「おしくらまんじゅう的メカニズム」

 昨日抜歯したところを消毒にでかけた。
 ついでに、
「どうして、歯を抜いたのに、ぜんぜん痛くないのですか?」
と先生に聞いたら、すっごく面白い答えが返ってきた。
「抜いた歯は、もう根っこがグラグラで、体がこの歯はもう不要だから、外へ排出しようとしていたんですよ。体のほうが、いつ歯が抜けてもいいように準備していたんです。健康な歯を抜いたら、痛みは後まで残りますよ」
---ぎゃはははは。
 ある組織に、嫌な奴がいたとする。周囲は「辞めてくれればいいのに」と思っている。そのままの状態だと、組織内は嫌な雰囲気が充満する。
 で、どんな理由であろうと、問題の人間が辞めたとする。組織内は、のびのびと活動し始める。
 いい奴が辞めちゃうと、組織内は痛手をこうむることになる。
 そういうことだ。あはははは。
 自分の心の中に、悪しき心があったとする。そのおかげで精神的に休まることがない。心のうちでは「こんな悪い心を持っているようでは、マズイな」と思っているす。
 で、その心を「捨てる」ことに成功するとする。心はのびやかになる。
 いい心を無くしてしまうと、心はしばらくトゲトゲの状態になる。
 そういうことだ。うははははは。
 勝手に称して「おしくらまんじゅう的メカニズム」とすることにした。わははは。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )


「断袖(だんしゅう)」と「抜歯(ばっし)」

「袖を断つような情け」
愛する者同士が一緒に寝て、一方が起きる時、自分の着ている浴衣の袖が相手のからだの下にあるので、自分の着物の袖を切って、相手を起こさない気遣いをすること。
---とまあ、このくらいの説明でいいかと思う。

 中国語の「断袖(だんしゅう)の仲」と言えばゲイの仲という意味だが、男女の仲でも、親子の仲でも、こうした情はあるものだと思う。
 で、今日、歯をまた一本抜いた。だから、昨日の私と今日の私は違う。これを諸行無常という。「私は空である」と言うこともできる。
 抜いたとたんに痛みがなくなるのは、麻酔や痛み止めの薬のためばかりではない。歯を抜けば痛みがなくなるのだから、ありがたい。これも昨日の私と違う点である。ぐははは。
 それにしても、五十年近く、よく色々なものを噛んでくれたと思う。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


しっとり感に包まれて

曹洞宗のご詠歌講の「梅花講」の創立60周年大会(幕張メッセ)に、来賓として3人の仲間と共に参加させていただきました。

丁寧にプロデュースされた5時間で、精神的なしっとり感が、広いイベント会場に充満してました。

梅花講は、十七万五千人規模。私がやっている豊山流は五千人。(お寺の数は曹洞宗が一万五千に対して豊山派は三千)うははは。
 
 他流を合わせると、ご詠歌をやっている方は二十五万人以下でしょうが、まだまだけっこうな人数。
 もっとみなさんが聞く機会があってもいいはずですが、閉じられた空間でやっているから、仕方ないかもしれません。

 帰宅して、六月一日の施餓鬼の塔婆書き。今日までの申し込み分は終了!

 塔婆書きを終えて、新しいパソコンのi-pod用の設定も終えて、データを移しかえて、これで通常モードの生活ができるってとこ。
 明日は先週につづいて歯を抜くから、早く寝てみたいと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


「骨は拾ってやるから、心配すんな」

「骨は拾ってやるから、心配すんな」
そう思っておられたかどうかは、わからない。

ご兄弟の一人が生涯独身で通されて、なくなられた。
「アニキはうちの墓に入れてやります」と弟が言った。
昨日は、その方の三回忌。
しっかり者の弟がいてくれて、亡きお兄さんは「安心して向こうへ行ける」と思われたことだろう。
あっぱれだと思う。
私は、おかげさまで家族がいるが、たとえいなくても、
仏様が「大丈夫。あとは私が面倒みるから心配すんな」とおっしゃってくれているのがわかるので、いずれにしろ、後生はご安心である。
コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )


