どうにか回る

家族がみーんないなくなった土曜日だった。わははは。家族はカレンダーに自分の用事を次々に入れていく。次男と娘はフリーだから、あんまり当てにしていない。しかし、家内と長男はお寺の職員だから、自分勝手に用事を入れるわけにはいかない。自分以外の人の用事を確認してからでないと、自分の用事を入れることができない。で、今日は住職がいそうだというので、「この日、私(僕)いーない!」とカレンダーに書き込む。書き込んだ者勝ちである。ぎゃははは。町の小さなお寺は、こんなんでも、どうにか回っていく。住職一人に留守番をさせおって!と憤慨しても仕方がない・・・と、来年のカレンダーの文句が決まった。どはははは。

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「カレンダー作ってネ!」

今日は「読経の庭」。皆さんに拝んでいただいて:日頃の私の拝み不足を補って余りあるご供養。ありがたいことでございました。拝み終えたお茶の席で「住職さん、来年もカレンダー作ってくださいね」との、これまたありがたいリクエスト。・・・そっか、もう来月には用意しておかないといけないのだな・・・と、言われて気づく不甲斐なさ。わはははは。早速ネットにアップされているフリー素材のカレンダーを物色。こういうものをただて使わせてもらえるのだからありがたいと思う。・・・なんだか今日のプログはアリガタイばっかだな。まあ、いいことだが、ありがたがってばかりではダメだ。そのご恩返しが大切なのだ。

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明日は「読経の庭」デス。

今日の午前中は1日の集まりのためにお地蔵さまの色紙を30枚認(したた)め、午後は雑誌『サイゾー』1月号の特集の取材を受けた(※写真は12月号)。1月号の特集は、宗教と音楽の関係みたいな内容になるそうだ。その中で、仏教と音楽の大雑把なお話を二時間させてもらった。ライターさんが書くための基礎知識みたいなことなので、私は写真も何も出ないはずである。内容盛りたくさんの『サイゾー』の読みごたえは、こうしたきめ細やかな取材に上に成り立っているのだなと思った。明日は14時から「読経の庭」。お経を唱えて、私のかーるいお話を聞いていただいて、お茶を飲む会である。

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太鼓判

激動の10日間だった。週にお葬式が二つあると、日程のやりくりと心的負担が大変である。遺族のケアーや、故人を仏の弟子にして仏さまに橋渡しするのは、やりがいはあるがとても大変だ。「お葬式はとても疲れるから、なるべくやりたくない」という先輩の言葉を思いだす。その間の大腸の内視鏡検査も「二、三ポリープがありましたが、今どうこうするような大きさではないので、二、三年様子をみればいいですよ」という温情ある言葉をいただいた。これで安心して飲んだり、食べたりできる。それにしても、検査前に2リットル飲まなければならない腸管洗浄液の味はマズイ。作っている「味の素」の人、どうにかなりませんか。

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「超柔訳」

シドニーシェルダンの『ゲームの達人』翻訳版の表紙の「超訳」という言葉は、出版元のアカデミー出版の登録商標だと知ったのはずいぶん前のことだ。私も般若心経や他のお経を超訳に近いほど砕いて読みやすくしようとしたいと思うのだけれど、「超訳」が使えないのはちょっと残念だ。そこで、来月締め切りの研究紀要の原稿のタイトルを『遺教経--超柔訳』とした。ぐははは。どうにか内容も書き終えることができた。いづれどこかでお読みいただこうと思う。

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せめてもの手向け

檀家さんのお嬢さんの訃報。看護婦さんをしつつ獣医さんになるための勉強もしていた前向きなお嬢さん。先月おじいちゃんの法事の後座で隣で楽しく一緒に飲んだばかりだ。遺族には「お通夜までお参りにきた方に、一字でも、一行でもいいから写経をしてもらってください」と写経用紙を渡した。渡してから、「では私は彼女のために何か具体的にしないのか」と自らに問うた。で、私なりに彼女への言葉とお地蔵さまをハガキに書いた。これから枕経。彼女に供えようと思う。

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偶然は準備していた人だけにやってくるものです

そろそろと、来年の写仏や浪曲の会や読経の会などの日程を決めなくてはならない時期。今日の写仏の会では、来年の日程を決めたが、さて、12回分の仏さまが決まっていなかった。ウェプの会社からは、「どんな仏さまを写すのかという情報があると、ぐっと具体性が増します」とアドバイスを受けていたので、仏さまを決めた。決めたら描かねばならぬ。わははは。どんなに素敵なお手本でも、印刷されたものをそのまま使うのではなく、描き直したものをお手本にしなけれはならない。お手本は信頼できないからである。で、とりあえず描いた。金剛塗香菩薩である。仏さまと会話しながら描けたような、孤独を感じない、いい時間だった。

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大道で犬と話す

〔大道で犬と話すようになる〕--お酒というのはちょっと寝酒に一合というといい心持ちになります。相手があって三合呑んだぐらいの所が一番宜しゅうございます。人事(人としての知覚や感覚。意識)を弁じなくなって、大道へ座ったまま犬と対等に口をきいているようになると、まことによろしくございません。---わははは。講談の中のセリフだが、とてもヒトゴトとは思えぬ。あはははは。昨日も明日も夕方から反省会という名の懇親会。気をつけたいと思う。※写真はイメージです。

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空気を食べる人

〔空気を食べる人〕--昔、中国には空気を食べる健康法があった。空気を食べると言っても、普通空気は吸うもので、気管から肺に入ってしまう。それを食道へ、さらに胃や十二指腸へと強引に押し込むのだから、過酷な修行をしなければ、とてもできるワザではない。ところが昔、この術を究めた仙人がいて、バクバクと食えるようになった。おかげで彼のお腹は空気で一杯になる。そうして、彼は千年の寿命を得たと伝えられる。以来、お腹が気体で一杯になることを、彼の名前を取って、「膨(ぼう)満感(まんかん)」と言うようになった。さらに、彼の一番弟子も空気で胃を大きくすることができるようになり、胃だけがふくれることを、この弟子の名前を取って「胃(いー)拡張(かくちょう)」と言うようになったのはご存じの通りである。昨日は人間ドック。胃カメラを飲んだ。空気をたくさん胃に送り込まれて、楽苦(たのくる)しかった。家内は私を人間ドックに送り出す時、「あなたは人間ドックでも何か話のネタにするんでしょ」と言ったが、正しい。わはははは。上記のような楽しい話を作ることができたのだから。

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魂胆なんて、知ってたん?

浪曲を聞いていたり、講談の本ばかりを読んでいると妙な言葉づかいが日常の中でヒョイと出てきて困ることがある。先日知り合いが、一般的にはあまり考えられない言動をした。家に帰って家内の前でヒョイと口から出たのが「あんなことをするのは、何か魂胆があるに違いないんだ」という言葉だった。この場合の「魂胆」は、何かしら裏がありそうだという意味である。そして、「魂胆」という言葉は現在、日常会話で滅多に使う言葉ではない。私の言葉を受けて家内が言った。「魂胆なんて言葉は使わないほうがいいよ。”どういう魂胆があるものやら”なんて言うようり、普通に”何か考えがあるんだろうね”くらいでいいじゃない」--わははは。なるほど違(ちげ)ぇねぇ。刀は鞘に、槍は袋に納まっている大平の世の中なれば、言葉もなるたけ穏便なものを使いたいと思う。

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