『悟浄出世』-蒲衣子(ほいし)の巻-

 蒲衣子(ほいし)の庵室は、変わった道場です。わずか4、5人の弟子しかいませんが、全員自然の秘密の鍵の探究者、というより陶酔者たち。彼らの勤めるのは、ただ、自然を観て、しみじみとその美しい調和の中に透過することでした。
 
 ある弟子が悟浄に言います。
――まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗練することです。自然美の直接の感受から離れた思考などは、灰色の夢です。心を深く澄ませてごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧(あお)い氷、紅藻の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻類の光、オウムガイの螺旋、紫水晶の結晶、ざくろ石の紅、螢石の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。――彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようです。

 別の弟子が言います。
――それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消え去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。これも、私どもの感覚の鍛練が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師の言われるように『観ることが愛することであり、愛することが創造(つく)ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから――

 その間も、師の蒲衣子は、一言もしゃべらず、鮮やかな緑の孔雀石を手の上に載せて、深い歓びをたたえた穏やかな眼差しで、じっとそれを見つめています。
悟浄は、自分にとって場違いであると感じながらも、彼らの静かな幸福に惹かれて、一ヶ月ばかり滞在することになります。

 そして、悟浄がその庵を離れる4、5日前に不思議なことがおこります。が、それは次回にご紹介……。
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