くもひとつない

雲一つない青空の今朝の東京。今日は30代のお坊さんたちへの布教の授業。私が担当するのは「仏教語の伝え方」。坊主だから仏教語の意味はなんとなくわかっている。しかし、それらの言葉を自分で日常のレベルまで落としこまないと、分かりやすく伝えることはできない。たとえば、煩悩(ぼんのう)を欲望のことだと思っている人は少なくない。『大辞林』では「人間の身心の苦しみを生み出す精神の働き」と出てくる。これじゃ、よくわからないし、ちっとも心に響いてこない。だから私は、「煩悩は心を穏やかにさせない欲のこと。欲があっても心が穏やかならば煩悩じゃない」と説明している。誰かを愛して、心が穏やかならば煩悩ではない。しかし、自分は愛しているのに相手が愛してくれないとか、誰かに取られるのが心配だなど、心が穏やかにならないなら、それは煩悩だ。心おだやかな境地に憧れる人ならば、そんな煩悩は処理しないとマズイことになる--そんな話を3時間しようと思っている。ちなみに、この文章の冒頭「くもひとつない」を変換したら最初に出たのは「苦も一つない」だった。苦が一つもなければ、雲一つない青空のような心でいられるだろう。その意味で、かなり意味深な変換だとニヤついた。パソコンの回路の中に仏さまでも隠れているのかもしれないと思った。ぐへへ。

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最初に気づく感性

午前中に原稿を一本半書いて、午後は実家のご詠歌へ。練習する部屋に入ったとたん、目に入ったのは中庭のモミジの葉の緑と黄色と赤のコントラスト。「うわぁ、まるで京都のお寺の紅葉みたいですね」と言ったら、参加者が「あら、ほんとだわ」だって。あはは。私より10分以上前に部屋に入っていたはずなのに気づかなかったらしい。こうしたことは、誰よりも最初に気づく感性を持っていたいと思う。誰かに言われてから「へぇ、ほんとだ」と気づくようではダメなのだ。何かと気ぜわしい年の瀬だが、楽しく競争して、気づきの一番乗りを目指したいと思った(写真はイメージです)。

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来年の守り本尊?

一カ月ほど前に「来年はイノシシ年ですから、阿弥陀さまの年ですね」と言われて戸惑った。俗に干支の守り本尊と呼ばれるものは、守護霊的な、その人の守り本尊であって、その年の本尊ではないという思いが私にはあったからだ。しかし、そんな考え方もあるのかせれしれないと思って、今年最後の「写仏の庭」のお手本は、難波先生がかつて描いてくださった来年の守り本尊という説もある阿弥陀さまを三尊形式にした下絵にした。ぐはは。
ちなみに、生まれ年の守り本尊(調べてもどこにも根拠はないので、ロマンとして考えたほうがいいかもしれません)は以下である。
子(千手観音菩薩): 丑・寅(虚空像菩薩):卯(文殊菩薩):辰・巳(普賢菩薩):午(勢至菩薩):未・申(大日如来):酉(不動明王):戌・猪(阿弥陀如来)。

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段ボールは餌のようなものである

住職室で原稿を書いていると、部屋の外から家内が「はい、あなたの好きな段ボールよ」と、まるで犬に餌を与えるような言い方をしたので苦笑して廊下へ出た。見ると、つぶされていない箱がどっさり置かれていた。たしかに目下の所、私は段ボールは好きなので裁断まではした。しかし、いくら好きな餌でもこんなには食べられない、描いていられないと思った。一昨日に裁断した分を含めてゆうに200枚以上ある。今日は資源ゴミの日なので、膨大な量の段ボールの切れ端を箱に詰めて出した(その写真のほうがインパクトがあったと思うのですが、もう収集されてしまったので写真を撮れませんでした)。清掃局の人は「このゴミを出した人は段ボール用のシュレッダーを持っているのだろうか」と訝(いぶか)しがったに違いない。あはは。

