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今日、火葬場で待っている時、小学生を連れたお父さんからからこんな質問を受けた。
「息子が、どうしてお通夜とお葬式をやるのか、聞きたいらしいんです」
昨日と今日の自分が参加している、亡き人を送る行事の意味を聞きたいのだろう。
自分ではどう答えるだろうと思いつつ、笑顔で「いいですよ」と言った。
さて、葬儀場から全てを終えて、こうして帰ってきて、明日の大行事の塔婆を書きながら、先ほどの答え方を思い出して、「トホホホ、俺ゃ、まだまだだな……」とガックリ頭を下げた。
だってそうだ、火葬場では次のようなヘンテコリンな答えしか出来なかった。
「この世とあの世(ヨミの世界)は世界が逆になっていて、昨日のお通夜で皆が集まっておじいちゃんを送ると、あの世(黄泉の国)では朝みんなで送り出すことになるんだ。そして、やっきやったお葬式は、この世の人がおじいちゃんを昼間送る行事なんだよ。お通夜はお別れの会、お葬式は見送る会みたいなものなんだ」
――私の頭の中では、体育館などの屋内で行なわれる卒業式が“お別れの会”。その会が終わって外に出て、去る人の後姿を見送るのが“見送る会”――そんなイメージがあった。が、彼には伝わらなかったろう。
お釈迦さまが亡くなった時にそばにいた人たちが夜通しお釈迦さまのそばにいた――そんな故事は昨日のお通夜で触れておいた。今日の小学生への説明は、日本の黄泉(よみ)の国にまつわる、日本人の民俗学の成果をふまえた話に彩りを添えたつもりだった。
なぜ、言わなかったのだろう。どうして言えなかったのだろう。
「死んじゃったおじいちゃんを、夜一人にしちゃ可哀相でしょ。だからお通夜をやるんだ。そして、死んじゃうとこの世の人じゃなくなるから、あっちの世界へ送らなきゃならないだろ。だからお葬式をして、お坊さんのお経の力やみんなの力で、向こうの世界へ送ってあげるんだよ」と。
子供の質問は大好きだ。なぜって、子供に上手く答えられれば、たいがいの大人はそれ以上に分かってくれるものだからである。
私達の日常の大問題や些細な問題の中から出てきた仏教は、長い間に、哲学的になり、結晶化され、日常生活とは遊離したてものになっている。私が大学で習った仏教や、本で読んで学んだ仏教は、ほとんどそういうことである。それでは意味がないではないか……そう思ったのは30才を過ぎたころだった。それから20年、私は今でも、自分の仏教知識を日常生活レベルでの再構築しつづけている。
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かたつむりが敷石の上を歩いて(?)いた。辞書によると「つむり」は「つぶり」つまり頭のことである。固い頭の意味か?ネットで調べればわかるだろうが、その時間がない。うはは。
昔から♪でんでん虫♪のなかの「角出せ、槍出せ」の部分が気になっていた。でんでん虫にすれば、何かを刺すような、角もなければ、槍もないであろうに。「あんたら、人間は心にそういうのを持っているらしいけどな」と独り言を言っているような気がするのだ。
そう言えば、でんでん虫の“でんでん”、そしてカタツムリの異称の「まいまいつぶり」の“まいまい”は辞書では「舞舞」が宛ててある。
古(いにしえ)の人々は、あの動きに「でんでん」という「舞い」を、感じたのだろうか。
さらに英語でははsnail:①かたつむり(怠惰・罪人などの象徴)、②のろま・無精者--の意だ。まったく気の毒である。
カタツムリのようなゆったり人生……それもまた、いいではないか。
ところで、スネイルにネイルはあるか、なければ「ねぇ、いる?」……などと考えている間に、すっかり寝入る。どははは。
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密蔵院で二カ月に一度やっている「浪曲の広場」のご縁を作ってくれた檀家さんが亡くなったとの知らせがあったのは夕べの22時過ぎこと。
さすがに看病でお疲れだろうと思い、夕べは遠慮して今日お昼前に、通称「枕経(まくらぎょう)」をあげに、ご自宅へ伺った。
20年ほど前になるだろう。お孫さんが亡くなった家から電話があって、深夜23時をまわったころに枕経に伺ったことがある。
「この子を、何もしないで、そのまま寝かせておくのは落ち着かないんです。せめて、早くお経をあげてやってくれませんか」--おばあちゃんのそんな声に応えたものだった。
それまで、依頼されない限り伺わなかった(私が育った寺では「枕経」の習慣は無かったので、そういうものだと思っていたのだ)のだが、それからは時間と距離さえ都合がつけば、できる限り枕経に伺うようにしている。
生存という状態から、死という異常な状態に変化した事態を、何とも思わない遺族もいるだろう。それは亡き人当人も同じことだと思う。
しかし、上記のおばあちゃんの「おちつかない」は、亡くなったお孫さんの魂が落ち着かないし、残された遺族の心もおちつかない、という意味だと思う。
その双方を落ち着かせるために、亡くなって間もない時に、仏の教えを枕辺で唱えるという習慣が残されている。
お坊さんに拝んでもらうにこしたことはないが、近所の人でも、親戚の人でも、お経が読める人がいたら、まず読んでもらうといい。たどたどしくても、お経の功徳に変わりはないから大丈夫。
