懺悔文超訳(その14)--有象無象と有相無相

若作善根住有相――もし善根(ぜんごん)をなせば有相(うそう)に住(じゅう)し、
超訳:仮に、いいことをすると、それを得意がり、人に言いふらし、

環成輪廻生死因――かえって輪廻生死の因となる。
超訳:その結果、人が「へぇ、いいことしたんだ。でもしたいからしたんでショとか、だから何?」などと言われると、ガッチリ凹んだりして、再び迷いの再生という渦の中で翻弄されてしまう。

※「有相」は「相が有る」ですから、目に見える世界、形になって現れる世界ということです。
 どんなことでも、物事をやって行くときはまず「形・型」から。これが「有相」です。
 
 坊主になるにはまず剃髪する。人と会ったら、まず挨拶をする、これも有相。
 上記の懺悔文では「善の功徳の根っこになるようないいことをすると、有相という領域に留まって、それで自己満足しているではないか」と猛省しています。「坊主なら、そんな所に留まっていないで、その先を目指せ」ということです。
 
 その先にあるのが「有相」の反対語の「無相」という領域。
 「相が無い」は形になって現れない、心の領域ということ。

 お坊さんが、衣を着て、お経を唱えているのは「有相」での修行です。でも、お坊さんはいつだって行住坐臥、心はお坊さんであるはずではないかと興教大師は言っています。
 
 掃除をしている時だって、ご飯を食べている時だって、ジーパンにTシャツの時だって、お坊さんのはずではないか、と言うのです。いつでも「私は私」、どこでも「私は私」の境地であります。

「有相」から道に入った人が、「無相」へ行き着くことの素晴らしさを説いています。
 時々、若い人が、「要は心の問題なんだから、形なかどうだっていいじゃないですか」と言います。いきなり(ある意味で)悟った人たちと同じ境地になろうとするには、ぐははは、無理がありますわい。それが若さでもあるんですけどね。

ちなみに、とるに足りない人々という意味の「有象無象(うぞうむぞう)」も元は仏教語で「有相無相」と同じ意味です。元々の意味が転じて、マイナスイメージの言葉になってしまいました。

 さて、今日は28日。二月最後の日で、明日から3月。得した気分になるか、損した気分になるか、なんとも思わないか、面白いなと楽しむか。それはあなたの心次第。より良い人生のために、自分の心に良い思考選択をしたいモンです。
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懺悔文超訳(その13)--坊さんもそんなことがあるのだな

さて、今日の語句は、私が若い時に「へぇ、いつの時代も、私と同じような坊さんがいるのだな」と安心(?)した、駄目な具体例。

縦横無尽に絡まった言葉や心に関する七つの勘違いを繰り返しているから、
〔口四意三互相続――口四(くし)意三(いさん)互いに相続し〕
※口四:言葉でついやってしまう四つのこと。嘘、きれいごと、無礼な言葉使い、悪口の四つ。※意三:心が行こなってしまう悪い三つの行為。物惜しみ、怒り、よこしまな考えの三つ。

仏さまを念じなければならない時に、別なことを考え、
〔観念仏時発攀縁――仏を観念する時は攀縁(へんねん)を発(お)こし、〕

お経も、文句を間違って唱えてしまうのだ。
〔読誦経時錯文句――経を読誦する時は文句を錯(あやま)る〕


☆ ☆ ☆ ☆
 この次に「もし善根(ぜんごん)をなせば、有相に住(じゅう)し」という言葉が出てきます。この「有相」という言葉は、私たちに多くのことを教えてくれているので、それは次回にしようと、今回は「お経だって間違えるじゃんか!」で終えておきました。

 今日は午後からカルチャーセンターの講座。これが午後1時から2時30分です。フィギャースケート、フリーの一番いい時間! 参加者6名の出席率は如何に?うはははは。

 夜は22年間、月に二回うかがっていたお寺のご詠歌の打ち上げ宴会。22年でようやく待望の次期先生が副住職に決定。私も安心して身を引くことができます。

 当初は「ご詠歌、夜の部終了の会」のはずでしたが、いつの間にか私の送別会になりました。22年の間に一緒にご詠歌をやった方々のうち20人の方々が参加してくださるとのこと。ここ2年くらいは5人くらいでやっていた会でしたから、懐かしい顔が見られるでしょう。
 
