しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

屋根の葺き替え

2020年09月10日 | 暮らし
家は麦藁屋根だった。
子どもの時、葺き替え工事があった。
手伝いをしたわ訳ではないが、古い藁にさわったのか、こすったのか・・・
工事の期間中、着ている服も、顔も煤だらけになった記憶がある。

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「新修 倉敷市史8」

屋根葺き

かつての倉敷の農村では、麦藁葺き屋根や葭葺き屋根が主流を占めていた。

二毛作として麦作り盛んであった。
一般の農家では、屋根材料の小麦藁は、自家製麦で賄われていた。
葭(よし)は、用水や干拓地や高梁川の中州などから購入された。
麦藁に比べて葭の方が耐用年数は長いが、費用は葭の方がかさんだ。
県北では萱(かや)を使うが、県南では葭(よし)を使う。また一緒に使う場合もある。




手順
丸太を使った足場作りから始まる。
長い丸太を屋根の垂木に縄でくくりつけ、およそ2m間隔に置き、上に板を渡し、作業の通路を作る。

垂木の上には桟竹を並べて屋根の下地とする。
古屋根の修理の時には、腐ったり虫食いした竹や、屋根の扠首(さす)組みの取替や補修が行われる。

次に、屋根に葭を挿す作業にかかる。
屋根の下地に使う葭は、傷みの少ないものを再利用した。
新しい葭に比べ、古い葭は長さが短くなっているので、新しい葭と交互に挿すことで、葭の傾斜が屋根の外側で緩やかになり、葭が滑り落ちることが防げる。
もちろん予算の面から、新品ばかりでなく、古い葭の再利用も行われた。

昔は、倉敷周辺にも、草葺き屋根職人が30人ほどいたが、今では都窪郡早島町に、明石芳行がいるだけである。
屋根屋は、親方に弟子入りし、技術を覚え、設計・足場・葺き手間・手伝いの見積もりができなければならなかった。
普通家屋で2~3にん、下働きが3~5人。
農村の場合は「モヤイ」として近隣・親類の手助けがおこなわれた。

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桃娘とマスカット娘

2020年09月10日 | 昭和26年~30年
昭和30年前後、岡山駅の桃娘やマスカット娘はどのようにして乗客に売っていたのだろう?


下りの「博多行」の列車。
汽車が止まると同時に窓に寄りアピール。
売れると、品物を渡し、お金を受けとり、おつりを差し出す。
2~3人目の客になると、発車時間が迫り、時にはおつりをもって走りながら手渡しか。




こちらマスカット娘。
桃娘と同じで、売るのは特急または急行に限定された。
特急に庶民が乗ることは稀でなく、ありえない時代だった。
季節は夏。このため窓が開いているのが助かる。(当時は特急でも窓が開閉できたのだろう)






プラットホームでの、一般的な売り子は「弁当売り」で、駅弁をおじさんが売っていた。
慣れた動きと声で販売していた。



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「目で見る岡山の昭和」 蓬郷巌著 岡山文庫 昭和62年発行


昭和4年

高松稲荷のケーブルカー開通
備中高松最上稲荷と山上の奥の院を結ぶケーブルカーが開通した。
(昭和19年廃止)


昭和27年

岡山駅に桃娘が登場(7月)
旭川で鵜飼い舟開始(9月)
順宮厚子内親王と池田隆政氏と結婚
玉島市や笠岡市が誕生


昭和31年
岡山駅にマスカット娘登場

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発動機とバーチカルポンプ

2020年09月09日 | 暮らし
子どもの時、家にある唯一ともいえる近代的な農具は発動機だった。
発動機で脱穀したり、
畑や田んぼの灌漑にはバーチカルポンプとに使用していた。

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「目で見る岡山の昭和」 蓬郷巌著 岡山文庫 昭和62年発行

農発とバーチカルポンプの普及

昭和2年
石油発動機の大量生産が昭和時代に入るとともに増えて、県内の普及台数は25.000台で全国第一位。
昭和12年の「岡山農発」の生産は17.000台で、全国60%のシェアを誇った。
かんがい専用のバーチカルポンプも全国に先がけて普及し、機械化農業の先進県になった。



