香典袋の中身の向う側

 昨日薄墨について書いてから、若い人と話していたら
「うちでは『余りの突然の出来事で、墨をしっかりすっている暇がありませんでした』という意味で薄墨で書くと聞きました」という話。
 そうですね。それもありですね。

 さて、香典袋の中身のお札は新しいものは入れないというシキタリがあります。
折り目の付いていないお札では、まるで亡くなるのも知っていて準備していたようで、申し訳ないからです。
 かといって、クチャクチャのお札を入れるわけにはいきません。そこで、なるべく新しいお札か、新しいお札の端に軽く折り目をつけて入れるという心やさしい方法が取られます。

 そんな心遣いをお札の端に見るにつけ、悲しみを共有し、気づかってくださっているという思いが伝わってくるものです。
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薄墨(うすずみ)の向う側

 訃報を聞いてお焼香に伺う時に香典袋に書く文字は、薄墨で書く--これが日本のしきたりである。

 なぜ薄墨で書くかと言えば、「悲しくて涙が硯にはいってしまい墨が薄くなってしまいました」という意味である。

 形なんかより心が大切でしょとシラケるより、こうした優しい心の裏打ちのある「形」をしっかり守っていきたいと思う。

 明日もこの続きでございます。
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「使い分け大変でしょう」

 この一カ月の間、初対面の方と話をして、三人の方から、いくらか気心が知れてきた頃にこんな質問を投げかけられた。
「お坊さんの時と今のような時とで、使い分けをするの、大変じゃないですか?」
「はっ?」である。私は使い分けなどしていないのだ。

 相手の方は、坊さんがこんなに気さくな筈はない、もっと真面目で、真摯な態度の筈である。だから、きっと今は、プライベートな時間なのだな……と思っているらしい。

 私はお坊さんとしてお経を読んでいる時だって、衣を着て法話している時だって、家族とご飯を食べている時だって、初対面の方とお酒を飲んでいる時だって、まったく使い分けはしていません。

 表と裏の顔(?)を使い分けするほど器用でないし、ありのままの私でいいし、そのありのままの自分をいくらかでも磨いていければいいと思っているのです。もちろん、TPOは考えていますが、「本日は公私ともどもご多忙の中をご参加いただきまして……」とは言いません。「今日はお忙しいところをお越しいただきまして」と普通に言います。
「作るな、気取るな、偉ぶるな」--これはお世話になった村上正行アナから聞いた話し方の極意ですが、私にとってこの言葉は人生の極意だと思っていて、なるべく実行しようと思っています。

 営業マンや店員さんとして、二つの顔を使い分けている方は、定年になったら使い分けをしない楽な生活をしたいと思う方がいるようですが、そんなものは定年なんか関係ありゃしません。今からやって、楽に仕事やプライベートを楽しめばいいと思うんです。
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ほう「齷齪」か……。

 今日、少々書き物をしていて「あくせくと仕事をして」という文章を書いた時のことだ。「変換」キーを叩いて出たのが「齷齪」という--虫眼鏡なしではとても見えない漢字二文字。初めて見た。

 齷は、歯の間がせまく詰まっていること。(歯+屋)
 齪は、歯をせかせか動かすこと。(歯+足)

 なんだか、リスがクルミの実をかじっているみたいだ。

 人間さまもリスくらい可愛らしく齷齪していればいいものを、残念ながら汗水たらして必死の形相で齷齪している。--リスにしてみれば、必死の形相なのかもしれいなが--。

 齷齪しているこの坊主を、だれか「リスみたいだね」と言って、笑わせてはくれぬか。
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「ダブルヘッダー」ではないのだな

 今日はご詠歌の練習二会場。これを称して「今日はダブルヘッダーのご詠歌です」と言っていたのだが、調べてみたら……違ってた!

「ダブルヘッダー」は同じチーム同士が同じ日に二度試合をすることだから、相手が異なれば「ダブルヘッダー」とは言わないのだ。

 したがって、今日はご詠歌の「二本だて」と言うべきなのだ。

 そして「ダブルヘッダー」を調べたら「機関車二台つきの列車」の意味もあることが判明。機関車二台とは凄い馬力である。

 よし、ダブルヘッダー並みの馬力で、二本だてをこなしていこう。
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「ハカドル」

ハカドル……お寺に墓を取るで「はかどる」でもないし、  
        破壊的アイドルで「ハカドル」でもない。

 「捗(はかど)る」だ。

 やらないで放っておいたことを一つ一つこなしていく。お坊さんはどこかに勤めていない限り、毎日が日曜日(これを称して「サンデー毎日」と言ったかどうかはしりません。ぐははは。)。
 そうは言っても何か用事があれば日がな一日寺にいることはできないが、昨日四つの打ち合わせや会議を強引に同じ日にしてもらったおかげで、今日はオフ。

