行雲流水

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とらわれなき心を『徒然草』に学ぶ

2013年08月23日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
里芋の大好きな坊さんの話

この話は兼好の『徒然草』の中でも私の大好きな段です。今でいう天然ぼけの盛親僧都ですが、何をしても憎めない、人徳のなせるわざなのです。原文と私の下手な現代語訳でお読み下さい。


真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行けり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。


仁和寺の別院の真乗院に盛親僧都というとても高徳の坊さんがいた。芋頭(里芋)というものが大好物でたくさん食べるのだった。仏典を講義するときにも、芋頭を大きな鉢に山盛りにして膝元に置いて、それを食べながら講義するのだった。病気をしたときには1週間、2週間と、療養と称して自坊に引きこもり、芋頭の良いものを選んで思う存分、いつもよりも多く食べて、どんな病気もなおしてしまうのであった。しかし、芋頭を人にやることはない。ただ、ひとりだけで食べるのであった。 とても貧しかったが、師匠の死に際に銭200貫と僧坊1つを譲ってくれたので、僧坊は100貫で売りに出して合計3万疋(=300貫)を芋頭を買うお金と決めて、京都市内に住む人に預けておいて、10貫ずつ取り寄せては芋頭を思う存分召し上がっているうちに、他のことに使うことなく300貫すべてなくなってしまった。「貧しい身で300貫手に入ったのに、芋頭を食べることだけに使ってしまうとは、本当に世にも珍しい道心者じゃねえ」と人々は評判したものだ。
この盛親僧都は、あるお坊さんをみて「しろうるり」というあだ名をつけた。「しろうるりとはどがあなもんかいのお」と人が聞けば、「そがなもん、ワシもしらんわい。しろうるりがもしあったら、この坊さんの顔に似とるんじゃろう」と答えた。
この盛親僧都は、ハンサムで力も強く、大食いで文章もうまく学識があり、口も達者だった。真言宗の高僧で仁和寺でも重く用いられていたけど、世間を馬鹿にしている変わり者で、何をするにも我が物顔に振る舞い、人に合わせることはしない。法要があっておよばれをするときでも、周りの人全員に膳が行き渡るのを待たずに、自分の分の膳がくれば、周りを待たずにさっさと食べてしまって、帰りたくなれば、さっと立って帰っていく。斎(正規の食事)も非時(午後の食事)も他の人と同じように定時に食うことはない。自分が食いたくなれば、夜中だろうが、早朝だろうが食い、眠たくなれば昼から部屋にこもってどんな一大事があろうとも、人の言うことには耳を貸さず、目が覚めれば、幾夜も寝ることなく、心を澄まして、詩歌を吟じつつ歩き回るなど、まったく常識はずれの変わり者だが、だからといって、人に嫌われるわけでもなく、全てが許されていたのだ。これはものすごく人徳のあった人だからだろう。

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