野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

島原、プラタモリ 

2020-03-16 06:23:07 | 故郷
14日のNHKブラタモリ「島原・天草~なぜキリシタンは250年も潜伏できた?~」を見た。
NHKの案内には「熊本県・天草と長崎県・島原。2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されたこの地域で、明治まで約250年もの長いあいだ「潜伏キリシタン」が信仰を守り続けることが出来た秘密を探る▽キリシタンの知恵を探して崎津の町を歩く!」とある。

番組での、熊本県天草島の隠れキリシタンが250年の長きわたり何故生き延びることが可能だったかの説明では、隠れキリシタンは村と共存しながら生き延びてきたことが要因の一つだとあった。天草の後、船はすぐ近くの島原半島「島原・天草一揆」の最終激戦地となった原城跡近くに到着。幕府軍約12万(NHKの解説はそうだった?)に対し原城に立てこもる約3万7千のキリシタンとの戦いで、キリシタンが約4ヶ月に渡り戦えた要因の一つが、原城内にある水が湧く池の存在が大きいと解説があった。その池は原城の海の近傍にある。原城周辺は、かって約9万年前の阿蘇山の大爆発の際に発生した火砕流(阿蘇から原城迄の距離約97.4㎞(グーグルマップ))の堆積から湧き水ができたと解説があった。聞いていて、火砕流と湧き水発生の関係が今一つ理解できなかった。
  
  
阿蘇の巨大噴火によって発生した火砕流が有明海で冷やされながら原城近辺まで到着したとを初めて知ったが、これには大いに驚いた。
   「番組で紹介されていた阿蘇の大爆発で発生した火砕流の流れ」

湧き水と言えば、原城から北方、島原半島の中心、島原は湧き水で有名な場所。
島原市には70ヵ所を超える湧水地があるが、湧き水発生要因の一つが1792年の島原半島中央にある普賢岳噴火とその前にある眉山の大崩壊による偶発地震で誘発された事は有名。眉山崩壊直前の地殻変動によってできた地割れ部分から湧き水がでたという。島原の市街地の地下は火山灰層などが蓄積した難透水層と、水を通しやすい砂れき層が交互に重なった帯水層になっているので、それが雨水を吸い込み、地下水を作り出しやすい状態となっていると聞いたことがある。しかし、原城地区は9万年前の阿蘇の大火砕流の堆積によって発生したとNHKの解説にあったが、原城内の池の湧き水と島原の湧き水発生要因とはどのように違うんだろうかよく理解できなかった。

原城と言えば、同じNHKの「英雄たちの選択」でも「島原の乱 」を過去、取り上げている。
当時のNHKの番組説明によると、「日本史上最大のキリシタン一揆、島原の乱。今も、原城からは、おびただしい数の人骨が見つかっている。その後の歴史を変えた天草四郎と松平信綱の命がけの対決・島原の乱に迫る。日本史上最大のキリシタン一揆、島原の乱。天草四郎のもと蜂起した一揆軍約37,000人が立て籠もった原城」。そのテレビ番組を見た際の印象を、本ブログに書いたこともあるので再投稿してみたい。

私は九州を出て、生まれ故郷は島原だと言うと、何故だか天草と混同されることが多く、九州外では島原も天草も一緒にみられているようだった。実際は、島原は肥前長崎に属し、天草は肥後に属するから全く関係ないけれど、島原の乱発生と同時期、天草地方にもキリシタン一揆が多発し、これらが一色単にされ「島原・天草の乱」としてまとめられた事で、島原も天草も同じと混同して覚えられていたのかもしれない。あるいは「島原の乱」の首謀者天草四郎による「天草」の名前の影響があったのだろうが、何れにして島原と天草は言葉も習慣も違う。

「島原の乱」後、江戸幕府は「キリシタン禁教令」を発令し、表向きは全面的にキリシタン信仰を否定し多くの信者を処刑する迫害を行ったが、実際は隠れキリシタンとして生き残っていた。役人は色んな理由をつけて裏では容認していたようだ。島原地方には、「隠れキリシタン」に纏わる墓は多く存在しており、それは身近にもあった。例えば、田舎の実家の菩提寺は禅宗曹洞宗の「晴雲寺」だが、ここにもある。当時、「禁教令」の発令によってキリシタンの捜査や摘発、強制改宗政策が実施され、キリシタンは強制宗門替えを強要されたが、その受け皿の一つを担当したのが晴雲寺だったらしいと聞いたことがある。だからかどうか別にして、この寺の山門をくぐって右奥に「隠れキリシタンの墓」があり、裏に回ってみると十字が石に刻んである。法事で寺へ行き度に何度も見たが、今ではガラス箱内に収めてあるそうだ。

もうひとつ、現存していないので記憶の範囲内でしかないが、実家の近くに島原鉄道が走っている。小中学校時、その鉄道傍を歩いて通学していたが、鉄道沿いに小さい石の地蔵があって、それにも十字が切ってあったと記憶がある。だいぶ前、法事で帰省した際、その話を肴にして兄弟で酒を飲んだが、鉄道の直ぐ傍に国道が出来た際、無くなってしまったようで、記憶の範囲でしかない。

ところで、島原の乱では一揆軍は37、000人、攻める幕府軍は約13万と言われている。あんな狭い所に両軍合わせて約17万人(ウキペディアではそうなっている)(ちなみに、島原半島の中心、島原市の現在の人口は約4.6万人)が集結したとなると信じがたいが、一揆軍は敗北後、老若男女全員殺されたので、その後の島原は実働労働力が不足した。乱制圧後、この地に移住させられたのが四国等からの住民で、移住してきた四国の人たちの食べ物一つに、ケンミンショーでも紹介された「イギリス」という、今では島原の有名な郷土料理がある。喰ってもあまり美味し料理では決してないが、遠潮の有明海でとれる海藻を基本に作った料理だ。
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