もうせん

毛氈(もうせん)は、獣毛をフェルト状に加工して織物のようにした布。手触りや質感が化学繊維のカーペットとはまるで違う。お世話になって今日お葬式だったお坊さんは若いときに毛氈の会社にいたために、その良さを熟知していた。密蔵院にも三畳ほどの大きな毛氈をいただいた。ご自身のお寺にも畳の部屋に毛氈がたくさん敷かれている。火葬場にいる間、「これで死んじゃったからな。娑婆の細々としたことはモウセンぞ・・」--そんなダジャレを雲間で言っているような気がした。

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亡き人のために具体的に何かすることできれいな別れができる

錫杖は僧侶が旅をする時に持つ杖。そこから、錫杖を持って人々を仏教の教えで教化して救う活動を化錫(けしゃく)と言う。そして、お坊さんが亡くなることを「化錫の音がたえる」と表現することがある。今日、30年以上お世話になっているお坊さん(ご詠歌の大先生)のお通夜で和讃を唱えさせてもらった。「慈父よ恩師と慕わるる」、「寺門の栄え、世のためと、身を粉に削る 幾十年(いくととせ) ここに化錫の音絶えて・・・」--精一杯の「お疲れさまでした」の心を込めて唱えた。亡き人と上手に別れるには、その人のために何か具体的にすることだと思う。

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2017-11-28 16:31:12


今日は話さなかったけれど、今年あちこちでお話しさせてもらった国定忠治の「赤城しぐれ」。忠治処刑の場所に供養のために建立された忠治地蔵にお参りしてから講演会場の伊香保のホテルへ。90分の話だったけれど、寝ている人は確認できなかったから、まぁ、よしとするかな。
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消滅した一日

水曜日に出かけて木曜に帰ってくると勝手に思っていた。自分のことである。だから明日はオフだと思っていた。でも違った。私が群馬にお話に出かけるのは明日だった。それに気づいたのは今日の午前中のご詠歌終了時だった。うぎゃ!明日のお年寄り向け90分と木曜日の女性向けの話60分を考えねばならない。そして、金曜日の雑誌の対談用に本を一冊読まなければならない。その間にお世話になったお坊さんのお通夜とお葬式、本の原稿も書かねばならない。自分の勘違いとはいえ、一日分消滅したのは痛い。この事態を鎮めるために机上のロボットに菊を持たせ、犬を散歩に連れだすことにした。

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今日は「法話の辻」。午後四時スタートです。

今朝、ふと見上げると見事なウロコ雲がさざ波のように北東へ流れていく。どんな雲がこれから南西から流れてくるのだろう。楽しみにして時々空を見上げる一日にしようと思った。で、今日は午後四時から五時まで本堂で法話(?)、五時からは客殿でお酒を飲みながらフリートークの「法話の辻」。連日の早期望年会で頭の回転がよろしくありませんが(普段からですが)、16時までには何とかします。お誘い合わせの上どうぞ。ぐはは。

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下向け~っ、下!

なぜだかわからないけれど、桜の葉っぱが赤く紅葉すると、垂れ下がる。それを発見したのが59歳の今年だというのだから情けないやら、まだまだ気づいていな面白いことがたくさんということか・・・。あはは。周りを見れば、不思議だらけである。

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蓮上の透明感

今日は「写仏の庭」(13時~、19時~。お手本は立て膝をついた弥勒菩薩っぽい観音さま。うはは。たぶん40分くらいかかるでしょう。もう少し細かい線が入ったもののほうがが描いた達成感はあると思うのですが、参加者も年々ご高齢、否、何より書いた私の目が・・・。あはは。そろそろ、自分がもともと蓮の台(うてな)の上に載っていることを実感できる時間を増やしていきたいとも、透明感のある心で過ごせる時間を増やしたいとも思うのですが、なかなかそうは問屋が卸しませぬ。どはは。

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無気力状態脱出計画

起きる10分ほど前から久しぶりの「何もやる気にならない」無気力状態。軽度の鬱と呼んでもいいかもしれない。以前は一年の内30分くらいそんな状態になることがあった。ここ数年はそんなことはなかったから「久しぶり」なのだ。家内は「やらなければないないことが多すぎるからよ。もっと無駄なことをしたほうがいい」と坊さんの説教のようなアドバイス。あはは。ニャルホドとも思ったが、とりあえず窓を開けて部屋の掃除をした。部屋の空気を入れ換えると、心もシンクロすることが少なくないのを経験として知っているからだ。そして、10時からご詠歌のお稽古。大きな声で講員さんと『般若心経』を唱えたら元気になった。自分が出す大きな声に心が共鳴したようだ。あはは。

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小夜嵐の逆襲

朝、南向きに建っている本堂正面の雨戸を開けると境内には一枚の葉っぱもなくすがすがしい。素晴らしい!小夜嵐(さよあらし)が落ち葉うどこかへ持っていってくれたらしい。しかし、南にある駐車場のガラガラを開けて玄関へ戻ろうとしてニヤリとした。建物の南側に葉っぱが掘り返した土のようにたくさん吹き溜まっているのだ。結果的に掃除するのに40分かかった。住職のご都合など何処吹く風の小夜嵐である。ぎゃはは。※写真はイメージです。

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「いろは歌」の行方

公開講座の前に一時間目は、1年生から六年生まで全学級で道徳の公開授業。来年度から東京都では道徳が教科になる。指導要領に基づいた「やさしさ」などの結論へ誘導するような指導ではなく、生徒自身が考える授業が主流になるらしい。「こんな時、あなたはその人を許せるか」などが、具体的に教材に基づいて展開される。私は二時間目の公開講座の担当だけれど、一時間目の授業に合わせて学校に行って、各教室を見学して歩いた。その後の体育館での話への展開のためでもあるし、自分の勉強にもなると思ったからである。校長先生が「ご案内しましょうか」とおっしゃってくださったけれど「自由に回りますので、うっちゃっておいてください(放っておいてくださいの意)」とお断りした。そして、階段の踊り場で目を見張った(写真)。私は「いろは歌」は公立学校では扱わないと聞いていた。しかし、でっかく貼ってくれていた。「諸行は無常なり(色は匂えど散りぬるを)、是れ生滅の法なり(我が世誰ぞ常ならん)、生滅を滅し已(おえ)て(有為の奥山今日越えて)、寂滅を以て楽となす(浅き夢見じ酔いもせず)」。--形あるものは常ではない。仕方がないのだ。それが生滅という大原則だからだ。しかし、その生滅へのとらわれを離れて有為の(いろいろと気を揉むような)世界の奥にある山を越えていこうではないか。そこではもはや、浅い眠りの中で見る夢のような現実離れしたことを考えることも、酔っぱらって戯言(たわごと)を言うような心配もない精神世界。心はどこまでも静かで、煩わしさはなくなり、心がとても楽になるのだから。--「いろは歌」は仏教の教えというより、日本人の精神的文化だと改めて思った。

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