牛飲馬食

牛飲馬食--牛のようにガブガブ飲み、馬のようにバクバク食べること。

下品というより、こういう若者の飲食をみていると、微笑ましく思える年頃になった。
お猪口でチビチビ、会席料理をマッタリいただくののが、性にあってきたのだと思う。人生の残り時間が少ないのだから、年を取るほど牛飲馬食になってもいいだろうと思うが、即身仏みたいに、少しずつ枯れていく準備なのかもしれぬ。
今日は頑固について書いている。すでに5時間考えながら書いているが、まだ3000字が埋まらぬ。今回の本、今までになく難産である。何かにとらわれているからなのだろうが、まだ、その正体がつかめぬ。書き終わったころ、わかるのだろう。わはははは。 
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撃壢(ぎゃくりゃく)の楽しみ。

撃壢(ぎゃくりゃく)である。「あ」から始まっている、「あいうえブログ」も、昨日は「りょ」までいった。だから、今日からは「ぎゃ」「ぎゅ」「ぎょ」とつづくことになる。ギャギャギャ!--そんで、撃壢(ぎゃくりゃく)は、「指でくすぐること」と仏教語辞典にある。いったいどんな場面で使用されている言葉なのか、とても興味があるが、辞書に出典はあるが、例がないから、いつか、巡りあえるのを楽しみにしようと思う。
くすぐると言って私が思い出すのは、とにかく憎らしい奴への仕返しである。
いやな奴に、好物をとにかく食べさせる。もう食べられないくらい、お腹一杯にしてあげる。もう動けないから横になったところを、すくぐるという仕返しである。これはかなりつらいと思う。家内には教えないでおこうと思う。わはははは。
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料理という仏教語。


「料理」は、食材をどうこうするというよりも、「理(ことわり)を料(はか)る」という字の並びから考えると、なるほど、仏教語としての品格がある。
仏教語辞典では「とりはからい。処理する。また道理を考えること」となる。ニャルホドね。
昨日は高校時代の仲間8人があつまってわが家でちょっと遅い新年会。恒例である。全員がヘベレケになるもの恒例である。
その場で、私は全員に聞いた「原稿が行き詰まってるんだが、ちょっと智恵を貸してくれ。ケチってどういう状態だ?」--いろいろ答えてくれたが、こっちが酔っているので、何も覚えていない。わはははは。仲間のうちの一人Hは、わざわざ「家族全員に聞いてみた」とメールをくれた。ありがたいことである。
 とにかく、苦労している原稿だが、心のマイナス面についての項目ばかりなので、いろいろ考えているこちらも、陰々滅々になってくる。わが家の子供たちにそれを伝えたら、面白い答えが返ってきた。
「そういう時には、お父さんが書いた「心の大そうじ」とか「心がすっきり軽くなる般若心経」とか「すーっと悩みが消えるコツ、お坊さんが答えます」を読むといいんじゃないの」だって。ぎゃははははは。ちげぇねぇ。
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龍髭(りゅうしゅ)でしゅ。

龍髭(りゅうしゅ)を仏教語辞典で調べてみた。[龍の髭。龍のひげで身体をしばって水中に入れると、ひげが縮んでぎゅーっと縛り上げられてどうにも動きがとれないこと。ここから、自分の利養が自分を縛っていくことにたとえる」とある。地位も名誉も財産も、龍の髭にならぬようにしたいと思う。
「龍の髭」といれば、別名「ジャノヒゲ」といわれる草を思いだす。密蔵院の境内にも、植木屋さんがたくさん植えてくれている。雑草のようで、雑草でない、不思議な草である。

今日からは、この草を見ると「龍髭」の例えを思いだすことだろう。
ちなみに諺辞典では(大きな危険を冒すこと)の例えとして「龍の髭を撫で、虎の尾を踏む」があって、ドキッとした。今書いている原稿依頼を受けたのは、ひょっとして「龍の髭を撫で、虎の尾を踏む」ような事態なのではなかろうかと思うほど、原稿が進まないのだ。ぎゃははは。
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略説にて候

「略説」は、要約して説くこと。
「どうにも、こうにも、あなたのおっしゃっていることが、こんな私には理解もできませんし、同意もできませんので、困ったことです」--これを略説して「ハァー?」と言う。どははははは。
 朝から、ご詠歌研修所の面接官と、進級試験の試験官をこして、夜は千葉でご詠歌。たくさん寝ているのだが、ちょっとつかれてるかしらんと思う。
 原稿を書かねばならないのだが、明日は午前中に筑波で、午後は東京で、それぞれ檀信徒研修会の講師を務める。同じ内容を話したのでは、つまらん坊主になると思うので、それぞれ違った話を用意しよう思う(って、今頃考えているのか、といいたくなるが、そんなものである)。どはははは。
 上記の今日と明日の話を略説すれば、「ってやんでぇ」である。わはははは。
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妙という字は妙である。

