「さしすせそ」と「ちゃちぃつぅちぇちょ」と納まり

 もともと右上の奥から三番目の歯がなく、ブリッジだった。
 そこへもってきて、昨日は奥の二本を抜いたから、さあ、たいへん。

 上顎の右は正面から五本しか歯がなくその奥は、空洞というありさま。

 昨日のお通夜でも、今日のお葬式でも、少しでも注意をおこたると、空気がドッと抜けて、「さ行」がすべて「ちゃ行」になって発音されるというキッカイさ。

 歯がそろっている内は、上下の歯の中にきれいに納まりつくしている舌が、だらしのないのもで、右奥の4センチの隙間からベロンと出ようとする。ここから舌のことをベロというようになった(嘘である)。

 枠組みがはずれると、だらしなくなるのはベロだけではあるまい。アメリカのナンチャラリークのニュースもしかり、私たちの人生もしかりである。

 枠組みがはずれても、だらしなくならないような心を形成しておきたいと思った。空(くう)に納まる、仏法に納まる、仏に納まる・・・。仏さまの着ぐるみを着てみるものいいかもしれぬ。
 舌足らずな文章ですみません。
 あ歯歯 歯歯   歯歯  歯。 

 明日は「写仏の庭」。13時ー15時。19時ー21日時でございます。
 お手本は倶利伽藍剣を持ったお不動さま。今年一年の煩悩を断ち切る所存であります。
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生活と人生(その2)

 作家遠藤周作さんが晩年たどり着いたひとつの人生論。私は年に何度も思い出す機会があります。
 昨日につづいて、の抜粋です。 

遠藤周作著『死について考える』(光文社)より

隠居という言葉が死後になりつつあって、定年とか、第二の人生とかいわれていますが、それは退却を転進といったのと似ているように思います。昔は隠居するということは次の世界を信じ、そこに向かう旅支度だったのです。隠居生活は今までの生活重点主義を捨てて人生を直視することだったのです。生活を中心にしていると本当の人生がぼやけてしまいます。隠居することによって、人生を考える。人生を考える上で最も大事なのは死の問題ですから、死を考えるということになるのです。生活の中にまぎれているのは、死を考えることを避けているように思えるのです。(147頁)

 生活の中に紛れているのは「死」だけではないでしょう。生きる意味などもその一つだと思います。そこを放っておくと、いざと言うときに、自暴自棄になったり、しょげかえらなくてはならなくなるような気がするのです。
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生活と人生(その1)

 夜、家内の高校時代の友人から電話があった。かなり深刻な問題のようで、2時間近く話していた。
 家内と同級生ということは、私とも同い年である。家内から、相談を概要を聞いて思うことがあった。
 拙著のどれかでもご紹介したが、ここであらためて、遠藤周作(こりあん先生)の「死について考える」(光文社)から、生活と人生についての記述を二回に分けてご紹介したいと思う。

遠藤周作著『死について考える』(光文社)より

人は生活から人生の次元にいつの間にか滑り込んでいくことがありますね。
 私は生活必ずしも人生ではない、と考えています。生活は私の考えでは自分の心の奥底にあるもの、自分の人生の核になっているものを無視、軽視していかなければ成立しないものです。生活は道徳、世間体、外づらを大事にしないと運びませんし、自分の心の奥底にかくしているものを露骨に見せるわけにはいきません。
 世間を乱さぬため、他人に悪口をいわれぬためには、我々は心の中におさえこんでおかねばならぬものがたくさんあります。そういう形で成立しているのが生活です。
 しかし、病気になり、あるいは孤独な老年になりますと、否でも応でも「本当の自分」と「死」との二つに体面せねばならないでしょう。……そういう意味で、病気や老年は人間にとって神さまが「自分の素顔をみてごらん」とおっしゃって鏡をわたしてくださったのだというような気がしてきてしまいます。(112頁)
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法話のcrossroad

「辻、四つ角の交差点」を英語でなんというのだろうと調べたら、思っていた単語がでてきたので、ちょっと一安心。昔覚えた英語はなかなか忘れないものだと思う。

 そう、明日は16時から一時間。二カ月に一度の、皆さんの人生と、仏教の交差点になればと思ってスタートした「法話の辻」。参加は自由です。終了後、茶(酒)話会が一時間あります。
 「これを聞いてみたかった」なんてことがあったら、どうぞ、お出かけください。