「雲上の祈り」

実家のお寺の大行事を明日に控えてのお手伝いと、前夜祭。
6月1日の密蔵員の大行事まで、気が抜けぬ日がつづく。
そんでもって、6月2日(土)は、15時30分、東洋大学、白山キャンパスの井上円了ホールで、奈良長谷寺の毎朝 おこなわれている朝勤行を再現するステージ。その名も--「雲上の祈り」--。
私は、お経ではなくご詠歌での出仕(しゅっし)。
お時間がある方は、どうぞ(無料)。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


はなしにならぬ

昨日、読経の庭のあとに、歯医者さんに行った。
グラグラの歯を一本抜くためである。
本を二冊書くと、歯が一本抜ける・・。そんなジンクスが生まれそうな頻度だ。ぎゃははは。
「歯無し」になるのも、近いかもしれぬ。
あと一本グラついているのがあるので、先生に「一緒に抜けませんか」と言ったら、
「一日に二本は抜かない方がいいですよ」とのこと。
なんだか、ワインみたいだ。あははは。

さて、今日のお世話になっているお寺の行事での法話、上手く喋れるだろうか。
(一本)歯無しになったからとて、話にならぬような時間にはしたくないものだ。
うはははは。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )


「哺乳類網翼手目」


哺乳類網翼手目の総称をコウモリと言うのだそうだ。
先程、夜の公園を散歩していたら、パサパサと飛んでいた。今年の初コウモリである。
一緒に歩いていた家内に「コウモリは、卵で生まれのか、そのままの姿で生まれるのか」聞いてみた。
家内はちょっと考えてから「そんなこと考えたことないけど、鳥デショ」と言った。あはははは。
都合のいい時に、鳥になったり、獣になったりする日和見主義のコウモリの昔話を覚えていないらしい。
帰宅して調べたら、「鳥のように自由に飛べる唯一の哺乳類」だと、なかなかかっこいい説明があった。
こうもりは、年に一度初夏に分娩するそうだ。だとすれば、今年出合うコウモリたちは、寒い冬を越したことになる。たいしたものだ。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


「一時、解散(かいさーん)!」。あははは。

やっと、筆者校正の最終版を終えた。あはははは。
うれしい!
机横の床の積まれていた数十冊の引用参考文献も、本棚に返って行った。かぐや姫みたいだ。わははは。

赤ペンも鉛筆も付箋も、メガネも電子辞書も、記者ハンドブックも「解散!」である。ぐはははは。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


A面、B面の浪曲

ご詠歌の講員さんが「浪曲のレコードをCDに出来ますか」と言って、20枚組のレコードをもって来てくれた。
ヨダレが出た。
何でも便利になった世の中だが、さすがにレコード録音はA面B面でひっくりかえさないといけない。
いろいろやりながら、せっせと貴重な音源をデジタル化した。
浪曲の音源は、その昔はみんなが唸ることが目的でもあったから、台本がしっかりついている。その表紙を飾るのが、美人画の巨匠、故志村立美さんの絵。これがじつにいい。

ここんとこしばらくの間は、私に出合う方々は、浪曲かぶれの口調におつきあいいただくことになることをお覚悟めされ。あはははは。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


「影を伴侶(とも)に暮らす」

「影を伴侶(とも)に暮らす」--今読んでいる中国の怪奇話の中に出てくる表現である。
連れ合いを亡くした人が、「今は影を伴侶に暮らしている」と出てくる。
影とは、自分の影のことである。つまり独り暮らしということだ。

なんともいえぬ寂しさが出ていて、いい表現だと思う。
昨日の「解語花(ものいう花)」もそうだが、こういう表現が一ページに一つ出ているような文章を、いつか書いてみたいと思う。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