『悟浄出世』-滝のたとえの巻-

 悟浄は師の女禹(じょ・う)に言います。
「実は自分は長年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼におちいるばかりであることを感じてきたのですが、今の自分を突き破って、生まれ変わることができずに苦しんでいるのです」と。

 それを聞いて女兎は言います。少々長いですが、全文をご紹介します。

――渓流が流れてきて断崖の近くまで来ると、一度渦をまき、さて、それから瀑布(ばくふ)となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻きの一歩手前で、ためらっているのだな。一度渦に巻き込まれてしまえば、奈落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。

 臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちていく者どもを恐れと哀れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛び込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬと充分に承知しているくせに。渦巻きに巻き込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。

 それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い渦巻きの中で喘(あえ)いでいる連中が、案外、ハタで見るほど不幸でない。(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか―――

 師の教えのありがたさは骨髄に徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。

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 毎日のやるべきことに追われ喜怒哀楽で日々を過ごしている普通の人々、つまり私たち。
 女兎は、人生の意味も判らず喘いでいる(と悟浄が思っている)人をたちを渦巻きの中の人、そして、人生の意味や自分というものを考えようともしないあわれな(と悟浄が思っている)人を、滝壺に落下している者として、例えています。

 自分では何もしていないのに、人のやっていることを批判ばかりする……世の中では、悟浄よりもひどい、そんな人たちを時々見かけます。大勢の中で、一人でつまらなそうにしている人もその予備軍かもしれません。そういう人は『悟浄出世』読んだほうがいい。1時間かからずに読めますから。

 さて、女兎のもとを辞して一応の遍歴に終止符が打たれた感のある悟浄が、どう思ったか……、それはまた次回のお楽しみ。

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 去る水曜日に密蔵院で撮影が行なわれたドキュメンタリー映画のスタッフから連絡が。今日東京大学で行なわれるシンポジュームに来ませんか?とのこと。このシンポジュームも映画の一環ですが、ラリーとトレーシーのほかに、日本の高校生作家で自閉症のおなき君も出るとのこと。密蔵院での話をご両親にしたところ、その坊さんにあってみたいとおっしゃっていた由。そういうことなら是非もない。再来週の行事のための塔婆書き350本を返上して、家内と参上することに。
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