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中休止

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突然で申し訳ありません。

私事都合により、少々更新をお休みさせていただきます。


いえ、身内の不幸があったとか、体調不良とか、奥さんが娘を連れて実家に帰ったとか、電気を止められてPC使えないとか、仕事でヘマこいたとか、忙しすぎて軟禁状態だとか、アレのしすぎで腱鞘炎になってキーボードを叩けないとか、とうとう逮捕されたとか、そういうことではありませんのでご心配なく。


再開は…

来週の水・木あたりになると思います。



←不在中も、ご協力をいただけると嬉しいです。

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死後の世界.10

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昨今のニュース番組から流れる『ムーディーズ』という単語を耳にして、

スムーズに「アメリカの格付け会社」が想起できるアナタは常識人。

一瞬ドキッとして「えっ?民放で南波杏!?」となったアナタはただのAVオタク。


毎度どうも!後者です。



さて、日常生活において、うかつに「実際には“私”は存在していません。」なんて口にしてしまうと、先のジョークを発した時以上に「この人、大丈夫?」なんて目で見られることになるので、よい子のみんなは気をつけようね♪

ってことで、この受け入れがたい「私が存在しない」ということの、本当の意味を探してみましょう。

「私が存在しない」。これを仏教の専門用語に置き換えると『諸法無我(しょほうむが)』となります。

この「諸法無我」も、その意味を理解すると、言っていることは「諸行無常」や「因縁」とイコールで結ばれるのだということに気付けます。


「因縁」=「諸行無常」=「諸法無我」


上記の公式を文章化すると次のようになります。


『原因と結果の連鎖がある限り、全ては変わり続ける。ゆえに「私」は存在できない。』


現時点では、この言葉の意味がよく理解できないと思います。

順を追ってご説明していきますので、とりあえず上記の公式を頭の片隅に残しておいてください。


では、出来るだけこの事を受け入れられる様、「私」を別なモノに置き換えて考えていきましょう。

と、言うことで、昨日の『「自我」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「私」は存在していないのです。』の単語を入れ替えてみます。


『「国家」とは混乱した心が作り出した幻影です。実際には「日本」は存在していないのです。』


「日本」を辞書で引くと「我が国のこと」ですからね。「私」とそう遠くもないでしょう。

どうでしょう?

これならまだ、「私」よりも冷静に考えることが出来るかと思います。

それでもまだ、「いやいやいや!チョット待て! “日本”は確実に存在しているだろう!まさに、今、ここにっ!」ってなってますよね。

いよいよここから、その固定概念を崩していきますよ。ここから先は、子供のように頭を柔らかくして読み進めてください。


では、参ります。

「日本」が存在しているのは、「(日本の存在を知っている)人間の頭の中だけ」です。つまり「幻影」。

なぜなら、誰一人として、あるはずの「日本」を指し示すことはできません。

確かに「国土」は目に見えるものです。ですが「国土」はあくまで「土地・領土」であって、それが「日本」なのではありません。

「領土」や「国境」も、人間が勝手に作り上げた「固定概念」です。

「ここからここまでを日本ということにしよう」という「決め事」でしかありません。

私たちは「日本人」「ジャパニーズ」と呼ばれますが、それが「日本」なのでもありません。

たまたま「日本」と名付けられている土地に生まれたから「日本人」ということになっているだけです。これも人間が勝手に作った「決め事」です。

「日本文化」や「日本特有の生活様式」がありますが、それが「日本」なのでもありません。「文化」はあくまで「文化」です。

「日本語」はありますが、それが「日本」でもありません。「言語」はあくまで「言語」です。

「相撲」という「国技」がありますが、あのスポーツが「日本」なのでもありません。

「フランス」でも「ロシア」でも、相撲はとれます。


そういう感じで、どこをどう探しても「日本」を見つけ出す事はできないんです。

当たり前です。「日本」に限らず、「アメリカ」だろうと「イタリア」だろうと、あらゆる「国」は、あくまで「決め事」なんです。

国土だって変わります。

このまま北極の氷が溶け続け、海面が上昇していけば、衛星写真が捉える国土も、すっかり様変わりしてしまうでしょう。

大陸だって、大昔から見たら「同じ」とは言えません。それはいつでも「変化しつづけている」んです。


僕たちが「確かにある」と思っている「国家」という概念さえ、永遠不滅ではありません。

韓国やドイツを見てください。その時代時代によって、統合されたり、分裂したり、名称変更したりと、「国家」すら人間の都合に合わせて変えられてしまう、その程度のもの。実体のない幻想なんです。

「日本」だって、何かを機会に変わってしまうかもしれません。

どこかの国と合併してしまうかも知れないし、名称を変更する可能性だって、無いとは言えません。


つまり、本来分け隔てる事ができないものを、無理矢理概念で切り分け、そこに勝手に作ったアイデンティティを付け加えているだけなんです。


「決め事」を「決め事」として解釈できているならまだいいですが、それすら忘れてしまうと、「国家(幻想)」対「国家(幻想)」で喧嘩をし出します。

馬鹿馬鹿しいよね。国を分けているのは自分たちの「概念」なのに。

自分たちが作った「決め事」をすっかり忘れて、それを「実体がある」と錯覚して仕舞っているんです。

まさに、「私(我が国)がある」と思ってしまった所に、問題が生まれています。


さて、とりあえずここまで、理解できますか?