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和服の女子・洋服の男子 (昭和4年の城見小)

2020年09月09日 | 昭和元年~10年
父の小田郡城見村立「城見尋常小学校」の卒業記念写真。

男子児童数が37人・・・全員学帽・学生服
女子児童数が38人・・・1名が洋服、37人が和服。

この2年後くらいには女子も全員洋服になったと思われる。




父の話などで推測すると、
男子はこのうち、半数が高等小学校、半数が中等へ進学。
中等学校進学の半数が神辺実業。残りは笠岡商・金光中・福山中(誠之館)。
高等教育は、大学なし。陸軍士官学校1~2名。

※管理人の卒業写真は父と同じ場所。最前列がイス、男女は右・左だった。驚くのが、父の方が生徒数が多い。


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「目で見る岡山の昭和」 蓬郷巌著 岡山文庫 昭和62年発行

昭和2年 学童服が普及

大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、学童たちの服装が、和服から学童服へと急速に変わっていった。
昭和13年ごろには10.000.000着と、全国の90%のシェアを誇り「学生服王国」となった。

女子学童の和服姿も少し遅れて洋服への転換が進み、昭和4年ごろにはほとんどが洋服になった。


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隔離病舎

2020年09月08日 | 暮らし
伝染病は怖かった。
2~3日前には、いっしょに遊んでいた子があっという間に亡くなった。

家族では昭和20年の赤痢が流行した年、祖母と曽祖父が感染、隔離病舎に送られた。


(小田郡城見村の隔離病舎跡地。現在は笠岡市「恵風荘」)

その時、祖母は治り、曽祖父は死んだ。



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「金光町史本編」 金光町 平成15年発行


隔離病舎

伝染病の予防は諸外国との不平等条約改正のためにも政府は力を入れ、
隔離病舎建設を市町村に強く要請した。
「悪疫流行については、避病舎設置を厳達あり」強制を迫られた。

伝染病の隔離病舎維持に莫大な経費がかかるため、対策として村民にその予防法を提示している。
それは
「蠅の駆除、肥溜の管理、寝具等の日光消毒、食器等の煮沸消毒」等を挙げた。

一例・昭和3年の患者数
赤痢 19(死亡6)
腸チフス 3
パラチフス 13
計35人。
伝染病関係費合計9191円。
町会計の5%を占め、重い財政負担であった。

隔離病舎の患者治療の要員は、患者が出た時、村の医師、看護婦に看てもらい、その賃金を村議会承認のもと村から支給していた。
その後、隔離病舎は存続したが、衛生思想の発達と医療の進歩で患者が減少し、近隣の市町村が協力していくという広域体制が整い、
昭和42年議会で廃止が決定し、同年備南伝染病隔離病舎組合に加入した。


明治期の保健衛生は伝染病との闘いであった。
ただ神仏に治癒を祈る状態であり、大正時代も同様であった。
抗生物質の薬のない時代、
また薬が高価な時代の伝染病との闘いは
いかに苦しかったか想像に絶するものがある。

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病気・・・戦中・戦後

2020年09月08日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


戦時体制下の医療


1929年の世界恐慌の波及による不況は、農村を疲労させ、産業の合理化は多くの失業者を生み出した。
凶作に苦しむ東北では娘の身売りがみられ、欠食児童の急増や母子心中の増加が社会問題化していく。

国民の体力低下を如実に示したのは、
徴兵壮丁検査の結果である。
徴兵検査の不合格者は大正末期、1000人につき約2502人であったが、
1930年代には350~400人にまで増加した。
筋骨薄弱者や結核患者が急増。
合格者のうち、甲種合格者は年々減少していった。

危機感を感じた軍は、新しい省の設立構想を打ち出した。
「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、
中央行政機関の整備を強調した。

1937年首相に就任した近衛文麿は、新しい省の腹案を提示した。
1938年、厚生省が誕生した。
明治以来の内務省衛生局は新省の衛生・予防のほかに体力局によって担われることになった。