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頬ずりの季節

全国公演をしている春夏秋冬。東京公演では冬が出番を忘れていて、西の空にオリオン座が登場するに及んで、ようやく自分の出番に気づいたらしい。朝や夕方に30分ほど外にいると頬ペタが冷たくなる。外から帰ってきて家の中にいる人に「ほら、こんなに冷たいんだよ」と頬ずりをして「やめてよ!」などとイチャイチャできる、いい季節になったと思う。ぐはは(写真はネット上から拝借しました)。

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ハンソク地蔵

『心がすっきり かるくなる 般若心経』を出してくれている永岡書店の編集者のKさんから「販促用のお地蔵さまのポップを書いて!」というお願いがあった。日本酒ソムリエでもあるKさんとは年に何度が美味しいお酒を一緒に飲んでいる仲だから「イヤだ」なんて言ったら、販促ではなく反則である。ぎゃはは。写真は、次の本の原稿が一本書けたので、とりあえず、お地蔵さまと書名を書いて乾かしている図である。あとは私の好きな言葉を添えようと思う。かの会社の営業の方が「カラーコピーでなく、本物だからいいのだ」と、こちらがゾクゾクするようなことを言ってくださったらしい。これらのお地蔵さまが、全国のどこの書店に巡錫(じゅんしゃく:錫杖を持って布教すること)されるか楽しみである。書店で見かけて「このポップ、欲しいんですけど」と店員さんに言うと、くれるかもしれません。あはは。

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飛び石

日曜日、火曜日、木曜日とつづいた飛び石忘年会は、今日が休肝日。そして、明日は中学の友人たちと忘年会(週4回)という具合。今日は、二日間のご詠歌の研修所の授業を終えて、来年1月と2月にあるご詠歌を専門にはやっていないお坊さん向けの講習会の三回の日程を決めて、事務所のそばのジョナサンで出版社と次の次の本の打ち合わせ。来年三月から四カ月かかって書く、来年三冊目に出版される予定の本である。飛び石を渡るがごとき生活は忘年会だけではなく、本にも当てはまるのだなと改めて気がついた。むはは。

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心を丸めてユカイに生きる

まだ先のことですし、世田谷区の公立小学校の保護者しか入れないイベントですが、来年のバレンタインデーに私も好きなダイヤモンド・ユカイさんとのコラボが実現。さすがに世田谷区だけあってチラシは、プロの技を惜しみなく学校のために奉仕してくれる方がいらっしゃるのでしょう、タイトルの「心を丸めて、ユカイに生きる」(すごい、あはは)と同様にレベルの高いもの。担当の方に12月になったら各学校に配る由のご連絡をいただいているので、ひょっとするとフライングかもしれませんが、一応アップします。世田谷区立の小学校の保護者の方は、学校からのご連絡をお待ちくださいませ。

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置き去りにされた未来

「未来を置き去りにしたまま歩いているような気がする」は、アメリカのテレビドラマ「クリミナル・マインド」の中で出てきた、大切な人に先立たれた人のセリフ。悲しさと切なさが胸に刺さった。そんな思いをして生きている人に対する慰めの言葉を、私はまだ知らない。とりあえずは、置き去りにした未来をことあるごとに振り返り、あるいは引きずりながら生きていく覚悟をするしかないのだろうか。

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だれだって、ハーフだし、クウォーターだし。

昨日は檀家さんの父母(孫にとっては祖父母)の7回忌と17回忌の法事だった。命の継承を意識して自分の命を大きく感じてもらいたいと思ってお経を唱えていたら、面白いたとえ話を思いついた。これから忘年会シーズン、初対面の人にちょっと洒落て自己紹介するのにも使える。「こう見えても、私、ハーフなんです。父と母のハーフ」「俺ってじいさんやばあさんたちのクウォーターなんだよ」。いかがだろう(今回の写真が適当でないことは承知している。むはは)。

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