譬(たと)えが適切でないかもしれないが、
--旅行初日に家から出発して、アチコチ観光して、夕方宿に入って、仲居さんが部屋でお茶を出してくれる。「ああ、やっと落ち着いた…」と言葉がでる--
枕経は、亡き人にとって、遺族にとって、「旅先の宿に入って、最初に出されるお茶」と似ているかもしれない。
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さていよいよ『悟浄出世』も最終回。どんな結末にあいなりますやら……。
悟浄が木叉恵岸の言葉(前回でご紹介)を聞いて、こんなことをとりとめもなく考えました。
――そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうな時に、そういうことが起こるんだな。――中略――今の夢の中の言葉だって、女禹や蚯髭鮎師(きゅうぜんねんし)の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうもへんだぞ。
しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧とやらが、本当にここを通るかもしれないという気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことがおこるものだというやつでな。……--
彼はそう思って久しぶりに微笑した。
その秋、果たして、大唐の玄奘法師と会い、その力で水から出て人間にとなりかわることができた。そうして、天真爛漫な孫悟空と、怠惰な楽天家猪悟能(猪八戒)とともに、新しい遍歴の途にのぼることとなった。
しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病の抜けきってきない悟浄は、依然として独り言の癖を止めなかった。彼はつぶやいた。
――どうもへんだな。どうも腑に落ちない。分からないことを強(し)いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか?どうも曖昧だな!あまり見事な脱皮ではないな!フン、フン、どうも、うまく納得がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……--
※ ※ ※
ここから先は、みなさんご存じの西遊記。長い間、連続でお読みいただきました、中島敦著『悟浄出世』、これにて、読み終わりとさせていただきます。
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さて、いよいよ『悟浄出世』も一幕の終わりに近づきました。さすれば、はしょらずに、丁寧にやってみましょう。ィヨーッ、まってました。
夢か現(うつつ)かの悟浄の前に姿をあらわしたのは、悟浄をいたく哀れんで、この頭でっかちなカッパの妖怪を救わんとする、観世音菩薩とその弟子の木叉恵岸(もくしゃえがん)。
木叉恵岸が師の思いを代弁して悟浄に言います。
――身の程知らずの悟浄よ。よく聞きなさい。――中略――汝は思考によって救われるべきくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を捨て、ただただ身を動かすことによってみずからを救うと心がけるがよい。
時とは人の作用(はからき)の謂(いい)いじゃ。
世界は、概観によるときは無言のごとくなれども、その細部に働きかけるときはじめて無限の意味を有(も)つものじゃ。
悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打ち込め。
身の程知らずの『何故』は、向後(こうご)一切捨てるのじゃ。これをよそにして、汝の救いはないぞ。―――
――さて、この秋、玄奘法師とその二人の弟子が、唐の皇帝の命を受け、天日に真経をとらんと赴く。悟浄よ。汝も、玄奘に従(したご)うて西方に赴け。途は険しかろうが、よく疑わずして、ただ努めよ。
弟子の一人に悟空なるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。汝は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ――
悟浄が再び頭をあげた時、そこには何も見えなかった。彼は呆然と水底の月明かりの中に立ち尽くした。妙な気分である。
ぼんやりとした頭の中で、彼は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
……それは次回、最終回のお楽しみ。
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悟浄の肉体はもはや疲れ切り、ある日、彼はとある道端にぶっ倒れ、そのまま何日も眠り続けた。
目が覚めてから、悟浄はどこからともなく聞こえてくる歌に耳を澄まします。
江国春風吹不起(こうこくのしゅんぷう、ふききたらず)
鷓鴣啼在深花裏(しゃこないて、しんかのうちにあり)
三級浪高魚化竜(さんきゅうのなみたこうして、うおりゅうにかす)
痴人猶斟夜塘水(ちじんなおくむ、やとうのみず)
(名取アヤフヤ訳、トホホ。)
河の中の国には(心をはればれとさせるような)まださわやかな春風は吹かない
山うずらはただ啼くばかりで、多くの花の中にいて姿も見えない
