--ということで、昨日の続きです。
弘法大師が、師僧の恵果(けいか)和尚の死を受けて、その碑文を担当することになって、綴った格調高銘文。
石に掘られた、一種の弔辞でありましょう。
そんでは・・・
生也無辺:生(しょう)は無辺なれば
行願莫極:行願(ぎょうがん)、極(きわまり)なし
〔生きているものは限りがないから、その生きているものを救おうとする願いや行いにも果てというものはない〕
麗天臨水:天につき、水に臨(のぞ)み
分影万億:影を分かつこと万億
〔太陽や月は天にあって、その光は海、山、湖、水たまり、あるいは人の涙の中にもその光を届け、そしてまた姿を映す〕
爰有挺生:ここに挺(てい)あり、※挺は「抜きんでた」という意
人形仏識:人形にして仏識あり
〔ここに、ぬきんでた人物がいる。人の形をしているが仏の智恵を持っている〕
毗尼密蔵:毗尼(びに)と密蔵と、※毗尼は「仏教の戒律」の意。
呑并余力:呑幷(どんへい)にして余力あり
〔律蔵と密教の教えとをあわせ呑んでいても、まだ余力がある〕
いっぺんに紹介すると、読み取れないと思うので、今日はここまで。残りは明日のお楽しみでございます。
○○と××を合わせ呑んで、さらに余力がある--いい表現ですね。
(芳彦は)坊主と旦那と父親を合わせ呑んで、余力がある--ぐはは。そんなふうに言われてみたいものです。
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中国へ密教を学びに行った若き日の弘法大師、空海。
遣唐使船で中国へ行った時も、嵐にあって漂着した港で、現地の役人と押し問答していた時に、空海が筆を取って「私たちは怪しいものではありません。そもそも・・・」と格調高い漢文の手紙を書いたとたん、「こんな文章を書ける人は中国にもそういるものではない。だとすれば、この者たちの素性は確かだ」と上陸を許可された---それくらい文章は上手く、漢文の素養は群を抜いていたと言われます。
そして、中国で、念願かなって、密教の諸流をあまねく受けていた恵果(けいか)和尚に出会うことができます(このあたりは司馬遼太郎著「空海の風景」でお読みください)。
しかし、その和尚が、空海に密教のすべてを授けると、安心したかのように亡くなってしまいます。
何千人もいる弟子の中で、銘文を書くことになったのは日本から来た空海でした。
生(しょう)は無辺なれば、行願(ぎょうがん)極(きわ)まりなし・・・
[生きているものは限りがないから、その生きとし生けるものを救おうとする願いも実践も果てはない]
--こんな書き出しで始まる銘文。
次回より、もうちょっとだけ詳しくご紹介申し上げます。
思い出がたくさんある、尊敬する人が亡くなった時に送る、単なる美辞麗句ではなく、人情が籠もった、それでいて品格がある文の、ある意味でお手本であります。
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過日いただいたコメントの中での素晴らしい「弔辞」の話。
それがずっと気になっています。
弘法大師は、中国で教えを受けた恵果和尚が亡くなった時、何千人もの弟子を代表して、碑文を書いた筈だったな、と思い、バタバタしている合間を見て、本棚の中から資料を探しております。
頑張って探し出して、明日のブログでご紹介したいと思います。
亡き人の生命(いのち)を何倍にも広げる言葉と文章。
思い返せば、父と大恩人の村上正行さんへの感謝の言葉は自分なりにそれぞれ本にした。大勢の方に読んでもらったから、それはそれで、私流の、一種の弔辞だったのかもしれない。
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「病(やまい)は気からって言うけどな、気は病からってこともあるんだぞ」と、父が晩年言っていた。
なるほどと思って以来、軽はずみに「病は気からって言うじゃないですか」と励ますようなことは言わなくなった。
昨日フラリとお寺の前を通られて、掲示板の
「希望はすこぶる嘘つきだが、少なくとも人生の終わりまで楽しい小道を歩かせてくれる ロシュコフ」という言葉の「希望」について、たまたま境内にいた家内に尋ねた人がいた。
家内には対応しきれない問題を抱えている方らしく、その後私が対応をした。
医者ではないから、迂闊な判断はできないが、お話を聞きながら「自意識過剰」という言葉と「被害妄想」という言葉が脳裏をのぎった。
それでも、普通の人には見えないものも、聞こえないことも、ご本人には、現実である。
解説の糸口をさぐってみて、とりあえず、本堂でお線香一本燃え尽きるまで座っていてもらった。
そして、その後にお話を伺って、今私にできることは、御祓いをすることくらいだと思った。
帰りに、21日間の簡易施餓鬼をやるようにお勧めした。施餓鬼は自分以外のモノたちへのもてなしの行でもある。膨らみ続ける自意識が、それでいくらか膨張をストップしてくれればいいと思う。
--ということで、今日の「やまいはきから」というタイトルをひらがなにしたのには理由がある。
さっき、私の後ろでパソコンを操作していた次男が
「小さい頃は、病は木からって思っていたんだ」と言った。
充分あり得る話だ。「き」を「気」と類推できるようになるのは中学生くらいになってからだろう--そう思っていたら、続けてこんなことをボソッと言った。
「でもさ、山芋は木にならないよね、地面の中だもん」と言った。
愉快な展開である。わははは。
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そう、天然サウナだと思えばいいのだ、と車を降りて思った。。。
「檀家さん、20人くらいなんですけど」という住職の言葉に
「それはそれで、一対一みたいな時間になっておもしろいから、つとめてみましょう」と深呼吸して、本堂へ入った。
法話然としていない法話の時間。何か飛び出すのか、私にもわからない。
ふだんの私の思っていること、体験していることを、その場でどんな仏教の話につなげていくのかのライブ感覚・・・。
緊張しつつも、充実した時間だった。
