唸って、笑って、食いしばって、悶絶する・・

 おお、昨日のぎっくり腰も、今朝はどうにか持ち直し、これなら二軒の法事とその後座もご一緒できるぞ!

 ちょっと足袋を履くのはたいへんそうだけど、その間にちょっとトイレへ行っておこう・・・。

 私がトイレから出てきたのは5分後である。もはや、歩くことさえままならぬ状態。まともに息さえできぬ。

 あわてて長男を呼んで
「こっ、こういう、事情--ウッ!--だ   か   ら、お前一人で・・フーッ。やってくれ。お檀家さんには、玄関で自分で事情を説明する--ウッ!から。フーーッ」

 一挙手一投足を、家内と娘が笑う。笑われてもどうしようもない。

 普段自分の体のなかで、何がどのように連携して、ほんの些細な動きさえもやっておるのだとヒシヒシと実感する、ああ、なんとも愉快な愉快な(痛いけど)時間である。

 明日は、日本橋「まほろば館」で、声明のプチライブと、ご詠歌体験講座。
 とても楽しみにしていたので、頑張って、腰を治します。トヤーーーーッ!
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魔女の一撃ってか・・・

英語で言うと、strained back(ストレインド・バック)だそうだ。ぎっくり腰のことである。

で、悔しいし、痛いから[ぎっくり」を調べた(調べることでいくらか痛みが緩和されると、何の根拠もなく思うからである。ぐははは)。ドイツでは「魔女の一撃」というらしい。

[ぎっくり]
①不意をつかれて驚くさま。「聞いてぎっくりとする」
②歌舞伎などで、はったとにらむさま。

うはは、魔女の一撃をふいにくらって、はったと、虚空をにらむほどの、腰の痛み--であることよ。

昨日一日中椅子に座って、ご詠歌コンサートの企画を練っていたからかもしれぬ。

こうやって、出来事が起こってから「ああ、あれが原因だわ」って思い当たるのだ。

いざ死んでしまったとき、きっと、色々なことがわかるんだろうな・・・。

それはまた、ある意味での悟りかもしれぬ。だから、亡くなった人をホトケと呼ぶのかもしれぬ(本来は煩悩がなくなったので言われるようになったという説があります)。



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「船頭多くして、船を山に登らせてみるか」

 今日は一日オフ。

 で、朝から、今日やらねば、いつやるのだということをやった。

 来月10日に、ご詠歌の60分コンサートがある。来てくださるのもご詠歌をやっている年配の方々が三〇〇人ほど。

 その選曲と、流れと、ステージングは、「私がやります」って、言っちゃったのが去年の夏前のことだ。

 先生方に唱えてもらうのだが、先生といえど、一二〇曲のうち、どんな曲でもゴザレというわけではないので「自分が何を唱えるかわからないと不安で仕方ない」とい声が昨年末から聞こえていた--けど、聞こえないフリをしていた。ぎゃははは。私にしてみれば、そんなに前から何をどうやるかを決めてしまっては、新鮮さがなくなってしまうと、勝手に自分で思っているからである。

 どんな曲を、どんな趣向で聞いてもらうかは、今年になって、社会情勢や私が演出者として感じたことを盛り込むしかないと思うからだ。

 でも、明日はリハーサルの日程をとってあるから、先生方が来ても何も決まってないでは済まされぬ。どうしたって、今日中にかなり細かいところまで詰めないといけない。

 私が独りよがりで作り上げた内容だ。きっともっと多くの人の意見を聞いて練り上げたほうがいいのかもしれない。しかし「船頭多くして、船山に昇る」のたとえもある。

 明日、リハーサルで、みんなからどんな意見がでるか、これはこれで、楽しみである。

 久しぶりに長時間、クリエイティブな時を過ごした。

 写真は昨年密蔵院でのコンサートの一幕。
 
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小さな違いが、大きな違い

受験シーズンまっただ中。近所を通っても、中途半端な時間にバス停に大勢いる中学生。三年生だろう。願書を提出にいくのだろうなと思う。自分のあの頃の緊張の連続の日々を懐かしく思い出します。

 そして、また、多くの大学ではテストやらレボートの提出の時期。

 今日も今日とて、娘は「この英語、訳してくんない?」と日本語ならともかく、英語だとどういう言い回しをすればいいのだ?と思うような内容の日本文を持ってきた。

 そんなもの30分でやってやろうとはじめたが、どう考えて2時間くらいかかりそうだった。わははは。
 結局最初の3行だけで時間切れである。
「クリスマスは、神が人として生まれたという誕生の祝いと太陽の再生を祝う冬至が融合したもので、原義はChrist(キリスト)+Mass(ミサ)である」なーんて、どうすりゃいいだわさってトコである。
 だいたい「冬至」なんて英語、知らないっちゅーの!わははは。

