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高揚

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つい先ほど、さとう・うさぶろうさんとお会いしました。

そう、阿部敏郎さんが先日チェンマイでお会いしたという、あの「うさと」の、さとう・うさぶろうさんです。

僕に会いたいという旨を、昨日阿部さん経由でご連絡いただきまして…

予期せぬ突然の出来事に、僕自身、非常にビックリしています。


あー。僕、いま、嬉しくてチョット興奮気味です。

なんて言えばいいんでしょうか。

ここ最近のエキサイティングな出来事の数々を、どういう風に言葉にすればいいんだろう…。


探していたジグソーパズルのピースが、思わぬところから運ばれてくる様な…

漠然としていた予想図が、徐々に確信に変わっていく様な…


う~ん。

1時間以上もパソコンの前でこうしているのに、やっぱり上手く文章化できないや。


ただ、なんと言いますか、僕のワクワクしているこの感じを、なんとか伝えたくて。

すみません。それだけなんです。


←こんな「しどろもどろ」な時でも押してくれるアナタが大好きです。

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座右の銘

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先日ね、ふじこーさんのブログに遊びにいったら、面白い話題で盛り上がっていたんですよ。

「座右の銘メーカー」っていうウェブコンテンツのお話だったんですけど、みなさんご存じです?

一時話題になった「脳内メーカー」シリーズの新作でね、入力した名前に合わせて、勝手に「座右の銘」を作ってくれるサービスなんですけど、これがなまら面白くて。


実際にやってみるとこんな感じ。

僕の場合だと…



分けてみた。






ふじこーさんだと…



佃煮さんだと…




(; ̄д ̄) なに、この微妙なハマリ具合…


なぜだか人物イメージとマッチするところがあるんですよ。不思議と。

ヾ(≧▽≦)ノ おもしれー!!


ってことで、しばらく色んな方の名前を入力して笑っていました。

例えば…



_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!


この方もやってみよう!



(; ̄Д ̄) ハマリすぎやん…


…ってな感じでしばらく遊んでいましたら、ついでにこんなものも見つけてしまったんです。


その名も「コンビ名メーカー」!!

これは、二人分の名前を入力すると、そのコンビ名を自動作成してくれます。


見つけたからにはやってみたくなるのが人情というもの。

ってことで、早速チャレンジ!




はたして、その結果は…


ジャジャーーン!!

















軽っ!

( ̄ε ̄;|||・・・ プ、プラスチックパンチ? 



ってことで、そんなプラスチックパンチがお送りする、抱腹絶倒真理トークショー「イク時は一緒!」の大阪開催の受付がはじまりました。

受付はコチラ、阿部さんのブログにて!


また、10月17日(土)の博多開催分もまだまだ受付中


テクニシャンじゃなくても大歓迎です。

よろしくお願いいたしまっす<(_ _ )>



←もちろん、テクニシャンも大歓迎です。

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鎖帷子

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じじょう-じばく【自縄自縛】

自分の思考・言葉・行為のために、自由な動きがとれず苦しい立場になること。


人間が引き起こす苦しみの数々は、全てこの「自縄自縛」によって生まれます。

多くの人間は、無自覚的に自分自身を「不自由」な立場に置いてしまうのです。

この「自縄自縛」のシステムを、エックハルト・トール氏は「自己同一化」と呼びました。

「思考」や「感情」と自己を同一化してしまうことによって生まれる苦しみです。


ここで一度、自分の状況を確認してみましょう。


Q. あなたは、自分の思考を、自分の意思で止めることができますか?


日々頭の中で行われている「独り言」を止めることができますか?

え? できませんか?

では、いまのあなたは、自分の意思ではなく、思考にコントロールされて生きているということになります。

「思考」という鎖に繋がれ、自由を奪われている状態です。

もしかしたら、その状態がもはや癖になり、頭の中で独り言が行われていること自体にも気づけず、すっかり日常化しているかもしれませんね。


もう一つ。

Q. あなたは、自分の感情から、自分の意思で離れることができますか?


え? できませんか?