←変わらないように見えても、日々変化しています。

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死後の世界.9

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うん。

前回の比喩が何となく理解できたとしても、やっぱりここに行き着くよね。


*****前記事のコメント欄より*****

『「個人としての意識」がどうなるのかが気になります。』

『肉体がそんなふうに輪廻を繰り返すのは解るんですが、心(意識)はどうなんでしょう?』

『意識の問題は少し残ってはいますが…』

*****


コメントを書き込んでくれた方以外の方にも、同様の疑問があったと思います。


そうなんです。重要なのは、まさに、ここなんです。

全ての問題は、この「個人」という意識、「わたしがいる」という感覚から生まれているんです。

この「自己がある(わたしがいる)」という感覚が、宗教や精神世界で『自我(エゴ)』と呼ばれている代物です。


まずは、結論から申し上げます。


*****

自我とは混乱した心が作り出した幻影です。

実際には「私」は存在していないのです。


阿部敏郎の「いまここ塾」からコピペ)

*****


あはは。

このタイミングで、阿部さんも同じ事を書かれています。w


ってことで、今日はちょっと記事編集をサボります。

代わりと言ってはなんですが、どうぞ、今日の阿部さんのブログをご覧になってみて下さい。(多分、僕の説明よりわかりやすいです。)


阿部敏郎の「いまここ塾」
2008年9月24日のエントリ「自己という幻想」
http://abetoshiro.ti-da.net/e2303264.html



皆さんが阿部さんのブログを読み込んでいるその間に、僕はこの先どうやって阿部さんの記事をパクるかを一考します。

いやいやいやいや!! もといっ!!!

皆さんが阿部さんのブログを読み込んでいるその間に、僕は、阿部さんとは別のアプローチ、表現方法を模索します。


では、そう言うことで、今日の所は

アディオス・アミーゴ!!



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死後の世界.8

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ねぇ、どうしたの? 何もしていないのに、大事な所をこんなにパンパンに膨らませて。w

あらあら、こんなに熱くなっちゃって。やだ、隙間から中身がはみ出して見えてるじゃない。

え?何? もう果てちゃいそうなの? ちょっwww いくら何でも早すぎでしょ。

ほんと、だらしのない子ねぇ。。。





ってことで。皆様のご想像通り、僕の携帯電話のバッテリーが、寿命をお迎えになられました。

充電しても、充電しても、ソッコーで電池切れになりやがるんです。

しまいにゃバッテリーのフタを持ち上げる勢いでパンパンに膨れて仕舞いましてね。

そんなこんなで、この週末、ヨドバシカメラで機種変更してきたのですが…

凄いね、最新の携帯電話の機能って。

知ってました?

電話機でテレビが見られるんですよ!予約録画なんかもできちゃうんですよ!(←いまさらです。)

そう言うわけで、只今僕の携帯電話は、「炎神戦隊ゴーオンジャー」と、「YES!プリキュア5GO!GO!」と、「ちびまる子ちゃん」と、「サザエさん」の豪華4本立てでお送りしております。



色んな意味で「怪しい人」扱いをされておりますが、実際は、「やっぱり怪しいらしい」黒斎(35)です。こんにちは。


さて、その怪しさもそのままに、今日は「輪廻転生」のお話をしようと思っております。

先日の、『「Aさんの魂」「Bさんの魂」というような「永遠不滅の個性を持った“個別の魂”という存在はない」』という話がどういう事なのかをご説明できればと考えていたところ、ある比喩を思いつきました。


僕たちの人生を、仮に「雨」だと思ってみてください。

その「雨粒」1つひとつが、僕たち人間です。

雲の中で成長した水滴が雲から離れ、地上に落ちてくる。それが「誕生」です。

そして地上や水上など、雨が着地した時点が「死」です。

「雨粒」は突然パッと現れたのではありません。

大気中の水蒸気が冷えて雲ができ、雲の中で成長した水滴が地上に落ちてくるという現象の「流れ」によって出来たモノです。

「雨粒」がどこに着地しようとも、その存在が「無くなる」ことはありません。

焼けた大地に舞い降りたものは、すぐに蒸発し、水蒸気となり、また空へと帰ってゆくでしょう。

大海原に舞い降りたものは、海水にとけ込み、あらたな躍動を続けるでしょう。その海の表面も、やがて太陽に照らされ蒸発してゆきます。

大空へ舞い上がった水蒸気は、再度雲となり、成長を続け、やがて水滴となって再度大地へ舞い降ります。

原因と結果の連鎖で、その循環をグルグルと繰り返すのです。

ですから、先日降り注いだ雨粒が、同じまま再度降る、と言うことは無いんです。

そういう意味では、「人生(雨粒という個性)は1度きり」です。

でも、「雨粒一つひとつ」という観点から、「水の循環」という観点で捉え方を変えると、「どこにも“誕生”も“死(消滅)”も見いだせない」ということに気付けます。

そう言う意味では、「輪廻転生は繰り返される(雨はまた降る)」です。


どうでしょう?