三段の滝をのぼりきった魚は竜になるという故事があるのだが(「登竜門」という言葉はこの話が元)
愚かな人はいまだに、夜の河の水を酌んでいる
この歌をいつまでも聞きながら悟浄は夢とも幻ともつかない世界に入っていきます。周囲の水草も魚の影も突然消え去り、えも言われぬよい蘭麝(らんじゃ・※蘭と麝香[じゃこう]の香り)の匂いが漂ってきました。
と思うと、見なれぬ二人の人物がこちらへ進んで来ます。
それは…… 観世音菩薩とその弟子、木叉恵岸(もくしゃえがん)の二人。
さぁて、この二人からのサジェスチョンは……。次回。
あと二回で終了です。
※ ※ ※
今日から二日間は実家(寺)のお手伝いモード。密蔵院のことも自分のことも、何も手がつけられない二日間とあいなります。
車で5分の所に在る実家ですが、
「惚れて通えば 千里も一理 父母眠る場所だもの 私が育った寺だもの」(都々逸にしちゃ、最後の七五が余計だわさ)ベ、ベん、べんといったところです。
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悟浄は女兎のもとに滞在している間に……
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福をさがしていたのだということが、悟浄に解りかけてきた。
自分は、そんな世界の意味を云々するほどたいした生き物ではないことを、彼は、卑下感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。
そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気がでてきた。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、失敗への危惧から努力を放棄していた彼が、骨折り損を厭(いと)わないところにまで昇華されてきたのである。
※ ※ ※
この部分は、人生哲学や宗教で頭でっかちになっている人が、笑顔で生きていくために、おそらく、くぐるであろう門の前後のことを、その心理を、見事に表現していると思う。私にとっては10年ほど前のことになるだろうか。否、まだまだ潜らねばならない門が、この先、まだまだありそうだ(悟浄がこの後、三蔵法師たちと長い天竺への旅にでるように)。
しかし、どのみち、こうした心理は、門を潜ってしまってから、うしろをふりかえってからでないとわからぬ。
だから、まだ潜ってもいないし、見えてもいないその門のことを考えても仕方がない。楽しみに待ちつつ、日々を前向きに、暮らしていこうではないか、と誰かに言いたいなあ。あはははは。
※ ※ ※
さて、『悟浄出世』はいよいよ大詰めでございます。運命的な出会いが彼を待ちますが、そこまで筆者、中島敦はどうストーリーを持っていくか。次回をお楽しみに。
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悟浄が女兎(じょ・う)のもとを辞してのち、『悟浄出世』の筆者、中島敦は、この時点での悟浄の心理の方向性を説明してくれています。「教え」の難解さにちょっと疲れている読者への心配りでしょう。
――一つの選択が許される場合、一つの途が永遠の泥濘(でいねい)であり、他の途が険しくはなってもあるいは救われるかれしれぬとすれば、誰しも後の途を選ぶに決まっている。
それだのになぜ躊躇していたのか。そこで、悟浄ははじめて、自分の考え方の中にあった卑しい功利的なものに気づいた。
険しい途を選んで苦しみ抜いた揚げ句に、さて結局救われないとなったら取り返しがつかない損だ、という気持ちが知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。
骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、武将で愚かで卑しい俺の気持ちだったのだ。
女兎のもとに滞在している間に、悟浄の気持ちもしだいに一つの方向へ追い詰められてきた。
※ ※ ※
筆者は更に悟浄の心理を力強い筆致で説明していきますが、それはまた次回のお楽しみ。なんだか、このあたりのクダリは、かつての、そして現在でも時々私の頭をかすめる気持ちを代弁しているかのようです。
※ ※ ※
長男と一緒に拝むご法事も、多分10回を越えただろう。今日一緒に拝んでいて、「本尊さまは私一人で拝むより、この若き青年僧侶と二人で拝むほうが、喜んでいる」――そんな気がした。
今日の法話の備忘録――M家のご法事「余生なんて言うの、よせぃ」、Y家のご法事「般若心経と“風が吹けば桶屋が儲かる”」、そしてお世話になっているお寺の行事では「信州信濃の早太郎」の一席。
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悟浄は師の女禹(じょ・う)に言います。
「実は自分は長年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼におちいるばかりであることを感じてきたのですが、今の自分を突き破って、生まれ変わることができずに苦しんでいるのです」と。
それを聞いて女兎は言います。少々長いですが、全文をご紹介します。
