を合わせる際、亡くなった方にお願い事や助けを求めるのは間違っている」という話を聞いた事はないですか?

この理由、やっぱりこの世を「学校」として考えると、分かりやすいんです。

亡くなった方・先祖ってのは、いわば先に卒業していった「OB・OG」です。

学校を卒業し、社会へ旅立った先輩に、「新しい教科書や教材をください。」ってお願いする図って、なんだか変ですよね。

社会での新しい生活を向かえ、忙しくしているであろう先輩に、「この問題分かんないんで、代わりに解いてください。」ってのも変ですよね。

先日お話したとおり、自分を取り巻く環境が、自分にとっての「教科書・教材」です。

で、僕たちが日頃の生活の中で遭遇する「諸問題」が、その教科書に掲載されている「問題」。

自分に出題されている問題が分からないからといって、それをOBに代行をお願いするのはおかしな話です。

だって、自分で考え、答えなければ、その人の学力・能力にならないじゃないですか。


「宇宙立この世学院高等学校」は、高得点を取得するための学校ではありません。

生徒ひとりひとりの学力を向上させる為の学校なんです。(学校って、本来そういう事だと思うのですが…)

だから、あの手この手でズルをして、出題されている問題の答えを埋めたとしてもダメなんです。

「解き方」をしっかりマスターしていなければ、同じような問題が何度でも出題されます。

この学校で重要視されるのは、「答え」ではなく「解き方」を身につけることですから。


だからね、卒業したてのOBは、手助けしちゃだめだよってことになってるんです。


あと、亡くなって間もない方は守護霊(主護霊)になれないって話、聞いたことありません?

これもね、同じような話なんですよ。


高校卒業してすぐに、そのまま教師にはなれないでしょ?

それと一緒なんです。

教師になるためには、高校を卒業した後に大学に入って、試験を受けて、教員免許を取らないといけない。

それと同じです。

「卒業後間もなく」ってことは、「在校生とそんなにレベルは変わらない」ってことです。

後輩に、「先輩教えて~!」って助けを求められて、『よし!助けてあげるぞ!』なんて感じで、代わりに答えを出したとしても、もしかしたら「間違った答え」かもしれないもんね。

だから、サポートを許されたとしても、せいぜい「助手」ぐらい。自分が主導権を握って教壇に立つことはできません。

で、ご先祖様が守護霊についてくれるってのは、ちゃんと大学卒業して、教員免許を獲得した先輩が、自分の母校に戻って教師になるって感じかな。


あ、あと、「補助霊」って聞いたことあります?

これは、先生は先生でも、どっちかというと「特別講師」って感じ。

教育大学を出て、教員免許を取得したってワケではないんだけど、ある分野に秀でているがゆえ、「特別講師」として教鞭をとっている。

教鞭はとっていても、「特別講師」だから「担任(主護霊)」ではない。



えーと。なんの話だっけ?

とりあえず、年末年始の帰省で、実家の仏壇に手を合わせる際は、「お願い事」じゃなくって

ヾ(≧▽≦)ノ 「センパーイ!元気でやってる? 僕たち在校生も、元気でやってるよー!」

って感じの「報告」にしておきましょう。



←手は合わせなくていいです。ポインタを合わせてください。

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宇宙立この世学院.10

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ジュセリーノは知りませんが、トツギーノなら知ってる黒斎です。

1週間遅れのネタでこんにちは。


えーと。流行ってるんですか? 予言。


じゃ、流行に乗って、僕も予言しちゃおう!

せっかくですからね、的中率100%の予言にしましょう。


では…










m9( ̄д ̄) 「あなたも、必ず死ぬ!!!」






m9( ̄д ̄) …







[電柱]ノシ  電柱に隠れーの。



[電柱]д ̄) チラッ  様子見ーの。



[電柱]д ̄)ノ”  手ぇ振りーの。



[電柱]д ̄)   お茶濁し~の、



[電柱]д ̄)  川=公=川  トツギーノ。




いや…

くだらない話はさておき…

ホントに僕たち、いつかは絶対に死ぬんです。

例外は、なしです。

死なない人がいたとしたら、それは多分、人間のカテゴリーに入らないですよね。

さて、ここで。

不思議だと思いません?