この比喩から、「輪廻転生」はあっても、「永遠不滅の個性を持った“個別の魂”という存在はない」ということの意味が見えますでしょうか?

また、「あの世」「この世」という世界の境界も、本来は存在していないということが把握できますでしょうか?



←お陰様で好調です。

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死後の世界.7

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某ブログで紹介されるという『原因』によって、アクセス数が急に伸びるという『結果』を手にしました。

「あの世に聞いた、この世の仕組み」の著者、阿部敏郎です。こんにちは。



っていうか、アクセス数がこれだけ上がっているわりには、ブログランキングのクリック数はさほど変わらない、と言うのはどういう事ですかお母さんっ!

(;`⌒´)つ彡☆ パンパン! あたしゃそんなに鼻つまみ者ですかっ!(←ウンコクサイだけに)



ってことで、改めましてこんにちは。

相変わらず支持されているんだかいないんだか微妙なラインのブログ「あの世に聞いた、この世の仕組み」を、ハンカチーフを噛みしめながら綴っている、雲 黒斎(福山雅治 時々 加勢大周)と申します。

名前だけでも覚えて帰ってください。

いや、折角いらっしゃったんですから、記念にボタンぐらいは押して帰ってください。



若手芸人にありがちなフォーマットの挨拶はさておき、お話の続きですよ。

コメント欄の反応を拝見したところ、やはり何か上手く伝わっていないような気がします。(もちろん、みんながみんなと言うワケではないですが。)

ってことで、ちょっとだけ話を戻させてください。


僕は、「あの世はない」という話をしているわけではないですからね。

そうではなくて、本来「ある」「なし」で語れる内容ではない、と言っているだけです。

「魂」についてもそうです。

「魂はない」という話をしているワケではなくて、「Aさんの魂」「Bさんの魂」というような「永遠不滅の個性を持った“個別の魂”という存在はない」と言っているだけです。

どうしても、「あの世はなかったんですね!」とか「魂ってないんですね!あると思ってました!」というように、やはり「ある・なし」を基準とした早合点をされているような気がします。

今回のテーマでお話ししたいのは、まさにその「ある・なし」という判断から一歩引いて見てみましょう、ってことですからね。


先にとりあげさせてもらった「自動車は、安全な乗り物ですか?」という例でも同じです。

自動車を「安全です」という切り口で語ることは可能です。いくらでも話せます。

それはそれで、納得のいく説明ができるはずです。現に各車メーカーさんは、声を大にして主張しています。

「うちの車は安全です。これこれこういう構造です。こういうシステムが、最新のセンサーが、あっちにもこっちにもエアバックが、あれもこれも付いています。」と。

それはそれで、ホントの話です。

逆に、自動車を「危険です」という切り口で語ることも可能です。いくらでも話せます。

「日々これだけの事故が発生しています。世界で毎日○○○人の人命が交通事故によって失われています。先ほど○○高速道では、○○台の玉突き事故が発生し、○○人が重軽傷を負っている模様です。群馬県の○○市では、駐車場で遊んでいた男の子(2)を、祖父の□□さん(67)がひき殺してしまうという痛ましい事故が起きてしまいました。たった今入ってきた情報によりますと、ロックミュージシャンの世良公則さん(52)が東京・表参道で乗用車を運転中、物損事故に巻き込まれた模様です。」と、道路交通情報センターのふじこーさんと報道センターの群さんがラジオを通して話しています。

それはそれで、ホントの話です。(どこまでが?)

なのですが、それは同じ「自動車」をどういう風に解釈しているかということであって、「自動車は、安全な乗り物ですか?」という問いに対しての正確な答えではないわけです。


これを「あの世」や「神」、「霊」などに置き換えても同じなわけですよ。

「ある」という切り口で語ることもできるし、「ない」という切り口で語ることもできる。

聞けば、どちらの話も納得のいく話に聞こえるんです。

でも、そこはやっぱり話の「本質」ではないじゃないですか。そもそもが「ある・なし」で語れないんだから。


だから、「ある・なし」を基準に論争を始めてしまうと、いつまで経っても決着が付かない。

二元論から離れないと、「ある派」と「ない派」は、双方ともに、ずっと本当の事を知らないまま、決裂しっぱなしになっちゃうんです。

全体像を知らないまま、ほんの一部だけを捉えて、それを「真実」だと勘違いしてしまうことになります。


なので、そこから離れ、固定概念を取っ払った、全く別な捉え方で物事を観察してみましょう、というお話なのですが…


通じてますか?



←来場記念に。

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