人口政策

明治5年に35.000.000人だった人口は急増し、昭和12年には70.000.000人に達した。
高い出生率と死亡率の上昇で、多産多死型となった。

人々は窮乏生活に耐えながら多くの子どもを産み、何人かを失いつつ、低賃金労働に従事することを余儀なくなれた。

1918年の米騒動は、農業生産の停滞と米の需要増大との矛盾に起因し、人口と食糧の均衡が破綻した。

1922年産児制限運動家のサンガー夫人が来日すると、日本でも産児調整運動が高まりをみせた。
この動きに政府は弾圧を強めた。
国は、人口増加策を維持したまま、海外進出によって人口問題解決する方針を展開していくのである。

1940年代に入ると、軍主導のもとで積極的な人口膨張政策が打ち出された。
アジアへ軍事的進出を企てる戦時国家体制を前提とした人口政策は理念上問題があっただけでなく、医師不足のなか、
保健婦や保健所が中枢機関となった。

生活と健康は悪化の一途をたどった。

軍関係の病院や療養所は着実に増加した。
しかし1944年から米軍による爆撃で病院焼失や破壊が増え、病院数は減少していった。



戦時体制下の健康問題

未熟練工が長時間労働に従事したため、機械による外傷や指の怪我などが増え、結核や脚気の羅患者も増大した。



戦後の医療

GHQの医療分野はPHWが担当した。
PHWができる1945年、日本では伝染病が急激に増加していた。
占領軍への感染を恐れたPHWは検疫を強化、患者の隔離、薬品の準備などを進めた。

伝染病と並び食糧不足が占領軍を悩ませた。
餓死するものが出るほど危機的状況が進行していた。
占領目的が脅かされることを心配したマッカーサーは、食糧緊急放出と同時にアメリカ政府に食料供給を要請した。
1946年民間団体ララが援助物資が届き、学校給食が開始された。
パンに脱脂粉乳という、当時の児童にはなじみのうすい食事には日本人の栄養摂取パターンを変えるというねらいもこめられていた。

終戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。
応召や徴用により医師や職員が不足したうえ、医薬品や医療機器も払底しており、惨憺たる状況を呈していた。
PHWはまず、軍関係医療機関の厚生省移管であった。
軍の医療機関は国立病院や国立療養所となった。



人口の高齢化と疾病構造

終戦直後に男女とも50歳代であった平均寿命は40年後の1985年(昭60)には男性75才、女性80才までに達し世界の最長寿国となった。
長寿は、人類が太古から希求してきた「夢」であるが、長いきは、必ずしも幸福にむすびつくわけではない。
本人や家族だけでなく、社会も困難な課題に直面することになった。

「人生50年時代」には、個々の家族によって担われいた高齢者のケアが「人生70年時代」にさしかかったこの時期に、社会問題として浮上してきた。


「健康日本21」

成人病と呼ばれていた疾病は、患者本人の節制不足を強調した「生活習慣病」と言い換えられ、野菜摂取量や平均歩数を
掲げながら、政府が主導する国民の「健康管理」が進められた。
2002年には「健康増進法」が制定され、「国民は、生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と国民の責務が明記されている。


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病気・・・予防医学など

2020年09月08日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


性病予防行政

性病予防行政は、売買春の場を中心に警察によって展開された。
検梅を実施した。
娼妓たちの商品価値の維持と営業保全と目的に検梅を実施した。
遊郭の経営者たちは、娼妓が病気で休むことを避けようと画策したため、医学的な予防対策としては限界があった。

性病はコレラや天然痘のように目に見えるかたちで社会に衝撃を与えるわけはない。
その対策は遅れた。

1910年サルバルサンを発見したことによって、梅毒はようやく治癒可能となった。
この薬は副作用が強く、ペニシリンが登場するまでは治療に困難が伴った。
一般の人が梅毒の苦しみや恐怖から解放されたのは、ペニシリンが普及するようになった戦後のことである。


東京大学医学部付属病院

1877年「貧困にして、研究上須要と認る者を無料入院せしめ、治療を施すもとす」、と記され
医学研究のための患者確保にあったことがわかる。


慈恵医療

1910年代、
「廃兵」(傷痍軍人)の存在が社会問題化となった。
1911年恩賜財団済生会が設立された。
済生会は、天皇からの下賜金と一般寄付金で、貧民救済し、国民を国に有用な人的資源としていくための方法で、慈善ではない。