妙は、仏教にも、よい意味で、たくさんでてくるし、その関係で女性の戒名にも、「たえなる」という意味で、よく冠される文字。
「少」は「小+ノ(けずる)」で、細かく削るという意味だそうだ。そんで女偏であるから、小柄な女性のなんとも美しい様子なのだそうだ。たしかに、大柄の女性に「妙」は不釣り合いかもしれぬ。
 それ意外に、どこで読んだのか覚えていないが、13歳くらいから17歳くらいの女の子を表すというのを記憶している。少女でもなく、大人の女性でもない、不思議な魅力のことを「妙」というのだと。
 「妙な坊主だ」と言われたら、私はきっと、困惑することだろう。
 昨日は、法事の後座でしこたま日本酒を頂戴し、帰宅してダウン。中途ハンパな時間に起きたものだから、さあ、夜になっても寝られない。原稿を書くにもまだ酔っているから、書けない。で、BSを観はじめたら、これがじつに面白い番組ばかり。日曜日の番組がこんなに充実しているとは、妙である。
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MUSE

MUSE(ミューズ)。言わずと知れた、ギリシャ神話で、芸術の女神で、ミュージックの元である。9姉妹だそうだ。

中学生のころ、お気に入りのオーディオセットに「ミューズ」と命名したことがあった。今は懐かしい、レコードの時代であるが、以来、ずっと音楽漬けだなと思う。
今日も、法事を終えて、原稿を書きながらずっと音楽を流し続けている。ピアノ系で全300曲である。
次男は、こういう音楽を聞くと「すぐに寝られる」と言うが、私も心が落ち着くが、眠くなることはない。そういう回路が脳にできあがっているからである。
その次男が通っている劇団の養成所の卒業公演が昨日から三日間おこなわれている。松田勇作や渡辺徹なども通っていた養成所だそうだ。昨日は、家内と長男が、今日は私と娘ででかけることになっている。
聞けば、踊りもあり、歌もあるのだそうだが、なんだかこちらが恥ずかしい。そんな恥ずかしさもあってか、次男からは妹でもある、私の娘は「帰りに夕飯、何を食べさせてくれる?」とごまかしている。
二人でお酒を飲みながら、お兄ちゃんのどんな話になるか、楽しみである。
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脈絡も段落もなく、そしてまた道楽

脈絡がない自分の文章に、手を焼いている。悪い頭で考え過ぎて、気がつくと、段落もない。
途方にくれて、編集担当のTさんにS.O.S(SAVE OUR SENTENCE)のメールを送った。
そしたら、すばらしいアドバイスが返ってきた。「このあいだ、一緒に飲んだ時に話してくれたような話がいいんです」というような内容である。

ああ、それなら、道楽で書けそうだ。うははは。
今日はご詠歌の先生たちの自主研修 IN 密蔵院。自分が唱えるより、人の唱えを聞いたほうが、ずっと勉強になる。ご詠歌は声でなく、耳だと痛感した一日。耳が悪くなったら、ご詠歌の先生はリタイアしようと思う。
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氷伽羅(ひょうがら)である。

「氷伽羅(ひょうがら)は、十方を守護する鬼神(全員で二十八人)の一人。サンスクリットのピンガラの音写であるが、読みは「ひょうがら」であるから、時節柄、豹柄の衣装なのだろうと、オヤジギャグ好きはイメージするわけだ。わははは。

 一方、密蔵院の今日の「写仏の庭」のお手本は「日光菩薩」。私が描き起こしたオリジナルなお姿である。もともと、没企画になった写仏の実用書用に描いたものなので、写仏時間は一時間程度と短めである。
 過日、敬愛する唸るカリスマ国本武春さんから、四月一日から八日まで、浅草の木馬亭で、ぶっ通しでおこなわれる「武春まつり」のチラシが送られてきた。うまい具合に、三日間はすでに夜の予定が入っているのだが、他は大丈夫。だから、五日間分のチケットを頼んだ。わーっ!楽しみである。
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「ひゅうどろどろ」という言葉。

「ひゅうどろどろ」である。なんで「ひゅうどろどろ」かといえば、今日は、昨日の「ひゃ」の続きで「ひゅ」ではじめなければならない自分で作ったルールだからである。だから、明日は「ひょ」であるが、とりいそぎ、今日は、仏教語辞典にはない「ひゅ」でスタートだ。
で「ひゅ、ひゅ」と言っていたら、「日向(ひゅうが)」くらしか思いつかぬ。で、辞書を調べて笑った。

「ひゅうどろどろ」である。最初に出ている意味はこうである。
[芝居の下座音楽の一。笛を高く吹き大太鼓を小刻みに打つ。幽霊の出没の場に使う」--よく分かる解説であるが、二番目の解説を見て驚いた。〔幽霊の出るときの形容〕とあるのだ。
ということは、最初の言葉に〔音の形容〕という解説がない以上。①の意味では、そのまま使われる言葉なのだろう。
「あの幽霊の場面は、(ひゅうどろどろ)を頼むよ」と舞台監督が音響さんに言うわけだ。
 擬音をそのまま名詞として使う用法は新鮮である。
「ぴーひゃら」もそうだろうか。うははは。

 今日は、朝から茨城県古河市へご詠歌。五時間、ご詠歌をご年配(平均年齢は75歳を越える20人の方々である)と唱えていた。私だって、疲れるくらいなのに、すごい体力と集中力だと思う。ご詠歌の覚え方がお分かりにならない方がいて、そういう方はとても苦労される。それが良くわかったので、どうすれば早く正確に覚えられるかについてお話をはさんだ。今日もいい勉強になった一日である。こうして、講師としてのノウハウが身についてつくのだ。
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