I'm on your side.

千葉のご詠歌大会を見学して、日頃の練習の姿がありありとわかる奉詠にジーンと感激。続く福島伊達市の石井僧正の、被災地ならではの、ありがたい法話に感動した。会場を後にして、デパートの画廊で行われている女流作家さんの絵を堪能。帰宅して、犬の散歩をしながら、ふと口に出たのが"I'm on your side"だった。ご存じサイモンとガーファンクルの名曲「明日にかける橋」の一節だ。「君の見方だよ」という意味。ともすれば"I'm on my side"になってしまっている自分に気づいて、そのまま口にして歌ってみた。「やはり、"I'm on my side"のほうが、しっくりする時が多いな」と苦笑いした。

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あったものがない

 とりあえず、全身全霊で書いた本一冊ぶんの原稿。われながら、よく書いた。よくがんばった。ここ二、三日は、自分の書いた文字を見たくないとて、今日は昨日BSで観たジェームズテイラーとキャロル・キングのCDを探しに秋葉原の石丸電気へ。ところが石丸電気がない。時代の流れである。 タワーレコードの洋楽の多さに度肝を抜かれつつ14枚のCDをゲットして帰宅。しばらくは、1970年代の音楽をBGMに、原稿の校正作業にいそしもうと思う。

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一言加えて、四無量心の慈

今日は「写仏の庭」。13時からの昼の部を前に、家内が作ってくれた昼食はラーメン。美味しくいただいて、写仏の冒頭で何をお話ししようかと住職へ戻ろうとしたが、今書いている原稿のことを思いだして、にわかに、自分が使った丼をさっと洗っって水切りかごへ。それを見て家内は「あら、珍しいじゃない」の一言。たしかに珍しいのだが、その言葉のあとに「偉いわね。助かったわ」と言ってくれれば、写仏の冒頭の話が、もっといい話になったのだがなあ・・・。わははは。贅沢な亭主であり、坊主である。ちなみに今日のお手本は、如来慈菩薩という仏さま。仏さまが持っている(つまりは私たちが理想とすべき)はかり知れないほど広い四つの心(四無量心:慈悲喜捨)のうちの「慈」を象徴する仏さまである。

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散る桜・・・

「散る桜   残る桜も  散る桜」の名句は誰の作だろう。 桜は咲いてから散るまでどのくらいの日数なのかくわしく知らないが、10日ほどだろうか。だとすれば、10日を区切りにする「旬」という言葉は、日本人らしく桜を手本にしているのかもしれない。

 

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おじさん、初めての結婚披露宴。

赤ちゃんの時から知っていて、年に何度も会う甥、姪が六人いる。昨日はその中で初めて、姪が結婚式をした。しょっちゅう会っている姪の婚礼がこんなに嬉しいものだとは思わなかった。何度も出ている結婚披露宴だけれど、出席した親戚のおじさん、おばさんたちは、このような嬉しさをしみじみと味わっておられるのだなと、思った。これからお呼ばれする披露宴では、親戚の方々のことに、もっと注意を向けようと思った。

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オガマセル

「住職さん、もう少し、オガマセますからね」と懇意にしている造園屋さんが言った。永代供養墓を造るのに、密蔵院のご詠歌の石碑を移動してもらった。仮置きしたところで、場所の確認をした。本堂前に正面を向いていた。腕を組んで、やや遠くから眺めていた時に、言われた言葉が冒頭の言葉だ。植木屋さんや造園屋さんの業界用語で「前傾させる」ことを「拝ませる」と言うのだそうだ。「拝まぬ坊主、拝み倒し、拝むか?、拝めば、拝め、拝もう」で、ま行五段活用動詞である。わはははは。、原稿はようやく20本目。2800字をあと10本だぁ。

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えーい、もうやめた

 会う人ごとに、原稿を書くのが、否、原稿の締め切りが迫っていて大変だと愚痴を言っている。私の周りにいる人は、みんなとてもいい人なので「大変ですね。がんばってください」と言ってくれる。その方々の優しい言葉を聞きながら、なぜこんな愚痴っぽい坊主にいわないのだろうと思う。「そんなに嫌なら、やめればいいじゃないか。断ればいいではないか」と。

 で、私は愚痴を言いたいだけ言ったのだろう。やっと気づいて自分に言った。「えーい、もうやめた。やめた。愚痴なぞを言うのは、もうやめた。この件に関して、愚痴を言うのはもう、やめた」 あはははは。きれいに愚痴を聞いてくださった方々、ありがとうございました。おかげで、ふっきれました。

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終わりが始まり

 朝、犬の散歩をしていたら、ちょうど近所の小学校の登校時間だった。しかし、なんだかいつもと様子が違って、子供たちのテンションが高い。きっと昨日で授業が終って、今日からは大掃除や卒業式の練習などが始まるのだろう。みんな、今の学年が終って新しい学年がスタートを切るので、ウキウキしているのかもしれないと思った。

 人の学校時代は、卒業イコール入学、もしくは卒業イコール入社だ。終わりは新たな旅だちだったのだ。いづれもいくばくかの不安はありながら、心はウキウキしていた。ところが大人になると、それがない。学生時代のような卒業がないのだ。必然的に新たなスタートもないから、ウキウキ感もない。 転職はその点で、学生時代に戻ったような気分になれるのだろう。

さてさて、人生を卒業するとき(この世とオサラバする時)、私はどれだけウキウキできるだろうと思った。あの世での新たなスタートである。もし、死んだら無になると思っている人だったら、人生の卒業式は過去をふり返るだけの、寂しいものになりはしないか・・・。今朝の子供たちを見て、そんなことを思った。

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たとえば裏切り

たとえば裏切り、たとえば優しさ、たとえば困惑、たとえば不安、たとえば安心、たとえば情熱--について発表をしてみろと言われたら、何を話すだろう。たとえばそれについて書けといわれたら何を書くだろう。たとえば、上記のうち三つを選んで話せ、書けと言われたらどう話し、どう書くだろう。たとえば、上記の要素をすべてを入れて物語を書けといわれたらどんな物語を作りあげるだろう。--きっと、小説はみんなそんなことを考えているのだろうと思う。素人にはとても無理だわさ。でも、今晩の「相棒」を観て、その脚本の見事さに、そう思った。録画していたのに、結局ライブで家内と観てしまった。おかげで、原稿半本分の時間がぶっ飛んだが、その分どこかで取り返すしかないだろう。どはははは。

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カラスと家内

 強風のため、カラスも思い通りに飛べないで苦労してる様子。風向きから言って、住職室はモロに風が入るこんでくることはないようなので、今日は三つの窓ぜんぶを網戸にして、原稿書きしながら、お彼岸の玄関番。花粉症でないのがありがたい。花粉症の家内は、網戸になっている住職室の扉を開けるやいなや、「うっぷ」と言って、再び扉を閉めた。わははは。なんでも、今日は顔までかゆいのだそうだ。カラスも家内もたんへんだと思う。

 さて、夜は密蔵院でご詠歌。終了後に、もう一本書けるかどうか・・・。

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