医師会誕生

医師会の設立は任意とされたが、1910年各地で医師会が形成された。
これを加速させたのは1916年に薬剤師が提起した医薬分業問題である。


乳児死亡と母子保健
大正の頃、生後1年未満の乳児死亡は1.000対150を超え、1918年には188.6を記録した。
さまざまな保健指導機関が登場した。

1930年代に入り、戦時を支えるための健康が求められるという逆説的な状況はさらに進展していくのである。


看護職

1885年(明治18)新島襄が同志社病院の中に看護婦学校を設けた。
次いで東京帝大附属病院、1889年には日本赤十字の前身である博愛社に。
日本赤十字社は、当初から陸軍との関係が深く博愛慈善の欧米の赤十字とは異なった性格をもっていた。
看護婦は軍隊における需要に基づいて増加してゆくことになる。

助産婦(産婆)は、
江戸時代から女性の職業として認められていた。
1899年産婆規則により試験制度が導入され、業務・資格が統一された。

薬売り
庶民の多くは病院や医師による診療とは無縁の生活を送っていた。
人々の健康を支えていたのは、伝統薬である。
日本では古くから各地で薬の行商が行われ、各家庭ではなじみの業者から買い入れた薬を常備していた。
越後の毒消し売りは、
女性が売り子である。
大きな荷物を背負って関東・信州・会津を農家に泊まりながら販売した。
薬事に関する法律が整備されるにつれて行商のスタイルや扱う薬品が変わった。
戦後も1970年代まで続けられた。

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病気・・・伝染病など

2020年09月06日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行



伝染病と衛生行政


幕末から明治初期における急激な社会変動がもたらした人口の大幅な流動化によって、伝染病は全国に蔓延した、死者数も増加した。
医療・衛生にとどまらない深刻な社会問題と化した。

痘瘡については強制種痘が施行されていた。患者に対する療法はなかった。

住民の糞尿が肥料として使用されることが多く、コレラ・腸チフス・赤痢など消化器伝染病が発生すると、感染は一気に拡大した。
患者が発生すると自然治癒をまつしか手がなかった。


コレラ

コレラは、安政5年(1858)に大流行。
治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。

人々はコレラを「トンコロ」と称して非常に恐れた。
政府の対策は検疫強化と侵入後の消毒・撲滅・遮断・隔離に重点がおかれた。

患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。
患者を天井裏に隠す例も少なくなかった。

文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。


性病

明治初期に設立された特定疾患を対象とした病院で、伝染病院と並んで梅毒病院が多い。
公娼制度のもと各地にみられた遊郭は、梅毒をはじめとする性病の感染源となった。
病気は人々の生活の中に深く入り込んだ。
事態を変えたのはイギリス公使パークスである。
1867年(慶応3)、開国後の日本に駐在することになったイギリス軍は、
検梅制度の実施を強く求め、これに応じるかたちで遊郭に梅毒病院が設置されるようになった。

梅毒
18世紀後半ファン・スウィーテン液が蘭方医に伝幡し1932年まで引き継がれた。
駆梅療法剤としてサルバルサンが1909年に出た。
ペニシリン等の抗生物質が1952年以降確立された。




脚気

明治期に入ると国民病といわれるほど患者数が増加した。
とりわけ、
産業化につれて都市に集中するようになった貧困層に羅患者が多くみられ、その病因は副食が乏しい白米中心の食生活にあった。
症状が急転し、死に至ることも稀でなかった。
伝染病ととらえ怖れる人も少なくなかった。

1878年、患者は陸軍の1/3にのぼり、軍部内の深刻な問題になった。
陸軍に米麦混食が普及し、その結果、脚気の発生は低下傾向に向かった。

1910年鈴木梅太郎が玄米にオリザニン(ビタミンB1)があろことを発見、第一次大戦後、
恐ろしい伝染病とされていた脚気は、栄養に配慮することによって克服できる病気へと変わった。



結核

江戸時代に労咳などと呼ばれた結核の多くは肺結核であった。
空気感染であったので都市化と共に流行した。
一種の伝染毒であり、書生・奉公人・処女のままの人に多く、看病人・医者・針医・按摩にも伝染する。