自分の命なのに、自分で自分の死をコントロールできないって。

いままで、とんでもない数の人たちが亡くなっているのにもかかわらず、自分の意志で死ねた人はいないんです。

あ。勿論、自殺は別の話ですよ。

それ以外での死ってのは、時期も、死因も、自分で選べないんですよね。僕たち。

そうやって考えてみると、やっぱり「生きている」つもりでも、「生かされている」んですよね。


いくら自分が勉強した気になっていたとしても、

( ̄▽ ̄)ノ” 「それじゃあ僕、そろそろ卒業したいんで、これから心臓止めまーす!」

ってワケにはいかない。


卒業証書を渡すのは、「生徒」じゃないよね。

どこの学校を見たって、その役割は「先生」の仕事だ。


単位取得のジャッジってのは、やっぱり自分を超えた「何か」が行っている。


いまだこうして生かされているって事はやっぱり…


(  ̄Д ̄) 『しっかり勉強し~や。』


ってことだと思いません?




←ブラウザ立ち上げ~の。blog読み~の。ボタン押し~~の、トツギーノ。

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宇宙立この世学院.9

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わたくし、ここんとこなんだか偉そうな事ぬかしておりますが、「そう言うお前はどれほどの学力だよ。」なんてツッコミを入れられますと、

(≧▽≦;)ゞ 「あいたたたたたっ☆ いや、わりぃ、ぜんぜん勉強してねぇ…」

ってなるんですけどね。


そんな自分を棚に上げて、今日も元気にお送りしております。「あの世に聞いた、この世の仕組み」です。毎度どーも。


えー。棚上げついでにですね、今日はこんな話題。

『学力低下』について。

まー、なんですか、世の中的には「ゆとり教育」のせいだとか、「教師の質の低下」のせいだとか、「ゲームやマンガなど誘惑の増加」のせいだとか、「授業時間の削減」のせいだとか、ナンヤカンヤやってるそうなんですけど、僕的には、

(-公-;) 「論点はそこなのかなぁ…。」

って気持ちなんですよね。


「学力低下」の一番の要因は、「学ぼうとする意欲の低下」だろう? 違う??


学びたくないヤツに、「勉強しろ」っつったところで、勉強しねーだろよ、って思うんです。勉強したくなかった派の僕的には。


学習到達度世界一を誇るフィンランドを見たら分かるかと思うんですけど、教育コンセプトが全然ちがうんですよね。

未だに他人との「比較」や「競争」をベースにして考えている日本。

それに対してフィンランドの教育コンセプトは「楽しんで学ぶ」なんですね。(行ったことねーけど。)

勉強は、日本では「押しつけられるもの」なんです。何の為の勉強だかわかんない。だから、『受動的』。

フィンランドでは「楽しいもの」なんです。自分の為の勉強なんです。だから、『自主的』。(見たことねーけど。)


<日本:やる気がない> VS <フィンランド:やる気がある>


単に、それだけの差だと思うんです。


大人がさ、「勝ち組・負け組」なんて言って、いまだ「競争」から抜け出せないでいるから、子供に「他人と比較して上か下か」なんていう価値観で教育しちゃうんだよね。

いかに「幸福は、自分が優位であることに比例する」という仮説で生きている日本人の多いことか。(あんま人のこと言えねーけど。)



とりあえず、「比較・競争」は一旦置いといて、「楽しんで」生きてみません?

誰の為でもない、自分の為の人生なんだから。



←押しつけません。「楽しんで」押してください。

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宇宙立この世学院.8

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本日のエントリは長文となります。(とはいえ、そのほとんどは「引用」なのですが。)

でも、とても大切な内容ですので、「じっくり」時間をかけてご覧いただきたく。。。

<(_ _ )>





 多くの人は、社会というものが、何かそのようなものとして存在していると漠然と思っている。でも、考えるということは、漠然と思うことではなくて、正確に知ることだ。さあ、「社会」というものを、その正確な形で思い浮かべてみよう。いや、社会というのではあまりにも漠然としているというのなら、学校でもいい。小さな社会としての「学校」というものを、正確な形で思い浮かべてみてごらん。これが学校ですと、明確に示してみてごらん。

 君はまず、学校の校舎を思うかもしれない。でも、それは学校の“校舎”なのであって、それが学校なのではないね。次に君は、学校にいる人々、いく人かの先生とたくさんの生徒を思うかもしれない。でも、それは学校にいる“人々”なのであって、それが学校なのでもない。あるいは、学校の授業の風景や、規則の数々のことを思うだろうか。でもそれも、学校の授業や規則ではあっても、それが学校そのものというわけではない。じゃあ、これが学校だと言える何かを、目に見える形として示すことはできるだろうか。

