行雲流水

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国語の教科書を読んでみましょう

2013年08月16日 | 禅の心
これは千葉県の仏母寺という尼寺の住職である安井玉峰さんのお書きになった『キジの儀式』です。中学校の教科書より引用しました。(中学校『国語3』 光村図書出版)




五月も半ばというのに、どんよりとして何となく肌寒い日でした。昨年のことです。午後二時を過ぎたころ、私は一人、お茶室でお道具の後片づけをしていました。と、ドスンという、鈍い音がしました。外の壁に、何か投げつけられたのでは、と瞬間思った私は、とりあえず庭に出て見回ったのですが、何事もないのです。かけいの水はつくばいに糸のように音もなく流れ、生け垣に囲まれた茶室の庭には、人っ子一人いるわけではありません。

 何とも片づかぬ思いで、戻ろうとふと空を仰いだとき、驚いたことに、真上の屋根のひさしから、なんとキジが一羽、のぞいているではありませんか。あの警戒心の強い野生の鳥が、スズメかハトのように。これはどうしたことかとそこを離れ、屋根の上を見ようとするとその瞬間、キジはひらりと舞い降りたのです。立ちすくんで行く手を見下ろすと、まあ、そこには美しい雄のキジが倒れていました。舞ったのは雌のキジだったのです。私はすべてを悟りました。

 寺のくすんだ乳白色の壁は、このどんよりした空の色の中に、そのまま溶け込んでいたのでしょう。そのうえ、私の寺は山の稜線上にありますから、なおのこと、キジには空と見えたのでしょう。さっき聞いたのは、痛ましいことになった音だったのです。

 これまで茶室の庭に、時おり、連れ立ってキジが二羽、遊びに訪れていることがありました。しかし、私を見ると、そそくさと立ち去るのです。雄が雌を誘うように先導して・・・。「もっと遊んでおいで。」と、思わず声をかけるのでしたが、警戒心を解きません。でも、それでいいのです。毎年シーズンには、この寺の庭先にさえ、ハンターを見かけるのですから。それにしても、私の前で、一羽が倒れるとは。

 駆け寄った私は、痛ましさに胸がいっぱいになり、キジのそばにしゃがみ込みました。が、あんなに警戒心の強い雌キジが、今はもう私のことなど意識になく、コー、コーと小さい呼び声をしながら、彼の周りをぐるぐる回っています。時おり、彼女の尾羽根が私の衣のすそに触れます。そのうち、彼女は彼のくちばしの付け根を軽くコツコツとつつき始めました。コー、コー。「起きなさい。」といわんばかりです。それでも、なんの反応もないと、今度はトサカやほおの毛をくちばしでくわえて、持ち上げようとするではありませんか。

 頭はわずかに上がりますが、またすぐ地面に落ち、黒いひとみは閉じられたままです。ついに、彼女は彼の体に駆け上がり、必死にコー、コーと鳴き(泣き)ながら、ひとしきり激しく頭をくわえて引っぱりました。もとより効き目はありません。聞いていたキジの情愛の深さとはこれほどのものかと感じ入って、彼女の姿が涙で見えなくなりました。

 この辺りは野犬も多く、ネコも出没することだから、このままにはできません。気がついてみると、彼女はやっと事の次第を納得したのか、離れては近寄り、それを数回繰り返して、寺の西の林へゆっくり去っていきました。放心して見つめる私が、なきがらの始末をしてやろうとすると、何か気配がしました。振り返ると、彼女は戻ってきたのです。私から三メートルほど離れて、じっとこちらを見ています。と、今度は決心したかのように、彼のそばへつかつかと力強い足取りで近づき、二度、三度、彼のくちばしをつつき、声も出さず振り返りもせずに去っていき、戻って来ませんでした。

 これは別れの儀式でした。野生のキジにそんなものが・・・。この信じがたい光景は紛れもなくキジの儀式です。儀式とは真実の姿。人間界ではとかく儀式が形式に流れやすい。野生の世界には形式はありません。たった今、目の前で、この夫婦は今生の別離をしたのです。はかなかった、短い一生の・・・。彼女は真心をささげて、別れのあいさつをしたのです。命がけで・・・。

 私は衣を広げ、キジを包むように抱き上げてやりました。見事な彼の尾は両の腕に余り、はねて私のほおに触れました。ほのかなぬくみが薄い衣を透して伝わってきました。私は、「かわいそうに」と思わずつぶやきながら、そっと寺の動物供養塔の裏に埋めてやり、小さな土まんじゅうのかたわらに、墓標がわりの卯の花を植えました。キジの化身の白い花がいっぱい咲きこぼれることを願って・・・。

 その花が、夏の訪れを告げるころ、キジの命日が来ます。



お盆、葬儀などの人間の行う儀式は形式的になりすぎてきているように思います。形より心のこもった儀式が大事だと思います。