「ございます」

ラジオを聞いていたら、過度な尊敬語はもはや必要ないのでか、という話が流れてきた。
その代表格が「~~でございます」
「名取芳彦(ほうげん)でございます」ではなく「名取芳彦です」で必要十分な丁寧言葉だと言うのだ。いたく同調した。

ただ、ラジオでは「それでも『ございます』がないと具合が悪い言葉が二つあります。『おはよう』と『ありがとう』です」と加えた。

「おはようございます」
「ありがとうございます」

---すごく同調である。
目上の人に対して「おはようです」「ありがとうです」では、思いがぜんぜん伝わらない。

ということで、今回もお忙しいところを、ブログにおつきあいいただき、

ありがとうございました。 

合掌
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「日の出を拝む人あれど」

「日の出を拝む人あれど、入(い)り日(夕日のこと)を見送る日はねぇ……これが世間の習(なら)わしなれど、あっしら渡世人はそれじゃ通るめぇ」

 再度浪曲の名台詞からで、恐縮です。
 「これから世に出そうな人」や「現在勢いのある人」には、おべっかをつかったり、ヘイコラする人はいるが、「風の噂にも昇らなくなった人」や「おちぶれてしまった人」に気を使う人はいないのが世間の常だけども---そんな意味です。

 比喩ではなく、あと一月もすると今年最後の夕日(入り日)。
「初(はつ)日の出」を拝む人は多いですが、「今年も一年ありがとう」と大晦日の夕日を見送りたいと、今頃から思っています。---最近よく考える「貫祿」ということの、そして今日は日の出も拝めなかったくらい寝坊した--私の心象のヒトコマであります。
 仏さまってぇのは、「貫祿」ありますかねぇ?(というより、仏さまにゃ、そういう尺度は通用しませんかな?)
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「喜ぶと思うか?」

 浪曲の『清水次郎長伝』の中にこんなクダリがあります。

 ある時、甲州の親分と喧嘩別れした法印大五郎が次郎長の子分になります。
 この時、法印大五郎は、元の親分のことを悪く言います。
 すると次郎長はいきなり、法印大五郎の胸ぐらを掴んで拳固で二つ三つ殴りつけます。
 驚いた大五郎が「親分、何するんでぇ」とくってかかった所、次郎長が言います。

「ある所に奉公していて、訳あって新しい所へ移って、新しい主人の前で、前の主人を悪く言ったら、今度の主人が喜ぶと思うか?喜ばねぇぞ。『この野郎また別の場所へ行ったら俺のことをこういうふうにまた貶(けな)すんだな』と思うと、そこの扱いが違ってくらぁ。バカ野郎。なぜてめぇが世話になった、縁あって親分にした人を悪く言いやがるンだ、この野郎!」

 新しい人に好かれようと、こういうふうにしてしまう人は、今の世でも大勢いることでしょう。気をつけたいものでゴザンス。 
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「では、書いてみましょうか」

 そう言ったのは2週間前のこと。
 相手は出版社の出版部長と編集者。
 文庫本の営業方法なのでしょう--本が書店で平積みされている間、読者が一冊の本との共有した体験がまだ残っている間に、次の本を出すというのが。

「一年間に『○洗い』と『大そうじ』の二冊の本を書いて、もう私は逆さにしたって鼻血も出ませんぜ」--そんな言葉はお二人には聞いてもらえなかったようです。
 でも、せっかくのお話ですから、「では、書いてみましょうか」と答えてしまったのです。
 どんな本になるか、お楽しみに!(ここ二週間、ぜんぜん書ける気がしないのですがね)
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自分のことは……

小学三年生の時だ。
実家の寺の境内で遊んでいたら、八十歳近い、それでいてとても元気なおばあちゃんが私に言った。

「このベンチ、日の当たっているあっちへはこんでちょうだい」

私は言ったそうである。

「自分のことは自分でやりなさいっておそわったでしょ!」

そのお婆さんが母に「あの子は将来が楽しみですよ」とわざわざ言いに来たそうである。

そのことを母から言われた私は、褒められたと思ったものだ。
おかげで、今でも「自分のことは自分でやろう」という根性はある。

そして、また、今でも、密蔵院の境内にあるベンチを移動する時、そんなことを思い出すのだ。
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オリオンの星々でも

午後9時半を回ると、東の空にオリオン座が見える季節になったのだな、とさっき外へ出て気がつきました。

はるか、何光年だかわかりませんが、遠いあの☆の上でも、諸行無常の大原則、空の大法則がしっかり働いているのだな……

あの☆の上でで起こっていることにも、良いも悪いも無いのだな……。
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お志しはありがたいが……

少々混んでいる(のか、手が足りないというべきか、とにかくそういう)ガソリンスタンドで給油をしました。

給油を終えて、年配の女性社員さんが運転席のドアまで来て、
「はい○○円です」
と言ったところで、私がお坊さんであることに気がついて、
「あら、お坊さんを待たせてしまって申し訳ありません」と深々と頭を下げられた。

お坊さんを特別な存在として考えてくれているのは有り難いのですが、
「お坊さんを待たせる」ことと「そうでない人をまたせてしまうこと」に、
私は何の区別も無いはずだと思うのです。

「お待たせしました」や「ごめんなさい」などの、謙虚で素直な心は、誰に対しても平等に働かせていけたらいいですな。
合掌 

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丸い卵も切りようで四角


『丸い卵も切りようで四角 物も言いようで角がたつ』

臨機応変=行き当たりばったり
古びた=哀愁が漂う

こういう言葉の言い換えは、やはり話し手の心の有りようなのだと思います。

『なるべくいい言葉がでるように心を整えて置きたい』
そして、
『悪い言葉がでてしまうようなら自分の心をチェックする心の余裕も持ち続けていたい』
--かように存じます。
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悟りは、得るか開くか?

ここ2カ月間、気になっているのが表記の件である。

一体「悟り」とは、「得る」ものか、はたまた「開く」ものか……。

もとより、その動詞の使い方によって、「さとり」そのものが分かるものでもないので、学術的な迷路に入る積もりはないのだが、やはり「開く」ものなのだろうな思う。

単に閉じていたものを、開くだけのことなのだ。

もともと私たちは「仏」の性質を持っているというのが、日本に入ってきた仏教の基本的な考え方(本当だと思う)。
 
よって、自分とは別の所にある「さとり」なるものは、ゲットするのでなく、もともとある、そして閉じていた「さとり」を、単に「開く」だけなのだと思う。

まるで本のようなものである。

悟りという内容物の書かれてある本を開くと「本物」になるということなのだ。

胸襟を開く、こころを開くなど、「開く」という言葉は概(おおむ)ねプラス思考の関連していると思うのだが、如何?
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おかげさまで7刷。

7月に出版させてもらった、
『般若心経、心の大そうじ』(三笠書房・知的生き方文庫)
が7刷になりました。

 総計で東京ドームの観客数を越えた本を、全国で読んでいただくことになります。
 少しでも、こころ朗らかに、そして仏教って面白い!と思って頂ければ……。

 ありがとうございます。┏〇"┓。(「合掌」の絵文字って無いのですな)
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