 朝から、礼状やメールの返信や手紙、原稿の校正、明日取りにいらっしゃるという私の拙い絵などを捗々(はかばか)しくやることができた。
 仕事が捗った一日である。
 それにしても、ぜんぜん休まぬ「サンデー毎日」である。
 ズーッとボーッとしていられる「ボーズ」になれるのはいつの日か……。わははは。
 坊さんというのが「仕事」でもなく況んや「商売」でもなく、「生き方」だと自覚しているから仕方がない。「生き方は今日休みます」というわけにはにはいかないからだ。
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お見事でございました。

 第15回 密蔵院 浪曲の会

 出雲の夫婦雛 あづま りえ
 関の弥太っぺ 春日井あかり
 萩の餅    三門 柳
 めぐりくる春 東家三楽
 曲師 渡辺京子/佐藤喜美江

 まるで3幕2時間の芝居を観ているような感じがする、30分の浪曲4本!

 50名の参加者を得て、司会進行も楽しませていただきました。私が進行すると、三楽師匠が陰でマイクでフォロー。師匠には失礼ですが、なかなかいいコンビだなあと思います。

 江戸川区の広報の取材も入ってくださって、嬉しいことです。嬉しついでに取材に来てくださった秋元さんが撮ってくれた写真も勝手にトリミングして使わせていただきます。

 次回は8月18日(月)です。お誘い合わせの上おこしくださいませ。
 合掌&┏〇"┓ 芳彦
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パブリック-アドレス システム

Public-Address System。これを略してPA(パではありません。ピーエーです)。

 明日の浪曲には浪曲師用、三味線用、司会用のマイク3本。触れ太鼓用i-pod。
 そして拍子木が必需品。
 その準備完了です。

 あづまりえ、春日井あかり、三門柳、東家三楽の4人の浪曲師が!三筋の糸にのせて……、語る、唸る、啖呵を切る! 

『そうか、人情ってぇものはこういうものなのだな』と再認識させられる「泣き」や「笑い」の話が豪華4本です。

 13時スタート。中入りをはさんで15時30分まで。
 生の浪花節を三味線にのせて……、
 たっっっっっっっっぷり、お楽しみいただきます。
 入場無料。お誘い合わせの上、ご来寺ください。┏〇"┓。 
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Micky Code(ミッキーコード)

 写真の如くであります。ミッキーコード。ぎゃははは。
 意図して作ったものではありません。
 23日(付き)の浪曲の会場準備をしていて、ふっと下を見たら……、あははは。
 「よっ!こんなトコにも出てくるのけぇ?」とニコッとした。

 久しぶりに、コードを固く絞った雑巾で拭いてから、巻き取ってやろうと思う。そうすると、ホコリで巻き取りにくかったコードがスルスルと入っていきます。

 ミッキーも次回の偶然を、掃除機の中で楽しみに待つことでしょう。

 では本日16時、東洋大学白山キャンパス井上了円記念ホール、「聲明公演」(入場無料 定員700名)でお会いできる方は、お会いいたしましょうぞ。私はご詠歌を唱えます。
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「行って来てくれないか?」

 外国人がなかなか使えない日本語として
「郵便局へ行ってきてくれないか」がある。「行く」のか「来る」のか。「くれない」という否定なのか「か」という疑問なのか……
 こんな言葉、文法的にいくら考えたって多分出て来ないだろうと思う。

 ところがこの「行って来る」というのが「如来」の意味だという。
 「真如(悟りの世界)」から来る=如来
 「真如へ去る」=如去(にょこ)
 もともとのサンスクリット語では「たたーぎゃたー」なのだが、どうもこの言葉が曖昧らしいのだ。「たたー+ぎゃたー」だと如来。「たた+あーぎゃたー」ごと如去という反対の意味になるらしい。

 悟りの世界に去りっぱなしではなく、そこからやってくるのが「たたーぎゃたー」なのだそうだ。ウルトラマンみたいだ。そう言えばウルトラマンは仏さまの顔がモデルというのは有名な話である。

 極楽の阿弥陀さまも極楽にいるだけでなくこの世にもやってくる(「環相(げんそう)と言います)。

 お盆もあの世へ「去った」先祖が、帰って「来る」のだな。

 やはり心も身体もどこかへ行きっぱなしではなく、現実のいう真実に帰ってこないと、問題は解決しないのだ。ぐははは。

 ちなみに冒頭の言葉は「郵便局へ行って(用事をすませて、それから戻って)来て(ほしいのですが、もしして)くれない(のなら仕方がないのですが、やっていただけますでしょう)か?」ということを言いたいのだそうだ。
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