では、いまのあなたは、自分の意思ではなく、感情にコントロールされて生きているということになります。


脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士は著書「奇跡の脳」の中でこのように語っています。


*****

怒りの反応は、自発的に誘発されるプログラム。ひとたび怒りが誘発されると、脳から放出された化学物質が、からだに満ち、生理的な反応が引き起こされます。
最初の誘発から90秒以内に、怒りの化学的な成分は血液中からなくなり、自動的な反応は終わります。

もし90秒が過ぎてもまだ怒りが続いているとしたら、それはその回路が機能し続けるように選択をしたからです。

瞬間瞬間に、神経回路をつなげるか、それとも現在の瞬間に戻って、つかの間の生理機能としてその反応を消散させるかのどちらかの選択をしているんです

*****



もし、90秒を過ぎても、自分の意思でその感情から離れられないのだとしたら、「感情」という鎖に繋がれ、自由を奪われている状態です。

もしかしたら、その感情がもはや癖になり、事あるごとに感情が誘発される自動処理プログラムができあがっているかもしれませんね。



こうして人生のイニシアチブ(主導権)を「思考」や「感情」に握られて、自由を失っている状態。

それが、僕の言う「自縄自縛」です。


自分の自由を奪うこの鎖は、1本や2本ではありません。

不安・恐怖・虚勢・自尊心・劣等感・価値観・常識・被害者意識・加害者意識・見栄・怒り・悲しみ・後悔・悔しさ・心配・ひがみ・ねたみ・ノルマ・ルール・etc…

一口に「不安」と言えど種類は多く、お金・健康・人間関係・仕事・恋愛・子育て・etc…

自分と向き合えば向き合うほど、沢山の鎖が見つかると思います。

自分を縛り付ける鎖の数が多ければ多いほど、その重みに絶えられず、ますます身動きを取ることが難しくなっていきます。


私たちは、なぜこのような鎖を持ってしまったのでしょうか。

それはひとえに、自分の身(心)を守ろうとしたからに他なりません。


二度と、同じ事で傷つかないように…

何かに傷つくという経験を通して、新たな鎖を手にします。

それはまるで、向けられた刃物から身を守るため、丈夫な鎖を自分に巻き付け、身体を守るように。

いつしか鎖の数は増え、巻き付けた鎖は鎖帷子(くさりかたびら)のように全身を覆います。

それでもなお傷つくと、さらに太い鎖を手にし、鎖帷子を鎧へと変貌させていきます。


臆病さゆえに丈夫な鎧(沢山の鎖)をまとった自分。

しかし、いずれ自分の自由を奪う、その重さと息苦しさに絶えきれなくなっていきます。

そして気づくんです。

自分の自由を奪い、息苦しい状況をつくった張本人が自分だったことに。


それに気づいたら、あとはその鎖を手放すだけです。

その数が減るほどに、あなたは自由と、身軽さと、開放感を味わうことができるでしょう。


あ。鎧を脱ぐことに不安がありますか?

大丈夫。鎧を脱いだあなたなら、重い鎧で身動きが取れなくなっているあの人よりずっと身軽です。

どんな攻撃も、さらりとかわしてしまうことでしょう。


これまで、自分の為にと一生懸命コレクションしてきた沢山の鎖。

それを1本1本手放していきましょう。


(  ̄Д ̄) 『自分の自由を奪っていた、自縄自縛の鎖を取っていくこと。それが「鎖取り(さとり)」です。』



←イニシアチブはあなたに。

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耳をすませば

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シルバーウイークと名付けられた大型連休を利用して、我が家はサミットの開催で一躍有名となった洞爺湖畔へとキャンプに行ってまいりました。

