懲りない坊主・・・

やってしまった・・・。私は、まだまだである。あるご婦人に「私もあなたと同じ宗派のお寺の檀家なんですが。先日本山へお参りに行った時、売店で(親しみのこめるという意味で)何気なく、うちのお寺も同じ宗派なんですと言ったら、普段は入れないところまで案内していただいて、嬉しかったです」とおっしゃった。そのまま「良かったですね」と流せば良かったのだ。ところが、私はこう言ってしまった。「お寺の名前を出したなら、灯明料で余計にかかってしまいましたね」。彼女は???。関係者の名前を出すことで利益を被った場合、あとに不義理を残さぬよう、相応の対応をするのが浮世の世界だと、私は思う。浮世の価値観で生きていない坊主が、浮世の価値観で、もの申してしまったのだ。申し訳なかった思う。それでも、思う--親しみを増すためであっても、関係者の名前を出す時は、注意が必要だと。極端な話だが、講談の中に、こんな会話がある。ヤクザの用心棒になった浪人が「拙者。こう見えても、もと○○藩で××を勤めた者」と言う。すると、相手のヤクザはたしなめる。「お侍さま。今のあなたの身の上を見れば、もと○○藩とおっしゃれば、○○藩、ひいては○○藩のお殿さまの顔に泥を塗るようなもんですぜ」--本来坊主が捨てているはずの、義理と人情の話である。

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暑さに負けないために何事かを催す

手元の電子辞書『大辞林』には次の説明がある。「暑さにまけそうになる身心を元気づけること。また、そのために何事かを催すこと」。あははは。「何事かを催すこと」は苦労の跡が偲ばれる名解説である。答えは〔暑気払い〕である。忘年会、新年会につづく日本人の飲み会イベントだと思ったら、飲み会だけではなく「何事かを催すこと」はすべて「暑気払い」なのだ。「納涼」と同義かもしれない。今週は7月に入る。諸氏も暑気払いのシーズンに突入とお察し申し上げる。せいぜい「暑さに負けそうになる身心を元気づけ」たいと思う。ぐははは。

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おしょうさん と つばめ (下)

今日の朝日カルチャーセンター(新宿)での『「気にしない」心のトレーニング』の講座の依頼を受けたのは今年の一月。『気にしない練習』発売から一か月たっていない、2刷(6月16日現在、おかげさまで15刷)が決まった後だったから、担当者のIさんは先見の明があったのだろう。120分の長丁場。楽しくやろうと思う。--ということで、昨日の続きです。

おしょうさん と つばめ(下)

 おしょうさんの手の中で、つばめはもう息がたえていたのであります。つばめのかわいい体温が次第に失われていくにつれて、おしょうさんの心には冷たい雲がひろがってきました。しっかりむすんだつばめの口にくわえられた 一本のわらしべを見つめるおしょうさんの目に、ぼたんの赤い色がうつり、やがて、玉になって、つばめの羽毛をぬらしました。

 向こう側へ抜けられるものと思って、いきおいよく飛んできたつばめは、思いがけぬガラスに頭を強く打って落ちたのでありました。

 ぼたんの花の下に、つばめのなきがらをうずめて、おしょうさんは、そっと手を合わせて

「ガラスには、紙をはろう」

と心にきめたのでありました。

 五月の風に、ぼたんの大き葉が、しきりに光を散らすと、咲き過ぎた花がハラハラとくずれました。

 おしょうさんは、ゆれるぼたんの葉からとびたつ、光の鳥のまぼろしを見ながら、自分の心を磨くようだと思った事が、つばめという一個の生命を失わせる結果になった事について、叉考えるのでありました。

昭和28年4月24日 少年文学研究会発行(江戸川区立小岩小学校内)より転載

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おしょうさん と つばめ(上)

父は若い時、童話作家だった。31歳の時の作品を、父と同じ少年童話研究会に入っていた叔父の遺品の中から、従兄弟が「これ、読んだことないでしょ」と持ってきてくれた。話には聞いていた作品だが、文字原稿を読んだのは初めてだった。短い作品なので、二回に分けてご紹介しようと思う。

〔童話〕  おしょうさん と つばめ (名取盛雄)

 本堂とくり(坊さんの住んでいる建物)をつないでいる渡り廊下の透明ガラスをふく仕事は、年とったおしょうさんの好きな仕事の一つでありました。

 そのわけは、そこからは中庭のぼたんのつぼみをかぞえることが出来たり、裏庭の柿の若葉にきてうたう小鳥の姿を見る事が出来るということもありますが、それよりも、ガラスをみがいていると、自分の心がみがかれるように思われるからでありました。