 さて、この一週間は、奥歯の痛みに右往左往。先週遊びに来た娘の年上の友達の看護婦さん。
 11人で宴会をやって、途中で私が薬を飲んだら
「和尚、何の薬?」
「歯が痛くてさ」
すると別の仲間が
「だってさっきからかなりお酒のんじゃってるしィ」
「あはは。いいんだ。お酒で麻痺はしてきたから」

すると件(くだん)の看護婦さんがアドバイスをしてくれた。

「和尚。歯はね、風邪とか下痢と違って、放っておいても治らないんだよ」

 言われて、初めて気がついた。なるほど、そうである。ぎゃははは。

 薬でどうにかごまかしていたが、明日は日曜、その後はお通夜、お葬式とつづくから、激痛に変化したらどうにもならぬ---そこで、無理やり診療時間を入れてもらって歯医者さんへ。

「ここまで様子を見てきて、この状態だから、月曜に体の状態が良かったらまずは一番奥を抜きましょう」
--状態が良かったら歯を抜くというのは、すぐに納得のいく言い方ではないが、歯をかみ合わせるたびにこう違和感があったのではたまったものではないから、ありがたい話である。

 いったい歯医者のなかった昔は人たちは、この痛みをどのように克服してきたのだろうか。お釈迦さまや弘法大師だって、きっと歯が痛かった時があったであろうに。
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はじめのいーーっぽ!

 とても忙しい日々が続いて、コメントをいただきながら、そのレスの書き込みもできない有り様・・・申し訳ねぇ。

 今日は今日とて、朝のメールチェックで、三笠書房から「心の大そうじ」の増刷、19刷7000部が決まりましたとのご報告。ありがたいことです。般若心経に何が書いてあるのかを知ろうとする方へのフォローとして、拙著がいくらかでもお役に立てばと、心底思います。

 そんな感慨にふけりながら、今日のお葬式へ。亡きIさんに、仏さまのお弟子、つまり私の仲間にしっかり成っていただいたつもりであります。
 戒名をもらって、この世での柵(しがらみ)を御破算に願いまして、新たな一歩のスタートでございます。
 故人と縁ある方々も、亡き人の生き方をそれぞれご自分の中に取り込んでの新たなスタートとなることでしょう。

 お葬式を終えて、昨年に続いての東洋大学で4コマの「ご詠歌の世界」のお話とお唱え。昼間仕事をしている学生さんたちですから、年末を控えてお忙しいのでしょう。12人の受講届けがでているものの、今日の出席者は5人。一人一人の目を見て話ができた90分。
 大学の入り口の長い坂には、ブルーを基調にした少々寒々しいクリスマスイルミネーション(写真)。
「学生は冷静に勉強せよ」とのメッセージを含んだ色なのかしらん。

 そんで帰宅してメールチェックをしたら、先月アルジャジーラ・イングリッシュの取材を受けた聲明ライブについて、コーディネーターのAさんからメール。
 取材趣旨は「こんなに物質的に豊かな日本に、こんなに自死者が多いのか」という特集番組のためでした。
 編集作業の中で、ライブハウスでお坊さんがお経のライブをやって、予防医学的に自死者をくい止めるという内容までは立ち入ることができなかったのでカットになってしまいゴメンナサイという内容。
 番組は日本ではユーチューブでしか見られませんが、よろしければご覧ください。
http://www.youtube.com/user/AlJazeeraEnglish#p/search/85/b4zoa1xJShU

 日々、「はじめのいーーーっポ」であります。
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土壇場の、昨日作ったお弁当の運命

一月前に奥さんが亡くなったご主人。
その方が亡くなった。
あの世で、同じ蓮の花の台(うてな)に生まれられたらいいと素朴に思う。

ところがそう呑気に想像しているだけではすまない。

お通夜やお葬式の話は一カ月前にしたばかり。加えて聞く方はほぼ同じ。

こういう状況で、今日何をお話ししようか・・・とギリギリまで考えていた。
衣をつけて、葬儀社の方が「そそろそろよろしいでしょうか」とドアを叩く。

もう考えるのは辞めた。一生懸命おがんでいる間に、きっと何かを思うに違いないと開きなおった。

最近は、三回に二回はそんな調子だ。下手な考え休むに似たりである。
昨日から準備していた話を今日しようとしたって、それは昨日作った弁当を今日食べるようなもので、なんの新鮮さもないのだ。