雄大な羊蹄山と中島を背景に、夕焼けに染まりオレンジ色に輝く湖。

ハンモックに揺られながら聞く、秋の色に変わり始めた木々の囁き。

凜と澄み渡った空に輝く、数え切れないほどの流星。

そんな中、「なにもしないこと」をするために全国各地から集ったキャンパー達が、ただ椅子に腰掛け、湖を眺めながらゆったりと自然に帰っていく。

初秋の湖畔の美しさは、それはそれは素晴らしいものでした。


元気な子供達も寝静まり、時間の流れがますます速度を落としたその夜。

しばし焚き火と戯れた僕は、そんなステキな環境の中で瞑想を始めることにしました。

このキャンプ場で、きらめく星々の下、パチパチと鳴く薪の音を聞きながら瞑想することは、かねてからの念願だったのです。


こうして願いが叶っていることに、深く感謝をしつつ

焚き火台に薪をくべ、コールマンのチェアに腰掛けた僕は、スッと背筋を伸ばし、ゆっくりと目を閉じて深呼吸。

会社員・ブロガー・キャンパー・夫・父・男…と、日々演じている自分の役柄を一つ一つ、おりていきます。

毎日の喧噪から離れ、自分の奥深くへと帰って行く心地よさ…

そして、さらに意識を「いま」に向けるべく、耳を澄ませていきます。

湖から聞こえるさざ波の音、木の葉が奏でる輪唱、焚き火台で揺れる炎の音、木々の間に流れる優しい風の音…


その時です。






「ん…」




「ぁ…」




「ぁぁん…」





( ̄д ̄; )エェッ!?


焚き火台の向こうに見える、僕から一番近い位置に見えるテント。

そこからかすかに、喘ぎ声らしきものが聞こえてくるのです。


(-公-;) 「いやいやいや、まさかねぇ…これはあれだ、おなじみの煩悩ゆえの幻聴ですよ。」


「ふ~~~~~」

気を取り直して、スッと背筋を伸ばし、ゆっくりと深呼吸。

そして、意識を「いま」に向けるべく耳を澄ませていきます。

湖から聞こえるさざ波の音、木の葉が奏でる輪唱、焚き火台で揺れる炎の音、木々の間に流れる優しい風の音…



「ああんっ!」



Σ(; ̄Д ̄) 「やっぱり!?」


明らかに「している」んですよ。僕の3メートルほど先にある、薄い布の向こう側で。


(-公-;) 「いや、いいじゃないか、いいじゃないか…仮に本当にしていたっていいじゃないか、人間だもの…」


「ふ~~~~~」

気を取り直して、スッと背筋を伸ばし、ゆっくりと深呼吸。

そして、意識を「いま」に向けるべく耳を澄ませていきます。

湖から聞こえるさざ波の音、木の葉が奏でる輪唱、焚き火台で揺れる炎の音、木々の間に流れる優しい風の音、徐々にボリュームが上がってゆく喘ぎ声…



「パンッパンッパンッパンッパンッパンッ!(肉と肉がぶつかる音)」



ヾ(`Д´メ)ノ″ 「生々しいわ!」







てんで瞑想どころではありませんでした。



←これだけで生きていけます(阿部さん談)

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家なき子

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今日は、精神世界でよく語られる「なにもせずとも、本当は皆はじめから悟っている」というキーワードについてお話を進めたいと思います。


「なにもせずとも、皆はじめから悟っている」とか「元から救われている」などと言われても、「はじめから悟っているのなら、わざわざ目覚めようとする必要はないではないか」だとか「最初から悟っているなら、いま目の前にある苦悩や不安はなんなのか。なぜ私は苦しみから逃れられないのか。」という、じれったい疑問が残ったままの方も多いのではないでしょうか。