 人生で初めての私の「送別会」です。
 これからそういうのがどんどん増えるでしょう。
 そして最後の送別会が私のお通夜とお葬式になるでしょう。
 わはははは。

 「後から来る者のかめに、泉を清く保て」とはジンギスカンの言葉--最近のお気に入りです。
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懺悔文(さんげもん)超訳(その12)--どっちにしろ・・・

今日は原文とカキクダシからスタートです。

〔故殺誤殺有情命――ことさらに殺し、誤って殺す有情(うじょう)の命〕
大いばりで、ハエやゴキブリや蚊を殺し、あるいは知らず知らずのうちに虫を踏み殺していることだってある。※有情--命あるもの。生物。

〔顕取密取他人財――あらわに取り、ひそかに取る他人の財〕
万引きや賽銭泥棒は言うに及ばず、人の文章の接続詞と語尾だけ代えて自分の文章だと公にしたり、待ち合わせの時間に遅れて人の時間も盗んでいたりするものだ。

〔触不触犯非梵行――触れても、触れずしても、非梵行(ひぼんぎょう)を犯す〕
手相に見てやると女性の手に触るだけではない。レンタルビデオのアダルトコーナーに後ろ髪引かれるように、レンタルビデオ店の中を行きつ、戻りつして、挙動不審な客になる。
※非梵行--本来は仏教徒としてやってはいけないことの総称だが、ここではイヤラシイこと。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

昨日NHKラジオの午前中の番組「ラジオビタミン」の「宇宙に夢中」のコーナーで面白いことを、国立天文台の渡辺さんが面白いことを言っていた。

夜空に輝く星は光の点なのだが、その色を見るには、わざと焦点をぼかして、光を拡散して見るのがいいそうだ。 だから、視力が良くない人の方が、星の色はよく見えるというのだ。星の写真でも色をだしたい時にはわざとピントをぼかすそうだ。

この放送は車の中で聞いたのだが、やたらに私の琴線に触れた。きっと、何か普遍的な内容を含んでいるはずだ。今までの経験からそれがわかる。

「ピントを合わせると、形は鮮明になる。ピントをぼかした方が、色が鮮明になる」---専門分野に絞り込むと形は把握できるが、ナニモノかの特色を探したければ精密でないほうがいいということか・・・。
 しばらく熟成させてみようと思う。
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懺悔文超訳(その11)--哀れなるかな・・・

今回の写真は、奈良、桜井にある長谷寺の朝の勤行の模様。堂内でお経を終えたお坊さんたちは、外の舞台に出て、「懺悔文」を書かれた興教大師(カクバン上人)の尊像をお祀りしてあるお堂に向って、大きな声で「懺悔文」を毎朝お唱えしています。

 では、続き・・・

自分を叱ってくれたり注意してくれる本当の友人の意見には従わず、一緒ににいるとこちらの心も腐ってくるような輩と仲良くしている。
〔不随善友親痴人――善友(ぜんにゅう)に従わずして、痴人に親しみ、〕

良いことをしないで、悪いことして黒い固まりのようなものを心の中にため込む。
〔不勤善根営悪行――善根(ぜんごん)を勤めずして悪行を営む。〕

自分が得するコトばかり考えて、自慢話をし
〔欲得利養賛自徳――利養(りよう)を得んと欲しては自徳を賛じ、〕

素晴らしい人がいると嫉妬し、
〔見勝徳者懐嫉妬――勝徳(しょうどく)の者を見ては嫉妬を懐き、〕

お金持ちに会うと自分も金儲けがしたいという想いがフツフツと沸いてくる。
〔聞富饒所起希望――富饒(ぶにょう)のところを聞いては希望(けもう)を起こし、〕

貧乏な人を見ると、貧乏神に出合ったようにさっさと離れていく。
〔聞貧乏類恒厭離――貧乏の類(るい)を聞いては常に厭離す。〕

 ☆    ☆     ☆     ☆

 今日は朝から茨城の古賀でご詠歌。五時間の講習、久しぶりによく声を出した。新しい曲をお伝えするのは、皆さんが覚える過程を目の当たりにできて、実に楽しいものです。

 さて、明日は「声明ライブ」の日。神奈川から「まつる」の二人がきてくれて、声明と交互の出演。合計4ステージの春の宵であります。20時スタート。
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懺悔文超訳(その10) --いたずらに年を送り、虚しく日を過ごす