自分がその場で何を感じたか、それを素直に、喋ればいいというのは昨日も書いた。

明日は起きたら女房に「おはよう。今日もきれいだね」と言おうなんて考えている人の話はどうしたって不自然になるものだ。

その場に何を感じるか、そしてその言葉が人の心にスーッと入っていくか--は何をどう感じるかの訓練(修行)しかなない。毎日が修行だというのはそういうことである。

「悪い頭で考えたってダメ。感じる訓練をしなさい」と、敬愛する村上正行アナにアドバイスされたのは8年前。今は浄土にいる村上正行さんは「ニコッ」と笑っていてくれるだろうか。

 今日食べるお弁当は、今日作ったものにしたほうがいい。ぎゃははは。
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カフェ・クレームたぁ、驚いた

午前中から90分の講義を二つ。
お坊さんとして、何をどう話すかという内容だが、つまりは自分が一人の人間として、何を感じて、それをいかに自然に話すかということに他ならない。
講師などと言える者ではないが、自分でも苦労しているぶん、多少なりともアドバイスさせていただいた。
終えて夕方から、日比谷帝国ホテルで、友人の役職就任祝賀会。
あと一時間あるので会場近くのカフェで、こうしてお茶しながらブログ書き。
カフェオレを頼もうと思ったたら、洒落たお店だけあって、カフェクレームというのだそうだ。
人が何をしたわけでもない、自ずから然るべくそうなっている「自然」をジネンと読むようなものか……。
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「形容詞の過去形に〔です〕をつけるな」わはははははは。

 毎回しっかりしたコメントをしてくれる南無君(中学生)が、秋葉原へ来るついでに遊びにきてくれました。
 なんでも、中学ではメディア部に所属して、旅行記や、エッセイやらを書いているのだそうです。どうりで、コメントの文章がうまいわけです。

 さて、その南無君が部活の顧問の先生に言われた言葉が今日のタイトル。

「形容詞の過去形に〔です〕をつけるな」

 わははは。
「美味しかったです」
「綺麗だったです」
「楽しかったです」
 ぎゃはははは。

 なるほど、大人になればこうした文章はめったに書かないが、それがどういう文法構造なのかを指摘しろと言われても、上記の先生のような整然とした表現はできない。

 南無君との久しぶりの会話はとても楽しかったです。
 あはははは。いいじゃんか。「形容詞の過去形+です」わははは。
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メガネ屋さんや薬屋さんは、どうして○○堂が多いのか。

なに、何気なく道を歩いて気になったのです。

ひょっとしたら、昔は施薬院(薬局)などの施設もそなえていたお寺からの名残ではないかと思ったのです。

辞書によると、[接尾辞]として「屋号・雅号、または建物の名などにつけて用いる」とありますから、私のハヤトチリ。ぎゃははは。

大辞林の「解字」よると、
「尚は、窓から空気が高くたちのぼるさまを示し、広く高く広がる意を含む。堂は「土+尚」で、広く高い土台のこと。転じて、広い高い土上に建てた表御殿。

面白いので「尚」を調べ たら、これが「向(まど)+八(わかれる)」で、空気抜きの窓から空気が上にたちあがって分散することを示すとある。わぁーー。

つまり
堂=向+八+土
なのだ。驚いた。
写真にメガネなんか使うんじゃなく、民家の煙抜きの穴から煙が出ているものにすれば良かった。わははは。
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かごめかごめ…

童謡の「かごめかごめ」は不気味な歌だと知ったのは、高校時代にイギリスのマザーグースを知った時と同じ頃だった。
それと同じようなキテレツなことが起きている。
今日は茨城県の古河で講習会だったのだが、行く電車と帰る電車が若干違うのだ。
自分が何線に乗っているのかわからぬまま、キツネにつままれたような具合で、それでもどうにか帰宅できそうである。
うははははは。 この文章、ツイッターなら面白かろうに。何と言っても今、帰りの秋葉原で、これを書いているからである。
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