ぼたんの花がことしも見事に咲きだしました。

 朝。本堂でのお経をすませて、おしょうさんは、みがきすましたガラス窓をとおしてそれを眺めて

「わし一人で見るのはぼたんの花にすまぬようじゃな」

とつぶやきながら、くりの部屋に入ろうとした時でありました。おしょうさんは、ガラス戸をはげしく打つ音をきいて、思わずふり向きました。

 おしょうさんは、いそいで庭下駄をつっかけて、ぼたんの花の下に落ちている黒いものにかけよりました。

※写真はイメージです。

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必要なのにやらないこと

原稿を書き進めるのにどうしても「必要なのにやらないこと」と「不必要なのにやっていること」の具体例が必要になった。2分考えたが適当な具体例が思い浮かばないので、居間にいた長男に「必要なのにやらないことって、どんなことがある?」と聞いた。さすがである。すぐに「朝、起きないといけないから、早く寝る必要があるのに、ぜんぜん早く寝ないで遅くまで起きていること」と返答した。家内がその場にいれば「それって、自分のことでしょ」と突っ込むところがだ、不在だから言えない。もちろん、私は突っ込まない・・・というより、私のことでもあるからつっこめないのだ。ぐははは。世の中は、必要か不必要かで動いているわけではないという話である。

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勇気ある智恵

密教では、槍を起源とする仏具がたくさんある。多くは、自分の心の煩悩や悪心を退治するための智恵と勇気の象徴だ。今日の密蔵院の「写仏の庭」のお手本は、その勇気ある智恵を持つ、忿怒持(ふんぬじ)金剛(こんごう)菩薩。左手に三叉の槍が起源の三鈷(さんこ)を持っている。「悪いことをしたり、よからぬことを考えたり、つまらぬことでイジイジしている自分を忿り、怒って、立ちなおる」--そんなことを考えながら写したいと思う。

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納得の指摘を受ければ

いやはや、マンガの原作書きは面白い。一度書いたのだが、エージェントにかかると、素人が「なるほど、マンガはそうやって描かれていくのか」と納得する指摘をしてくれる。面白いから、こちらも書き直す。日常の業務の合間を縫って、一週間でどうにかリライトした。これで明日の「写仏の庭」に安心してのぞめる。「写仏の庭」--昼の部は午後1時~3時。夜の部は午後7時~9時。筆の穂先で仏さまとつながる二時間を過ごしてみませんか?※お手本はイメージです

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緑色以外禁止。

夕方に、秋の講演会の打ち合わせで秋葉原へ行った。待ち合わせ場所、鰻の老舗神田川までにスターウォーズのお店の看板があった。フォースに導かれて入ると、時代マスターのハンガーがあった。「緑色以外の服はかけてはならぬ」という注意書きがあった。帰宅して、迷わず着ていったモスグリーンのポロシャツをかけた。ぐははは。

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DV被害者救済募金、233,000円。ありがとうございました。

今日、47回目を迎えた『浪曲の庭』。当初から家庭内暴力の被害者救済のためのチャリティーボックスを玄関に置いてあります。前回から二年ほどたっった今回、三回目の寄付額は、233,000円。江戸川区に使用指定で寄付させていただきました。ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。結果は、6月10日づけの広報『えかとがわ』に掲載されています。つまらぬことに腹を立て暴力沙汰や、暴言に及ぶ自分をコントロールできない輩(やから)。いつまでその愚行をつづけるのか、いつ、心を穏やかにしたいという思いになるのか・・・そして、そんなダメンズを好きになってしまう自信なき心弱き女性たちよ。そんなみみっちい世界に住まなくても、世界はもともと、もっと素晴らしいぞ!とホント、言いたい--けど、限界があるから、こうして募金を集めて、被害者がとりあえず直面している危機に対応するのが精一杯です。

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明日21日 午後3時からは『浪曲の庭』です。

今日、あらためての告知は、明日の『浪曲の庭』、午後3時~4時30分。入場無料。プロの浪曲のわざをご堪能ください。入場無料。司会、進行は私、住職がつとめます。 このところ、我ながら常軌を逸した日々。違うことをやりつづけていますが、これも自業自得のなせるわざ。気づいたらこんな日程になっていたという具合。ぐははは。合間を縫って書いている原稿二本、今年のうちに書店で皆さまのお目にとれまれば幸いと存ずる所存。※イラストは志村立美画伯による「紺屋高尾」の名場面でございます。

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