結局のところ、目覚めを目指せばいいのか、目指していること自体がエゴの策略なのか。

そんな何とも煮え切らないパラドックスに、色々なマスターが色々なアプローチをしているわけですが…


(  ̄▽ ̄)ノ 『本日は、そんな話題を「家なき子」をベースに御説明します。』

( ̄д ̄; ) 「久々に登場したかと思えば、いつもの如く唐突な比喩をもちだしますね。」

(  ̄Д ̄) 『いいじゃん。だってわかりやすいんだもん。』

( ̄д ̄; ) 「それにしても、家なき子かよ…なんなのよ、その微妙な古さ。」

(  ̄Д ̄) 『いいからいいから。さ、説明を進めて。』





若い世代の皆様はピンとこないかもしれませんが…いまから15年前のこと。

野島伸司さん脚本、安達祐実さん(当時13歳)主演で、「家なき子」というテレビドラマが放映されました。

酒乱の父(内藤剛志)と病弱な母(田中好子)を両親にもつ不遇な家庭環境に生きる少女、相沢すず(安達祐実)の苦悩を描いた、ドロドロの悲劇。

劇中の名セリフ「同情するなら金をくれ」が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなりました。

父に暴行され、家を失い、学校では虐められ、犯罪に手を染め…と、それはそれは悲惨な人生を辿る悲劇のヒロイン、相沢すず。


この物語を、エックハルト・トールさんが言うところの「自己同一化がもたらす機能不全」と合わせて考えてみます。


もし、この役を演じていた安達祐実さんが、演技に没頭するあまり、本来の自分をすっかり忘れ、自分の事を「相沢すず」だと思っていたら、大変な事が起こります。

「安達祐実」であるはずの自分が「相沢すず」として生きているのですから、そこに「機能不全」が起こります。

ドラマの舞台設定を「現実」だと勘違いしていたら、その思考や行動は、自分の中にある「すず」という人物設定を通して行われることになるので、「すずの苦悩」を「自分の苦悩」として感じ、苦しむことになります。

このとき、仮に自分を「相沢すず(自我・架空のキャラクター)」だと勘違いしているとしても、本当は「なにもせずとも、はじめから安達祐実(真我)」です。


そんな状況から、「ああ!私は相沢すずじゃない!安達祐実だったんだ!」と、本来の自分を思い出せば、例え同じ舞台に立っているとしても、その苦悩は「架空の物語上で描かれている世界」であることが明確にわかっているので、「苦しみ」はなくなり、「苦しんでいるすずを演じている」という自覚だけが残ることになります。

それと同時に「家なき子」という狭い世界から抜け出て、「ああ!わたしが演じられるのは相沢すずだけじゃない!この役も一時的なもの。過ぎ去っていく運命。わたしはこの先、“ガラスの仮面”の北島マヤにだって、“ゴーストハンター早紀”の安部早紀にだって、“大奥”の和宮にだって、“アンパンマン”のドーリィにだってなれるのよ!」と、広大な世界と自由を見出します。

「安達祐実であることを忘れ、相沢すずとして苦しんでいる姿」と「相沢すずを演じ、苦しみを表現する安達祐実」は、傍から見れば同じように見えてしまいますが、本人の意識は全くの別物です。

「家なき子」の撮影中は、ドラマの中での「苦しみ」は相変わらず「苦しみ」のままですが、その性質は、自分が安達祐実であることを思いだした以前・以後ではまったく違うモノです。


この様な例えでお話すると、とても馬鹿馬鹿しく見えるかもしれませんが、悲しいかな、そんな馬鹿馬鹿しさに気づかずにいるのが人間です。


自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、本当の自分を忘れてその役を演じています。

ある人は「母」を、ある人は「社長」を、ある人は「学生」を演じ、脚本のない、完全アドリブの舞台に立っています。


「自分」と「役柄」を切り分け、何も演じていない素の自分を思い出すことが「目覚め」と言われるものです。

目覚めや悟りと言われる経験を通して見つけるものは「聖人君子となった自分」ではなく、「素の自分」です。

「目覚め」に対して、何か特定のイメージを持ち、そのイメージに向けて自分を高めていく努力を行っているのだとしたら、それはエゴの策略に嵌っています。

そのイメージは「素の自分」ではなく、「エゴが望む次の役」だからです。

そうではなく、自分が今どんな役を演じているのかを見抜き、日常的に行っている自己演出・セルフプロデュースに気付き、それを踏まえて役を降りることを目指しているのであれば、それは目覚めのプロセスとなりえます。



(  ̄Д ̄) 『相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。』


なんだろう、この例え… (-公-;)



←数日更新出来ずにいたら、このざまです。「同情するなら押してくれ」

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