 できないね、すごくおかしなことだけど、「学校」なんてものを、目で見たことのある人はいないんだ。なのに人は、それが何か目に見える物のように、自分の外に、自分より先に、存在しているように思い、事実そのようにして毎日を生きている。「社会」というものもこれと同じなんだ。いや、「学校へ行く」とは言えても、「社会へ行く」とは言えないのだから、人が漠然と「社会」と言う時の曖昧さはそれ以上だ。「社会」なんて、いったいどこにどのように存在しているのだろう。

 (中略)

 で、「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。だって、何かを思ったり考えたりしているのは自分でしかないのだから、どうしてそれが「自分の外」に存在しているはずがあるだろう。「社会」は、観念として、自分や皆の「内に」存在しているものなんだ。いや、「内・外」という言い方は、「自分」を考えるとあり得ないということも先にわかったね。物のように外に存在しているかのように思われる「社会」、社会という現実は、皆が内で思っているその観念の、外への現われだ。観念が現実を作っているのであって、決してその逆じゃないんだ。

 このことに気がつくことはすごく大事なことで、うまくこれに気がつくことができると、すべてがそんなふうにできあがっているということもわかるはずだ。「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。でも、自分の外に存在しているかのように思われる社会というものを、それならよく見てごらん。その社会に存在しているのは、やっぱり同じように思い込んでいる人々がいるばかりじゃないか。その人々の集まりのことを、「社会」と呼んでいるだけじゃないか。

 「ない」のに「ある」と思い込まれたものは、当然あることになる。自分の外に物のようにある社会は、当然自分に対立してあると思われることになる。社会は個人を規制するわずらわしいもの、個人主義のあの彼の捉え方だ。その極端なのが、わかるね、自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、他でもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言っていることになるのだろう。

 社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべきなんだとわかるね。何でもすぐ他人のせいにするその態度を変えるべきなんだ。だって、すべての人が他人のせいにし合っている社会が、よい社会であるわけがないじゃないか。社会は、それぞれの人の内の観念以外のものではないのだから、それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ。現実を作っているのは観念だ。観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。

※以上、「14歳からの哲学」(池田晶子著)より抜粋。



巷でまことしやかに囁かれている「アセンション(次元上昇)」という言葉。

僕は、この言葉の指す意味は、この「宇宙立この世学院高等学校のレベルアップ(偏差値向上)」だと思っている。

どうだろう。聞きなれない「アセンション」や、何を指しているのか分からない「次元」という言葉よりは、よほど捉えやすいと思うのだが。


この「学校(この世)のレベルアップ(偏差値向上)」という比喩と、先にご紹介した内容を組み合わせて考えてみて欲しい。


「学校」は、物質として存在しない観念的な存在。

では、その実像を持たない「学校」のレベルを上げるということは、どういう意味だろう。

校舎を新しく、より大規模に、よりキレイに磨き上げることだろうか。

いや、それでは単に建物がレベルアップしただけであって、「学校」がレベルアップした、と言うことにはならない。

それを証拠に、世の中のあらゆる学校を見渡しても、「校舎の大きさ・新しさ」と「学力・偏差値」が比例しているわけではない。

どんなに環境を整えても、どんなに立派な校舎を用意しても、そこで学ぼうという意欲そのものがなければ、そんな環境など、何の役にも立ちはしない。


では、教員のレベルを上げるということだろうか。

これも違う。だって、そもそもここの生徒達は教員の話に耳を傾けるどころか、その存在すら確認できてないのだから。(ましてや、自分達を超える、そんな存在などいるわけがない、と思い込んでいる人間の数のほうが、圧倒的に多いのだから。)教員を入れ替えたところで、何も変わりはしない。

教師はひたすら、生徒達が自分達の話に耳を傾けてくれることを、辛抱強く待つしかない。


学校のレベルを上げる方法、それは、環境ではなく、生徒達自身の「学力・偏差値」を向上させる以外、術はない。

誰かや何かに頼るのではなく、生徒達(私達)自身が変わらなければ、何も変わらない。

無論、勉強そのものを始めてもいない私達の学力が、ある日突然、何か得体のしれない力によって向上するなどということもないだろう。学力を向上させるには、当然、それなりの努力が伴うからだ。

今、私達がしなければならないのは、勉強のスタートラインに立つことだ。

「学力」以前に、少なくとも「学ぼうとする力」を持たなければ、この学校を卒業したとしても、就職先も、進学先もありゃしない。


「マーフィーの法則だ」「引き寄せの法則だ」と浮かれて、「新たな教科書・教材」を引き寄せるのは、そろそろ、やめにしないか。


引き寄せるべきは、「教科書・教材」ではなく、その先にある「学力」だ。



←I wish your Merry Christmas.

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