女工と結核

結核は20世紀半ばまで、死病として恐れられてきた。
明治期の近代化の過程で、産業の発展と共に「国民病」となった。
衛生学者石原修は、内務省と農商務省から嘱託され1910年工場調査をおこなった。

日本の工場労働者 約930.000人
うち民間工場 約800.000人
うち女性が 約490.000人
うち60%が 繊維工場で20歳未満の女性。

女工
約7割が寄宿舎に入り、一日14~16時間労働 徹夜作業が状態
体重低下、発育不全。
石原は、劣悪な労働環境、長時間労働、寝具の共同利用と不衛生な寝室について記述し、
これらが結核伝染の温床となったことを明らかにした。

問題は工場の外にも広がった。
結核に罹患し解雇された女工は、転々と職業を変えつつ都市で生活するか、帰郷することになる。
いずれの場合も治療を受けられないまま、辛い療養生活を送り、そのまま死に至るものも少なくなかった。
そして、
彼女らが感染源となって農村に結核が蔓延していった。

結核死亡者は増加の一途をたどり、全国主要都市に療養所が設置されたが、療養法が確立されず救貧施設の域を出なかった。
本格的な取り組みは軍隊における結核が深刻化する1930年代まで待たねばならなかった。




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真備町「岡田更生館事件」その1・・・TV「アンビリバボー」から

2020年09月04日 | 昭和21年~25年
フジテレビ・「アンビリバボー」
放送日・2020年9月3日 20:00~21:00


真備町といえば、「2018西日本豪雨」で全国に被災報道がされた。

その、真備町岡田といえば
横溝正史の疎開先で知られ、地区には「金田一耕助」の看板や標識があふれている。


終戦後、町に浮浪者があふれていたころ吉備郡真備町岡田に厚生施設ができた。




それが「岡田更生館」。



管理人の妻は、学校卒業後、真備町岡田に毎日通勤していた。
その妻に「岡田更生館」のことを聞いても、まったく知らなかった。
管理人も、知らなかった。



(一定の年齢以上の人なら)
誰でも知っている、毎日新聞”大森実記者”。






大森記者が更生館を取材した。





そこには、
監禁・虐待・暴行・傷害・殺人・搾取横領、
栄養失調・感染症が充満していた。





大森記者の記事が毎日新聞に載ると、国会に取りあげられた。




岡田更生館はモデルともいわれた施設。
県の指導下にあり補助金もあり、当然県の監督責任も大きかった。





70余名が死んだこの事件は、
結局、更生館の館長等が裁判で、執行猶予付きの判決を受けて終了した。






時代背景があり、関係者の事情や言い分は、現在の人には理解できにくい面があると思う。


しかし、
「実際に在ったこと」は史実として書き残さないと、無かったことになってしまう。
その面からも、今回の放送は意義あると評価したい。


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「知られざる福山海軍航空隊」展

2020年09月04日 | 令和元年~
写真・2020.9.1
場所・福山市伊勢丘 「福山市東部支所」


東部支所の玄関ロビーで写真展をしている。
図書館ついでに見学した。







戦時中、大津野村長の弟さんは海軍中将という偉い人で、昭和18年その縁もあり津之下に飛行場ができた。







飛行機は田島や神島に隠したとある。

神島には10機以上、茂平も2~3機隠していた。









昭和19年3月に宅間航空隊の下部だったが、昭和20年3月「福山海軍航空隊」として独立した。









そして戦争末期、
「水上観測機により6月25~28日、沖縄本島付近に突入。9人死亡。」とある。


時速が新幹線並み、またはそれ以下の飛行機で突っ込む。
しかも観測機。

出撃した日さえ、あいまい。







さらに、戦死の発表は、その2ヶ月後。

「8月10日海軍省が9名の戦死を発表」。





国家に殉じた行為でありながら、兵の死は虫けら同然の軍だったのがよくわかる。








戦後は広大の水産学部や予備隊の病院だった。

現在はJFEの駐車場で、
「JFEフェスタ」の主会場になっている。



終戦後の写真と思えるが、塩田が広い。

飛行場の跡も、塩田の跡も
今は、たぶん何一つ残ってない。

神島の飛行機を隠した場所は、目を閉じれば、いくらか思いをはせることができる。





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