 と---そんな呑気なことをやっている場合でないのは、登校時間の迫った娘だけではなく、私だってそうだ。

 午後から檀家さんが役員を務める会社の社員の方々向けの、「お坊さんのお話を聞いてみる会」の資料を今日の午前中に用意しようと思っていたからだ。ぎゃははは。

 トークライブで話す私の内容は”きれいごとだ”と思う方は多いと思う。

 しかし、杖をついたり転んだりしながらも、三歩進んで二歩も三歩も、時には五歩も下がるような生き方をしていても、前向きに笑顔で、心を耕していく年月を重ねた場合と、
 何もせずに、楽で、楽しいことばかりを望み、それがかなわずにグチを言いながら過ごして年月を(「無駄に」とは言わない。それはそれで大逆転するための準備でもあるからだ。でも大逆転しなかったらエライことである)過ごした場合では、そりゃ違ってくると心底思っている。

 帰りにいただいたようなきれいな欄を、心の中でも育てたいと思う。

 ちなみに、冬至は the winter solstice(ザ・ウィンター・ソルスタス)って言うんだそるすたす。わはははは。
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「どう見てもお坊さんだよね」

 アート・マネージメントという分野があることを知ったのは、3年前のことだった。

 それもそれが学科として音楽大学にあると聞いて、へぇと思った。

 それから3年。音大の、そのアート・マネージメント学科のゼミの一環として、今日、声明(しょうみょう)ライブをやらせてもらった。

 助っ人の都合がなかなか合わないので--当たり前だ、元旦から節分まではどこのお坊さんでも自分のお寺の行事や、お手伝いでテンテコダンス(舞)なのだから--長男を無理やりさそって、早朝から出かけた。

 声明だけを聞いてもらうのではなく、ライブとしてのパフォーマンス性(私に言わせれば布教)を目の当たりにしてもらおうと、普段の声明ライブの60分ロングバージョンでお届けした。

 教授陣や学生さんたちにはどう映ったのだろう・・・。

 お昼は学食でいただいた。--普段はあり得ない学内の二人のお坊さん姿に、あちこちでヒソヒソ話がささやかれたそうだ。

 もちろん、
「学校内でだれか亡くなったのかしら」といったたぐいでもないし、
「校舎内にお化けでもでるのかしら」といったものでもない。

「あれって、どう見てもお坊さんだよね」といった、学生らしい呑気なささやきである。ぐはははは。
 
 ああ面白かった。

 こんな機会を与えてくださった先生方、学生さんたちに合掌である。
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はっぱと心経と仏

 写仏の庭に参加してくださっている0さん(70代・女性)が、「住職さん、お焚きあげしてください」と持参された、たくさんの写仏された仏様の紙の中に、葉っぱが数十枚・・・。

「この葉っぱもお焚きあげですか?」と手にとって驚いたのは、昨日のこと。ただの落ち葉じゃなかったのだ。

 昨年の秋に境内に落ちていた葉っぱを拾って家に持って帰り、般若心経を書いたのはいいけど、そのあとはどうしていいかわからないから、天地自然にお返ししますとのこと。

 あっぱれな心がけであります。

 葉っぱの中に、石の中に、空気の中に、般若心経の教えがあるのだということを、きっと実感されながら、お書きになられたのだろうと思う。
 葉っぱの中に仏がいらっしゃる---そんな気持ちで仏様も描かれたのだろうと思う。

 見事だ。

 そういえば昨日夜、散歩の途中、檀家さんのお嫁さん(40代かな?)に会って、

「住職。この間のお葬式の時、その家の人に写経しなよって写経セットを渡したでしょ。私、あのお宅にお参りにいった時に、途中まで書いてある写経みたんだけど、私もやってみたいんだけど、あれって何も無いのにやっちゃいけないの?」
「そんなことないよ。毎日やってる人だって大勢いるんだから」
「そうなんだ。じゃ、精神修養のためにやってみたいんだけど、どうすればいい?」
「ああ、そんなら、明日にでも持っていくよ」

 彼女が、葉っぱに心経を書こうと思えるのはいつ頃になるだろう・・・。そう思いつつ、これから届けに行ってこようと思う。
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我が担当時間

今日は友人のお寺の初護摩でのお話、約30分が私の受け持ち時間。

そんで、数日前の新聞では、地球の新生代と言われる第四期の年代が数十万年ずれていることが昨年分かって、日本も今年やっとそれに準ずることにしたという。
数十万年である。ぐははは。キリスト様が生まれて2010年、お釈迦様が生まれてた2500年である。その四倍でやっと一万年だ。それが数十も集まって、やっと数十万年である。

オリオン座の四角形の左上の赤いベテリギウスが、まもなく超新星爆発をするという記事も興味津々で読んだ。この星の大きさは太陽の一千万倍だそうで、爆発すると月の明るさになって昼でも見えるそうだ。ただし、爆発が明日おきるか、数万年後なのかはわからんらしい。

