行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

お盆

2013年08月13日 | 禅の心
お盆は本来7月に行われるものです。年の始めに新しい自分にリセットする正月から半年間を振り返って、修正するという意味があるのがお盆なのです。
先祖供養やお墓参りも大事ですが、それは神道や儒教的なものです。仏教は自分がどう生きるかということがテーマなのですから。

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澤木興道老師がグループぼけについて改めて語る

2013年08月09日 | 禅の心
●「グループ呆け」というのがある。そして呆けたのを経験とこころえておる。ひとり透明になって呆けぬことが必要だ。坐禅はこのグループからご免こうむり「シュッケイ」(失敬、出繋、出家)して一人になることである。

●いま時分の奴のやることは、みな集団をつくって、アタマ数でゆこうとする。ところがどこの集団もグループ呆けばかり、金がほしいというのもグループ呆けなら、エラクなりたいというのもグループ呆け。いわんや党派をつくるなど、グループ呆けの代表である。そんなグループ呆けをやめて自分ぎりの自分になることが座禅である。


●グループができると、その中に麻痺状態が発生して、良い悪いがわからなくなってしまう。われわれが世の中を遠ざかっているのも逃避しているのではない。この麻痺状態をおこしたくないからである。昔から山野に才を求むというが、この山野とは無色透明な世界のことだ

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色めがねをはずせ

2013年08月06日 | 禅の心
○華厳経の中に、8人の目の不自由な人が象を触る話があります。
象の牙を触った人は根のようだ
耳を触った人は箕のようだ
頭を触った人は石のようだ
鼻を触った人は杵のようだ
足を触った人は臼のようだ
背中を触った人は床のようだ
腹を触った人は甕のようだ
尻尾を触った人は蛇のようだ
と、みんな異なった感想を述べました。どれも正解なのですが、このように触る部分によって全く感じ方が異なるのです。
○同じ水を飲んで蛇は毒をつくり、牛は乳をつくると言います。
○山中鹿之助は出雲の国(島根県)では英雄ですが、因幡(鳥取県)や播磨(兵庫県)では、攻め込んできた大悪党として全く異なった評価をなされています。
○「○○さんはおとなしい人だ」「△△さんは恐い人だ」と決めつけてしまうことが恐いことなのです。
○人をみるのに何でもお見通しのような顔をしないことです。鬼と仏が同居しているのが人間なのですから。

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烏鷺滝が瞑想について語る

2013年08月02日 | 禅の心
○坐禅も瞑想のうちじゃ。
○何のために座禅をするのかって?坐禅なんぞやっても何にもならんよ。
○スポーツ選手でも、会社の重役でも坐禅をして胆力がついたなどとぬかしよる。胆力がついている気がしちょるだけなんじゃよ。
○心が強くなるために坐禅をするのではないんじゃよ。
○そんなまちがったことを言う曹洞宗や臨済宗の坊主もおるもんじゃから困ったもんじゃ。
○自分を知るために坐禅をするんじゃよ。
○心を無にして、本当の自分に出会って対話するのが坐禅ちゅうもんじゃ。
○もう一人の自分というのは「仏心」とか「無位の真人」とかと言われているものなんじゃ。
○仏心はこの世界に充ち満ちておるということがわかる。
○仏心はこの世の真実なんじゃ。
○ただ、素人にはそこまでのことはできん。とりあえず、自分をしっかり見つめてみることじゃ。
○瞑想一般も神の世界とつながることなんじゃね。
○神の世界って?わしにもわからんぞ。

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