緞帳は上がるばかりではない
密蔵院の本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)。全国に200以上もある長谷寺の本家。身の丈12メートルをこえる大きな十一面観音さまが本尊だ。この仏さまを拝む方法の一つに開帳(かいちょう)法要がある。法要前は観音さまの前には緞帳があるが、法要の途中で緞帳が・・・。普通緞帳は上がるのだが、長谷寺の緞帳は下がるのだ。慈悲深い大きなお顔が先に現れる。感動ものである。明日の大学の伝道学の授業では、この長谷寺の緞帳にまつわる井原西鶴作の愉快な話をシェアしようと準備した。
密蔵院の本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)。全国に200以上もある長谷寺の本家。身の丈12メートルをこえる大きな十一面観音さまが本尊だ。この仏さまを拝む方法の一つに開帳(かいちょう)法要がある。法要前は観音さまの前には緞帳があるが、法要の途中で緞帳が・・・。普通緞帳は上がるのだが、長谷寺の緞帳は下がるのだ。慈悲深い大きなお顔が先に現れる。感動ものである。明日の大学の伝道学の授業では、この長谷寺の緞帳にまつわる井原西鶴作の愉快な話をシェアしようと準備した。
筆で何通も手紙を書いて、明日の法事の準備を終えればすでにお昼。で、明日は16時から「法話の辻」。皆さんの人生と仏道の交差点。1時間本堂でお話を聞いていただいてから、客殿で飲(呑)みながらのフリートークは18時まで予定(あくまで予定です。ぐはは)。予約は不要。参加費はお賽銭方式。イメージ写真のような人数はあり得ません。10人前後がよいところ。お誘い合わせの上どうぞ。
高知での布教調査の三日間。仏さまではなく、人に「こんにちは」「ありがとうございます」「さようなら」とこんなにたくさん合掌したのは久しぶりだ。否、人みな仏だから、結果的に仏さまに合掌したことになるだろうか。帰坊(きぼう:住んでお寺に帰ること。「帰宅」の坊さん用語)して、昨日、今日はご詠歌。夕方犬の散歩に出ると公園の芝生広場の木の下には、風がないので木の下に丸くたくさんの落ち葉。落ちているたくさんの葉の広がりを見れば、その枝ぶりがそのままわかる。芝生と落ち葉と木のコントラストはまとまりがいい。
明日から二泊三日で高知県東部の弘法大師霊場の布教の調査へ。この一カ月で外泊(無断ではない)は九泊。出張の多いサラリーマンみたいだと思った。合間を縫って来年二月脱稿予定の本の原稿を書いている。作家みたいだと思った。もちろん「~みたい」は実際はそうではないことを示している。「私って馬鹿みたい」と言えば、実際は自分が馬鹿だと思っていない(ある意味で思い上がりな)のである。ぎゃはは。「名取さんって、まるで坊さんみたいですね」と言われないように気をつけたい。あはは。
名前がポインセチアでないのは教えてもらっていた。明日のご法事で参列者に持って帰っていただきたいとお施主さんの心配りの花。奥さんんと二人で持ってきた。名前はなんとなくうるおぼえだったので「おっと。パインセチアですか」と言うと、「住職、違うよ。プリンセチアだよ。このあいだ、教えたでしょ」。そうそう、プリンセスと引っかけてプリンセチアと言うんだっけ。すると奥さんが「パインセチアじゃ、ピコ太郎みたいじゃないですか」。あははは。
「来週24日くらいには大きな書店には並ぶと思います」と編集担当のTさんが今日持ってきてくれた新刊、『凹まない~マイナスな心をリセットする「般若心経」のことば』(KADOKAWA 。1000円+税)。とにかく、カバーがかわいい。街中でクリスマスソングが流れるこの時期にカバーの緑色がシンクロしているようでもある。もともと「般若心経」では扱わない、愛や慈悲で読み解く般若心経という今までなかったコンセプトでスタートした企画だった。「凹まない」は結果的によい方向で形になったと、Tさんと意気投合した。これで、今年出す予定だった新刊7冊がすべて出揃った。ぱーっといきたいところだが、今日は夕方からの大学のご詠歌のゼミまで、次の新刊のゲラ校正。寺の中では、次男が関わるショートムービーの撮影。みんな、やることやっているなぁと思う。
写真のように尻尾のある犬の形をしているとっとり県。その物産をいただいたのでお礼状を書いていて「とっとり」を漢字で書けない。鳥と取が使われているのはわかる。「鳥を取る」だとすれば漢文では取鳥だが、どこか違う。あはは。こうなると鳥取も変に見えてくる。鳥は「とっ」なんて促音では読まないだろう。「とっ」ならば「取っ組み合い」などで使われる「取」だろう。だとすればやはり「とっとり」は取鳥か?あははは。しにしかたがないので、辞書で調べた。わはは。情けない。とっとり県の皆さま、申し訳ありません。
明日は群馬県伊香保で講演会。しかし、13時30分の開会の前に会場を通り越して榛名山の反対側に行かなければならない場所がある。国貞忠治処刑の場、大戸の関所跡である。ここに忠治の供養のために建てられたお地蔵さまがある。そこにお線香をあげにいくのだ。会場と往復するにはゆうに2時間以上かかるから、朝6時に出発だ。講演のあと120名の方々と宴会をして一泊したら、再び朝六時に伊香保を出て密蔵院に戻り、10時からパルシステムの方々に二時間お話をする。終わって13時からは実家のお寺で二時間ご詠歌だ。何がありがたいと言って、この一両日お葬式がないから、気兼ねなく楽しめる。
かなり酩酊しながらも、やyなねばと思った来年一月に出る本の「まえがき」を、縦書きでプリントアウト。とても面白いことがわかった。パソコンで横書きで書いたものが、縦書きの本になった時の雰囲気の圧倒的な違いは重々承知だが、その前提として「酔っぱらいが読んでわかれば、シラフが読んでもわかる」というこ当たり前のことだ。学術論文は酔っぱらいではとても読めない。しかし、私が書きたいのは酔っぱらいでも「うーん。そうだよなぁ。そうなんだよ。ってやんでぇ、あははは」とわかってもらえる「まえがき」なのだ(あはは。こうして書いている文章でも酔っぱらい感が出てるデショ)。「まえがき」だけでも、こうして5回読みなおして直さないと出版社にさえ送れない(いわんや本にはならない)--という、しがない坊主の精一杯の戯言(たわごと)である。
« 前ページ |