今夜も犬の散歩をしながら見た、ベテルギウスまでの距離は600光年。東京から大阪においたソフトボールを見た時の大きさだそうだが、あんまり明るいから光の点に見えるらしい。いづれにせよ、今宵、私や犬は、600年前の光をみていることになる。

今日の法話の30分と600光年と、数十万年・・・もし時間に質量があるとしたら、私にとってはどれも同じ質量である。もちろん、私の人生という担当時間(何年ある。かわからないが)も同じだ。
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イタイの何のって・・・

20日に密蔵院の一大行事の護摩が終わって、

翌21日はお葬式と火葬場同行と葬儀場へ戻って初七日まで、

22日は、読売文化センター京葉の「仏教の智恵で楽に生きる」の4回目。

そして今日は、筑波で300人出席(そのうち200人が坊さんという、お寺同士のご縁組)の司会を終えて、さっき帰宅。

明日は仲間のお寺の初地蔵の縁日の法話と、絵馬配りのお手伝い・・・

毎日違うことができて、充実の日々ですが、肝心の護摩札の郵送分が手つかず・・ぐははは。面目無ぇ。

で、気がついたら今日は礼服に礼服用の革靴というイデタチ。

電車の乗り換えや、3時間半の披露宴の間、自席と司会者席を行ったりきたりで、結構動いた。その報いだろう---靴擦れだ。

51年の人生で、たぶん6回目くらいの靴擦れだろうか。どうしてこんなにイタイのだろうと思う(歯痛には叶わないが、ランキングは上位にはいるだろう)。

帰りの50分の電車では思わず靴を脱いだ。

あの世とやらには、靴擦れがないことを祈った。
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イタイでしょ。

学校の帰りにバイトをしてくるから帰りは遅くなるよ、と言って玄関を出て自転車で駅まで向った娘。

家を出てから10分ほどしてから、その娘から電話があった。

定期を忘れたと言うのだ。

「定期がないと、学校まで片道690円かかるの。それってイタイでしょ」と、痛いのは娘であって、私ではないから「イタイでしょ」と同意を求められても、「イタイだろうなぁ」と答えるのが精一杯である。

娘に言われたように定期を探し出し、駅で待っている娘に届けた。

「これで、バイトで一時間以上働く分が助かったんだな」と、あまり恩きせがましくなく言った。

坊さんは「これだけ働いていくら」という観念は、ありがたいことにほとんど無い(言い換えれば浮世離れしているとも言えるし、だからこそ、坊主でいられるとも言える)。

だから、こういう状況になってはじめて、「おおこれが世間の経済観念というべきなのだな」などと、妙なことで納得したりするのだ。

年に何度か「ご住職、金(キン)に興味はありませんか」とか「株にご興味は」とか「資産運用に興味は」という営業の電話がかかってくる。
「お金はあんまりいらないんだ」と答えると「でもあっても困ることはないでしょう」とマニュアル通りの返事が帰ってくる。

「今さ、あなたは普通の会社じゃなくて、お寺に電話かけてるのを知ってるんだよね」
「はい」
「私が坊さんだってことも知って電話してるんでしょ?」
「ええ」
「そんじゃ、毎朝、新聞の株価や金の相場を見ているような坊主に、拝んでもらいたいと思うわけ?」
「まあ、そう言われればそうですが」
「俺をそういう坊主にしないでおいてくれないかなぁ」
こうなるともう、営業のマニュアルにはないから気の毒だと思う。

「あなたの営業の電話、とても好感が持てるよ。誠実なお人柄がよく出てる。
俺はその営業に協力できないけど、世の中が経済でまわっている部分があることも知っているから、お客さんのために、これからもがんばってね。陰ながら応援するよ。
俺は経済でない部分で世の中を生きていくし、そういう生き方があることもみんなに伝えたいと思うからさ。
人生になんか悩みがあったら、営業じゃなく電話しておいでよ。一緒に考えよう」

「ありがとうございました」と電話を切ってくれる若者が多い。
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報告待ってるよ

昨日の護摩が終わってからお通夜だった。

大正3年生まれのおばあちゃんだった。激動の時代を生きぬいてきたことになる。
 しかし、先週枕経にうかがった時も、綺麗なふくよかな顔をしていた(ひょっとしたら自宅で亡くなるという恩恵かなとも思うほど、いい顔をしていた)。

遺影も笑顔のいい写真だった。

「住職さん、あなたが私の歳までいきるとしたら、あと44年だね。その間にどれだけ、心を磨けるか、悟りへの道をどこまで進んだか、あなたがこちらへ来る、その時にゃ、報告してくださいよ」---そんなことを語りかけられている気が、お通夜のお経を終えてから、した。

 人の命は昔から「草葉の上に置く露の、風待つほどの」と称されるほど、果敢(はか)ないものだが、先に亡くなっていく人は、私に多くのことを気づかせてくれる。

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