総決算

家の大掃除が終わったのだろう。お墓参りの方が多い今日の大晦日。墓前の花も松や千両が入ったお正月バージョンだ。「おもてなし」と「おかげさま」の思いを花に託して先祖に手向けて年を締めくくる(年が開けて松の内の間にお参りにいらっしゃる方もいる)。小さな節目かもしれないが、その積み重ねが竹のようにしなやかでのびのびした人生に繋がっていくのだなと思う。空を仰げば青い空に一筋の飛行機雲が伸びていたが、少しすると他の雲と見分けがつかない。それぞれが人生を突っ走ってきたこの一年だが、たしかな実績として人生の中に溶け込んでいくのだろう。良いお年をお迎えください。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


ジャングルと餅

午前中にどうにかお正月飾りを終えた。お餅のしたに敷くウラジロは、心の裏側も白いという清廉さを表しているのだとか。たくさんいただいたので、たくさん敷いたらウラジロはシダ類・・・ジャングルみたいになった。ぎゃはは、これでは末広がりの八の字にならないが仕方がない。で、午後の原稿に取りかかる前に、今年出た拙著を並べてみた(写真)。韓国、台湾、ベトナムと外国版のほうが多いが右三冊が日本で出た本。今年もたくさんの方に仏教の考え方や生き方をお伝えできるチャンスをいただけてありがたいと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


小さな橋渡し

この年末に韓国版の『ラクになる練習』が届いた。韓国版のオファーがきたのが今年の3月だったから9カ月かかったことになる。タイトルは変更されて『悩みが幸せにかわるレッスン』になったそうだ(私は読めないので確認できない。むはは)。イラストも猫からウサギになった(これは見てわかる)。ニュースなどを見るかぎり、なかなかしっくりしない日韓関係だが、せめて小さな橋渡しができればありがたいと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


我が家のジェダイ

暖房がきいている台所のゲージ内にいてもいいのに、寒い玄関にいる犬。可哀相に思った家内がボロになったフリース地(もはやラグである)を体にかけてやると、そのままマントのようにしてノソノソと動いている。思わず「お前、ひょとしてジェダイか?」と確認したが、寡黙なジェダイは何も答えない。何かを伝えようとしている目だが、私はフォースをうまく操れないので「ジャーキーくれないの?」と懇願しているとしか思わない。わはは。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


もし相手の立場だったら・・・

他人と協力することを仏教では同事(どうじ)と言います。偉い人はだいたい協力して何事かをなし遂げます。しかし、協力が苦手は私は同事を「もし自分だったらと、相手の立場に立って考えること」だと解釈しています。誰かと衝突した時には「もし私が相手の立場だったら、そりゃ怒るわな」と納得できるので、自分本位で向かい合う時と対処の仕方が変わり、心が穏やかになることが多いのです。今日は「お寺から来る手紙が、ぐだくだといろいろ書いてあったら、私が檀家だったら読まないわな」という発想で、大きな文字の寺報(お手が発行する新聞)を作りました。3分で読み終わる、お寺の来年の雑把な予定です。このくらいがちょうどいいと思っているのです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


ノリノリで糊作り・・・

ドッグフードがなくなりそうだから「ホームセンターへ行ってくるよ。他に何か買うものは?」と言った。すると家内が「障子紙買ってきて」と言う。思わずニヤリと笑った。数日前に「1月の護摩(20日)までに二階の客間の障子を貼り替えて」と頼まれていたのだが、家内の言葉はその件と密接にリンクしているのは明白だったからだ。原稿の展開にも行き煮詰まっていたので、障子を貼り替えることにした。専用の糊も売っているが、ここ数年は余ったご飯を煮て糊を作ることにしている。作ってみたら、ノリノリで作ったわけでもないのに、家じゅうの障子が貼り替えられる多量の糊ができてしまった。数年に一度しか作らない罰である。ぎゃはは。貼り替えたあとは霧吹きをして完成である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


散乱する地蔵たち

2月末の締め切りに合わせて、ここ数日は1000文字の原稿を2本書くノルマを自分に課した。昨日、今日はどうにかクリア。ふーっと一息つくと、段ボールにお地蔵さまを描く。住職室に置いておくと邪魔なので、客殿のテーブルの上に散らかしてある。題して『散乱する地蔵たち』である。ぐはは。そのうちにテーブルからあふれる氾濫する地蔵になり、やがて混乱、反乱の時をすぎて、絢爛な姿の地蔵になって、皆さんにご覧いただこうという算段である。あはは。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


掘ごたつ

実家には一畳大の掘ごたつがあった。家族の憩いの場だったので、密蔵院の庫裏を作る際にも同じ大きさのユニットの掘ごたつを設置してもらった。一度入るとあまりの気持ちよさに出たくなくなる、そして、ピンポーンと玄関で鳴ると足をまず引き抜いてから手を炬燵の天板について立ち上がらなければならないので厄介だ。もちろん、天板の大きさはじゅうぶんだから、今日のように400枚以上の年賀状に押したハンコを乾かすのはもってこいである(写真)。残念ながら住職室で原稿を書くようになってから、炬燵の部屋にはめったに行かなくなったが、そのぶん家内がコタツに入ったり、娘が帰ってくるとコタツムリになって寝ている。掘ごたつは深さが必要なので一階にしか設置できないだろうが、部屋にスペースがある方にはお勧めである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


仏の時間

亡き人のことを西洋では故人の誕生日で、東洋では亡くなった日(命日)で思い出すといいます。今日12月21日は年の最後の弘法大師の亡くなった月命日(祥月命日は3月21日)なので、通称「納めのお大師さま」とか「しまい弘法」と呼ばれます。「仏さまの真似をしてごらんよ。こんな時、仏さまだったらどうするだろう、どう言うだろう、どう考えるだろうって。それができたその時、その場では、あなたは仏さまだよ」--そんなお大師さまの教えを夕方、改めて反芻して、居間で洗濯物を畳んでいる家内に「今日の夕飯は俺が作るよ」と言った。もちろん、家族のために洗濯物を畳んでくれている家内も、洗濯物を畳んでいる間は仏さまと同じである。ぐはは。きれいな月夜の東京です。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


皆が通る道

家内が施設に入っている義母のお見舞いに行って帰宅すると、必ず認知症の進み具合を笑いながらこまかく話してくれる。そこに悲壮感や切なさはない。話を聞くたびに「俺たちも通ることになる道だからな」「そうね」と同じ会話をする。こうして徐々に自分たちの覚悟も固まっていくのだと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