『悟浄出世』-紗虹隠士の巻-

 黒卵道人とその弟子に笑われて追い出されたのち紗悟浄が訪れたのは、年を経たエビの精、紗虹隠士(しゃこういんし)。
 すでに腰が弓のように曲がり、半ば川底の砂に埋もれて生きていた。悟浄はこの隠士のもとに90日留まることになるのですが、30日を過ぎた頃、老いたるエビの精は曲がった腰を悟浄にさすらせながら、深刻な顔つきで次のように述べました。

――世はなべて空(むな)しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理屈を考えるまでもない。――中略――我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。停まろうとすれば倒れぬわけにはいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと?そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢(はか)ない希望が、名前を得ただけのものじゃ。--

 悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように隠士はつけ加えた。

――だが、若い者よ。そう懼(おそ)れることはない。浪にさらわれる者は溺れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変を乗りこえて不壊不動(ふえふどう)の境地に到ることも出来ぬではない。――後略――

 ここで、悟浄は控えめに言います。
「自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についである、と。

 すると隠士は目脂(めやに)の溜まった目をしょぼつかせて答えます……が、長くなったので今日はここまで。

※昨日今日の密蔵院ニュース:昨日は新小岩のライブハウスで聲明ライブでした。今日は密蔵院で読経の庭(お経を読む会・14時~15時)です。
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