『悟浄出世』-坐法(ざぼう)先生の巻-

 悟浄が来て坐法先生、四日目に目を開けた。
「先生、早速ぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。一体『我』とはなんでございましょうか?」
 悟浄は何やらわからぬ叫び声と共に、いきなり棒でぶたれます。そして先生はものうげに言います。
「長く食を得ぬときに空腹を覚えるのがお前じゃ。冬になって寒さを感ずるものがお前じゃ」
 そういったかと思うとまた寝てしまった。それから50日、悟浄は待ち続けます。
 次に坐法先生がが目を開くと、前に座っている悟浄を見て
「まだいたのか?」
悟浄は謹んで50日待った旨を答えた。
「50日?」と先生は、夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。やがて思い唇が開かれた。  

「時の長さを量る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿(たいちん)の寿も、朝菌(ちょうきん)の夭(よう)も長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置(しかけ)じゃわい」(※朝菌:朝開いて夕方にかれてしまうキノコ。はかないもののたとえとして使う。名取注)

 そう言い終わると、先生はまた眼を閉じた。50日後でなければ、それが再び開かれることがないであろう事を知っていた悟浄は、眠れる先生に向かって恭々(うやうや)しく頭を下げてから、立ち去った。

「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ」と、流紗河の最も繁華な四つ辻に立って、一人の若者が叫んでいた。
―――悟浄はこの若者の言葉に、何を聞くのか……、それは次回でご紹介。善き日曜日をお送りください。
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