『悟浄出世』-まちまちな賢人たちの巻-

 流紗河と紅水と黒水とか交わるあたりに庵を結んでいるという女禹(じょ・う)までの道のりは遠い。悟浄は、そこにたどり着く間の賢者という賢者に教えを乞おうと、水底を移動している。

「『我』とは何ですか?」
 この質問に対して、ある賢者はこう言った。
「先ず吠えてみろ。ブウと啼くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようならお前はガチョウじゃ」

 他の賢者はこう教えた。
「自己とはなんぞやとむりに言い表そうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難なことではない。眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮、我の知る能(あた)わざるものだ」

 別の賢者は説いた。
「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の、無限の時を通じて我といっていたものがあった。それは誰も今は意識していないが、それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が滅びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう」

 つぎのように言った男もあった。
「一つの継続した我とはなんだ?それは記憶の影の堆積だよ。記憶の喪失ということが、俺たちの毎日していることとの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなこが新しくかんじられるんだが、実は、あれは俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。――中略――それらのほんのわずか一分の、おぼろげな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」

 賢人たちの徳所はあまりにもまちまちで、悟浄はまったく何を信じていいやら解(わか)らなかった。

  ※  ※   ※

 さていよいよ、目指す女禹のもとへ。旅に出てから五年の歳月が流れています。次回は、この時点での悟浄の心の内をご紹介します。

 今日(5月19日)の密蔵院は、ご詠歌の先生たちの自主練習兼布教研修が10時~15時30分まで。私はその後、息子がお世話になっていた大学の父母会の総会に向けての役員会並びに歓送迎会で巣鴨⇒池袋。これで私もお役御免となります。
 明日は、アメリカCBSのドキュメンタリー映画の撮影が丸一日かけて本堂で行なわれます。出演者の自閉症のアーティスト二人とスタッフ10名。二人の質問に私が答えることになりますので、ブログの更新が一日送れるかもしれません。『悟浄出世』を楽しみにしている方、申し訳ございません。┏〇”┓。
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