帰りにお寺の奥さんが「お施餓鬼の法話は、毎回違った話をなさるんですか」と聞いてくれた。
「その場、その日、自分が何を感じているか、それを自分でも楽しみながら話すんですよ」
「よくそんなたくさん、話の引き出しがありますね」
「一日生きていれば、何か感じることがあるものです。それをブログなり、本という形にしてまとめる作業をしていると、自然に引き出しが増えるものですよ」--ほんとうにそうだろうかと、自分でも半信半疑で答えた。ぎゃははは。
でも、そうとでも考えないと、智恵の量が増えていくことに説明がつかない。
今日より明日、今月より来月、今年より来年・・・知識や技術でなく、楽しく、楽に生きる智恵の量を、増やしていきたいと思う。
ちなみに今日の写真は、木魚ではなく、より高度に進化し「木の龍」となった、木魚たちである(真ん中のものだけが魚の形をしています)。
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夏の時期、坊さんは、襦袢と白衣を一回着ると、ビショビショになる。
生地は薄くても、合わせの有るぶん、でかいから、洗濯は迂闊にできない。からまるだけでなく、絡まって縫い目がほどけてちぎれるからだ。
だから、洗濯カゴにそのまま、丸めて入れると、家内が怒る。
「せめてネットに入れてから、カゴの中に入れてちょうだいよ」と。
結婚して26年目の夏の今年、初めてそう言われた。つまり今まで、家内がネットに入れて洗濯していたのだ。ぐははは。知らなかった。そうならば、そうしてくれともっと早く言えばいいのに、である。ぎゃはは。
だから、さっき帰ってきて、汗で重くなった襦袢と白衣をネットに入れてからカゴに入れた。
痛みやすいものはネットに入れて洗濯しないと、エライことになる----今日の法話についても同様なことが言えるのだなと、帰りの車の中で気がついた。
聞いてくださる方の心がいたみそうならば、ネットに入れるように、柔らかい話で、核心をつつまないといけないのだ。それが、今日もできなかった。
柔らかい心の話の例え話として
「御布施にしても、”とられた”としか思わないか、”差し上げた”と思えるかで、心の幅が違ってきます」と言ってしまったのだ。
聞いていた方の中には、「坊主がお金を話」をすることに、抵抗がある方がいる筈である。
柔らかい心の例えとして、「お布施」をお持ち出すのは、襦袢と白衣をネットに入れないで洗濯するようなものだと、思った。
いつになったら、そんな例え話さえ思いつかない綺麗な心になれるのだろうと思う。
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記念硬貨に実在の人物がデザインされるのは初めてなのだそうです。
県別記念硬貨の坂本龍馬。
私は、昨日、法事の檀家さんに「住職、取り替えた?まだなら、ちょうどあと一枚手元にあるから、あげるわよ」といただくまで、発行されたのも知りませんでした。
なんでも、農協にお煎餅を買いに行ったら、職員の人に「Mさん、もう取り替えましたか」と言われて、10枚ほど取り替えたそうだ。
有ること難い、ありがかい、不思議な話である。
お煎餅を買いにJAへ行ったら、500円記念硬貨に両替することになって、翌日、住職にくれるというのだ。
ということで、昨日は法事のあとご詠歌の特訓。
帰りにお渡ししようとICレコーダーに録音したご詠歌を、どのうように、普通に聞けるCDにするのか困った。
幸いに、三日前から写真家の平井慶祐が、24日からのカンボジアスタディツアーの引率のために密蔵院で日程調整のため、滞在しているので、
「おーい、ケースケ。ちょっとやってくれない?」と言ったら、
「はい、喜んで」と、ものの3分でやってくれた。
横で、操作を見ていたが、あれを私がやったら、たぶん、三日かかるだろうと思う。
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住職室の温度計は、正午現在、34.6度である。
こんなに暑くて、夜、聲明ライブにお客さんがくるのだろうか・・・と思う。しかし、継続こそ力なりであるから、MさんとIさんにご足労いただいて、三人で唱えさせていただきます。
暑さ対策で、住職室の換気扇をまわし、さらに扇風機も回している。
ところが、この扇風機がクセモノなのだ。
カバーのフックが壊れてしまったので、カバーがついていない。むき出しの羽が高速回転している。
そばを通る時には、注意しないといけない。触れると、けっこう痛いのだ。がははは。
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千葉県の佐倉へお話に行ってきました。
終わってみたら汗だくでしたが、話の最中は暑さなど感じている暇はありませんでした。
裏に里山があるお寺。蝉がたくさん鳴いていました。
密蔵院の回りではまだ、ほとんど鳴いていません。
佐倉のご住職たちの推論では「猫が多いからだろう」「カラスが多いからじゃないのか」--など。
猫やカラスに自然淘汰されて数が減少するような蝉たちではないような気がしますが、ひょっとするとひょっとするのかもしれません。
7年間、土の中で、「その時」を待っていた蝉たち。
今年卵として生を受ける蝉たちは、これから7年の時をへて、「その時」に立派な羽を生やす。さて、今年から7年間、土の中で過ごす蝉と競争して、7年後、私も心に立派な羽を生やすことができるだろうか。
ちょっとそんなことを、意識している、梅雨あけの東京の坊主です。
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江戸川の堤防のそばを車で通ったら、小さな家庭菜園のような場所に、異様な物体があった。
新種の案山子であろうと推察もうしあげるが、
昼間だったから、笑って通りすぎたが、
夜ヘッドライトに照らすだされたら、
多分事故を起こす人がいるのではないかと思う。
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