 寄ると触ると「ねぇ何か面白い話、ない?」と、ヘラヘラ、ケラケラの薄っぺらな笑いの渦に身を沈めて年を送り、
 偉い人に出合うと「先生はさすがですね」と媚びへつらい尻尾を振り、その人と別れると別の人間に「先生と呼ばれるほどのバカはねぇよ」などと、誠実さのカケラもなく、虚しく日を過ごしていくのだ。

 原文に戻ると・・・

 遊戯笑語徒送年――遊戯(ゆけ)笑語(しょうご)して、いたずらに年を送り、
 諂誑詐偽空過日――諂誑(てんのう)、詐偽(さぎ)して空(むな)しく日を過ぐ。
 ※諂(へつら)う/誑(たぶら)かす

 「遊ぶカネが欲しかった」という理由で犯罪を犯す輩(ヤカラ)には、毎日読んでもらいたい一節であります。

 ☆     ☆     ☆     ☆

 オリンピックの中継を見ながらできることは、そう多くない。
 いわんや、住職室にはテレビはないから(あえて置いてない)、家族が集まっているエリアでしか見られない。
 そんなわけで、何にどう使うかわからないけど、「言いたい放題地蔵」色紙版を描いている。
 これより、お寺さんと総代さんかたちの、新年会である。長男も副住職になって初めての会、二人で参加も悪くない。今日の会が「いたずらに年を送り、虚しく日を過ぐ」ことに、するか否かは私の過ごし方次第だと、心得て出かけようと思う。

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懺悔文超訳(その9)--恥じず、畏れず

不慚諸仏所厭悪――諸仏の厭悪(えんの)したもう所を慚(はじ)ず、
不畏菩薩所苦悩――菩薩の苦悩するところを畏れず。

仏さまたちが思わず嫌な顔をするであろうことなどもお構いなしに、恥も外聞もなくイケシャーシャーとやってのけ、
菩薩さまたちが苦悩されることをも、平気の平太でやってしまうような愚かさではないか。

 ここまでが「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」の前半部部。

 次回からはちょっとスピードアップしてご紹介します。

    ☆    ☆    ☆    ☆
 もう何年続いているのだろう。高校時代の男仲間10人が、お店での忘年会に続いて、我が家で行われる新年会。 それが昨日だった。

 50歳を過ぎても、まあ衰えることを知らぬ酒量である。家族総出で準備やら片づけやら、そして一緒にすわって、酔っぱらいどうしの大笑いの6時間。

 現在の社会的立場などお構い無しの名前の呼び捨て、くわえて、近況報告などなど、まぁよくぞこれだけ他の人間に興味があるものだと思うほどの会話量(とりあえず話はふるけど、結局だれも覚えていないというのは酔っぱらいの、愉快なサガである)。あははは。

 酒を飲みすぎると記憶がなくなるという友人に、「お前、そろそろウコンの錠剤飲んだほうがいいぞ」と小皿にいれて差し出すと、
「こんなモンはツマミにもらなねぇ」と、器用にお箸でつまんでは、アチコチへ捨てる。
勿体ないから私が全部食べたので、私の二日酔いはそれほどでもなかった。感謝である。 
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懺悔文超訳(その8)--ヨッ!!名文句。


 今回のクダリには、私大好きな名調子があります。
 本当はやらねばならないことがあるのに、「そんなのはいいよ」と鼻ッから諦めて、易きに走る・・・
 そんな時、私たち真言宗のお坊さんはこんな言い方をします。
「学(がく)すべき物は、廃(排)して、好むこと無しってか?」

 ということで、まずは超訳から。

 お師匠さまから「こうしなさいね」と諭された戒律などはとっくに忘れてしまって保とうともせず、
 学ぶべき仏の教えは、「そんなの、勉強しなくていいよ」と廃し、好むことがないのだ。

 続いて、原文と、カキクダシ。

 所受戒品忘不持――受くるところの戒品(かいほん)は忘れて持(じ)せず、
 可学律儀廃無好――学(がく)すべぎ律儀(りちぎ)は、廃して好むこと無し。

 ☆     ☆     ☆     ☆ 

 今日はカソリック教徒の叔父のお葬式が、上野のカトリックの教会で行われて参列してきました。

 いやぁ良かった。厳粛ななかにも、まるでミュージカル仕立ての、上等なお芝居のようでした。
 考えてみれば、ギリシャの劇以来、芝居は、宗教的要素が土台になっていますから、カソリックのミサと芝居が似ているのは当然なんですが、東洋のそれとは異なる構成に、お葬式なのに「おじさん、良かったねぇ」と心のなかでつぶやきました。
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懺悔文超訳(その7)--呼び名と姿ばかりの坊主

