『悟浄出世』-小さな鋭く光った物を探す魔物の巻-

 女禹(じょ・う)のかつて知っていた別の妖精は、たいへんみすぼらしい魔物だったが、常に「自分はある小さな鋭く光ったもの探しに生まれてきたのだ」と言っていた。
 その光るものとはどんなものか、誰にもわからなかったが、とにかく、小妖精は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。
 そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われる、と女禹は語った。

 かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ最後に、師は次のようなことを言った。

――聖なる狂気を知るものは幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬものは禍(わざわ)いじゃ。彼はみずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に滅びるからじゃ。
 愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索の仕方であると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識したか?--

※     ※     ※
 悟浄はこの言葉を聞いて、自分の現在の悩みを女禹にぶつけます。そしてそれに対する師の答えは……。悟浄の悩みも、その返答も、次回へとお取り次ぎ申しあげます。┏〇”┓。

 今日は午前中に、読売文化センター京葉(船橋ララポート内)の課長さんが、私を面接しに来寺。『心の大そうじ』を読んでくれて、「お坊さんと遊んじゃおう・話しちゃおう」的な楽しい講座をやるに、私が適しているか、否かを判断するためである。実現すれば面白いと思う。
 夜は新宿歌舞伎町、ゲンさんの「かけこみ寺」をお借りして、寺ネットサンガの会の定例会。僧侶、葬儀社などへの不満、不信を解消するために、何ができるのか、考えてばかりいないで、やろうじゃないのという会である。私はその会の、一応世話人だが、世話人が何かをやるわけではない。世話人はそれぞれがすでに色々なことをやっている坊さんたち。さあ、思い熱き僧侶よ、集え、新宿歌舞伎町……。あははは。
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