――渓流が流れてきて断崖の近くまで来ると、一度渦をまき、さて、それから瀑布(ばくふ)となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻きの一歩手前で、ためらっているのだな。一度渦に巻き込まれてしまえば、奈落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。
臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちていく者どもを恐れと哀れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛び込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬと充分に承知しているくせに。渦巻きに巻き込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。
それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い渦巻きの中で喘(あえ)いでいる連中が、案外、ハタで見るほど不幸でない。(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか―――
師の教えのありがたさは骨髄に徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
※ ※ ※
毎日のやるべきことに追われ喜怒哀楽で日々を過ごしている普通の人々、つまり私たち。
女兎は、人生の意味も判らず喘いでいる(と悟浄が思っている)人をたちを渦巻きの中の人、そして、人生の意味や自分というものを考えようともしないあわれな(と悟浄が思っている)人を、滝壺に落下している者として、例えています。
自分では何もしていないのに、人のやっていることを批判ばかりする……世の中では、悟浄よりもひどい、そんな人たちを時々見かけます。大勢の中で、一人でつまらなそうにしている人もその予備軍かもしれません。そういう人は『悟浄出世』読んだほうがいい。1時間かからずに読めますから。
さて、女兎のもとを辞して一応の遍歴に終止符が打たれた感のある悟浄が、どう思ったか……、それはまた次回のお楽しみ。
※ ※ ※
去る水曜日に密蔵院で撮影が行なわれたドキュメンタリー映画のスタッフから連絡が。今日東京大学で行なわれるシンポジュームに来ませんか?とのこと。このシンポジュームも映画の一環ですが、ラリーとトレーシーのほかに、日本の高校生作家で自閉症のおなき君も出るとのこと。密蔵院での話をご両親にしたところ、その坊さんにあってみたいとおっしゃっていた由。そういうことなら是非もない。再来週の行事のための塔婆書き350本を返上して、家内と参上することに。
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女禹(じょ・う)のかつて知っていた別の妖精は、たいへんみすぼらしい魔物だったが、常に「自分はある小さな鋭く光ったもの探しに生まれてきたのだ」と言っていた。
その光るものとはどんなものか、誰にもわからなかったが、とにかく、小妖精は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。
そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われる、と女禹は語った。
かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ最後に、師は次のようなことを言った。
――聖なる狂気を知るものは幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬものは禍(わざわ)いじゃ。彼はみずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に滅びるからじゃ。
愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索の仕方であると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識したか?--
※ ※ ※
悟浄はこの言葉を聞いて、自分の現在の悩みを女禹にぶつけます。そしてそれに対する師の答えは……。悟浄の悩みも、その返答も、次回へとお取り次ぎ申しあげます。┏〇”┓。
今日は午前中に、読売文化センター京葉(船橋ララポート内)の課長さんが、私を面接しに来寺。『心の大そうじ』を読んでくれて、「お坊さんと遊んじゃおう・話しちゃおう」的な楽しい講座をやるに、私が適しているか、否かを判断するためである。実現すれば面白いと思う。
夜は新宿歌舞伎町、ゲンさんの「かけこみ寺」をお借りして、寺ネットサンガの会の定例会。僧侶、葬儀社などへの不満、不信を解消するために、何ができるのか、考えてばかりいないで、やろうじゃないのという会である。私はその会の、一応世話人だが、世話人が何かをやるわけではない。世話人はそれぞれがすでに色々なことをやっている坊さんたち。さあ、思い熱き僧侶よ、集え、新宿歌舞伎町……。あははは。
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