ぐははは。こういう続き物は結構読者からは敬遠されるという話を、編集者から聞いたことがあります。
今読んでいることは、何かの続きならば、最初から読まなければわからないのか・・・と思われてしまうからなのだそうです。
昨年10月に出した「実践版 般若心経 こだわらない生き方」(三笠書房)も、「実践版」とカンムリをつけたために、「それでは、基礎版が以前に出ておるのだな。それを読まないとこの本はわからないのだな・・・」と、書店で手にとる人が少なくなるというのです。ぐははは。そんなことはないように書いているんですけどね。

でも、ブログの懺悔文超訳は、毎回二句のご紹介ですから、ちょっとクリックすれば、すぐにスタートから読めます。

ということで、鎌倉時代の真言宗のお坊さんカクバンさんが、当時の自分と周囲のお坊さんを代表して、書いた懺悔(さんげ)の文。

いよいよ、お坊さんにゃ、こうやつはおらんか!と怒っていく部分です。

ご紹介する私も、身の縮む思いですが、思い切ってまいります。

☆ ☆ ☆ ☆

「僧侶」という呼び名に、傲慢になって神聖な伽藍を俗物化しおって、
姿ばかりが僧侶の格好をしているというだけで、本来はお布施をいただくような精神も持ち合わせていないのに、しっかりお布施だけはいただいておる。いったいどうなっておるのじゃ……。
假名比丘穢伽藍――名を比丘假(かっ)て、伽藍を穢(けが)し、
比形沙門受信施――形を沙門に比して信施を受(う)く。
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懺悔文超訳(その6)--ありゃりゃ、逆戻り。

 (その3からその5で言ってきたように)以上のように、無条件で施しをする布施の行も積まず、戒律を保とうともせずに勝手気ままに過ごし、耐えることもせず、頑張ることもせず、心静かにしていることもなく、智恵を磨こうともしないで、
 挙げ句の果ては、再び、どうにもならない苦しみが多い心の世界を堂々巡りの、逆戻りの大馬鹿者だ。

 原文では、
 恒退如是六度行――恒(つね)に、かくのごとくの六度の行を退して、
 環作流転三途業――かえって、流転三途の業(ごう)を作る。

※六度――悟りに到るための六波羅蜜のこと。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵。
 三途――「三途」の川でおなじみの言葉。「迷いの世界の総称」と考えていただければいいでしょう。

 さて、今日は午前中は塔婆書きで過ごし、午後イチの実家のご詠歌を終えて、これより夜の街へと繰り出して、宗派で出した「日めくり」の制作担当者のご慰労兼打ち上げ。

 参加者は5人だから、きっと話に花が咲くことでしょう(ヘミングウェイは、食事の席で同じ話で盛り上がれるのは8人が上限と言っています。経験上本当だと思いますから。ぐははは)。
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懺悔文--言いたい放題超訳(その5)

 たまには、原文からご紹介してみましょう。


心意散乱不坐禅――心意(しんに)、散乱(さんらん)して、座禅(ざぜん)せず、
違背実相不修慧――実相(じっそう)に違背(いはい)して、慧(え)を修(しゅ)せず。


 心がコロコロと揺れ動き、一つのことに集中できず、まったく落ち着きとがないことこの上もなく、心静かに座ることもない。
 おまけに、現実に背ばかりをむけてばかりだ。本当なら、直面していることをまず、受け入れて、それに対応し、乗り越えていく智恵を身につけるべきなのに。嗚呼……。

 物が散乱するとは言いますが、少なくとも鎌倉時代には「心」も「散乱する」--つまり「散り乱れる」と言っていたんですね。 

 いまならさしずめ「物じゃねぇが、心も気持ちもあちこちへ散乱しちまって、どうにもしようがねぇんだ」という言い回しになるからしん。ぐはははは。


 でも、今日は「写仏の庭」。仏さまのお姿をトレースしている時間は、散乱しないで没頭するいい時間でございます。
 昼の部に続いて、現在夜の部が行われている真っ最中。昼の部で没頭した分、夜の部は心意散乱している私です。わははは。
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