代表役員と住職と僧侶

 多くのお寺は、宗教法人です。
 法人なので、代表役員がいます。だいたいが住職が務めています。
 法人としての運営の(会計面も含めた)責任者です。

 だいたいのお寺には住職がいます。
 住職はお寺での活動の責任者です。

 住職は僧侶です。
 僧侶はなるべく守るものがないほうが自由な発想や
 活動ができます。

 守るべきものをない方がいい僧侶が、一つのお寺を守る責任がある住職をして、
 宗教者として純粋に拝み、人生の生き方を模索すれば良い僧侶が、代表役員として会計年度の処理をする……

 こんなことに、まだ自己矛盾を抱え、「こだわってるんだわなあ」と思いつつ
 過ごす年度の最終日。わははは。
 
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春の息吹

息吹…「イブキ」というのは私の好きなことばの一つ。

 午前中に、「動物霊がついていると言われたのですが」という長崎出身の青年のお話を聞いて、「私には見えないし、憑いているかもわからないけど、拝むお経も方法も伝わっているからやってみよう」といつものように解説付きのお経と作法。
 やるだけやってみる!これでだいたい解決しているようですから、やはり昔からつたわっている方法は、現代人の私などには計り知れない効果があるのだろうと……思う訳です。

 午後は、密蔵院フリーク(ここを説明すると長くなりますので割愛)のウェブデザイナーのコウちゃんと、インテリアデザイナー(建築士?)のイクちゃんが、代々木公園でお花見披露宴をやるというので、初めて代々木公園の二部咲きの桜の下へ。コウちゃんこと、コウイチ君は昨年千葉の山の中で「九月の花」というイベントで「聲明やってくれませんか」と声をかけてくれた3年来の若い友人。4月から就職するので、1カ月間イクちゃんと二人で、南米を旅行して3週間前に帰ってきました(つまりは婚前旅行だとは二人の弁)。
 私は夕方に都内でちょっとした集まりがあるので、「聲明ライブ」を手伝ってもらっている二人組「まつる」のうち松君(このへんは皆仲間です)と16時に早引けして原宿駅まで。原宿駅で、松君の奥さんとお子さんと合流して、座間まで帰る松谷家の面々とは地下鉄の駅でお別れ。

 娘が今日のお昼にカンボジアのスタディツテアーから帰国している筈なので、4日前に修行から帰ってきた長男も揃って、今日は2年ぶりに家族全員がそろう晩でした。
 春のイブのの中で、みんなそれぞれ、やりたいこと、やるべきことを、しっかりやっている(やれている)というのは、これって、心の安心感の土台だなあ……とヒシヒシと感じる一日でした。

 誰のせいにもできねぇぞ!
「あなた、どうする?」が仏教の基本です。

 写真は、長男の衣と念珠、そして中啓(ちゅうけい、開かない扇子です)。きれいに置いておく習慣は修行で身についた?
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全身全霊とはこのことか

 ご詠歌を専門に習っている若手のお坊さんの進級検定と卒業検定…一人3曲を唱えてもらいました。28名のそれぞれのお唱えを耳をそばだて、目を皿のようにして拝見。
 一生懸命練習した成果を一分(いちぶ)も聞き漏らすまいとしていたからでしょうか、とにかく帰坊してグッタリ。両日とも午後10時には起きていられませんでした。
 なーに、きっと体力低下でしょう。今日から毎晩1時間程度のウォーキングをしようと思います。夜の町を散歩して何が見つかります手か、何を感じますか、これまた全身全霊で(少々力み過ぎかもしれませんが)楽しみです。

 そして、また今日は返ってきた長男と一緒に法事をやらせていただきました。若さ溢れるお経の声に、法悦を感じた一時間でした。

 写真は五色のお墓参り用のお線香を、お線香付け器に並べたところ。
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一人の小さな手…

 歌で仏教の教え知る……その伝統的な方法の一つにご詠歌があります。
 いちおう私もそのご詠歌を、27歳から47歳までは月に平均18回、今は少なくなって月に13回お伝えしています。
 そのご詠歌の仲間(先生たち)が毎年15名くらい増えています。
 今日はその仲間の二年間の集大成をかざる検定試験でした。
 
 けど……魔物は住んでいた……。
 ニコリとも笑わぬ6人の検定員を前にして、緊張の極致に達して、直前の練習までできていた筈の♪も真白分からなかったでしょう。
 でも、こうした経験をした一人一人のお坊さんたちが、多くの方々に仏教の教えをお伝えし、「ああ、世の中なんてつまらない」と思わないような生き方をしてもらりたらいいと思います。一人のお坊さんの活動が広がっていけば嬉しいです。そのお手伝いができることも嬉しい限りです。
 こんな色とりどりの社会、そして世界に、生んでもらっただけで幸せ……そんな自己存在の原点に、多くの方が時により,事により戻れるといいですね。

 明日は、ご詠歌の研修をとりあえず一年終えた仲間の進級試験の試験官です。
 
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本当に世界中捜しても無いのか

 今日は『聲明ライブ』でした。
 アメリカのCBSの取材と、アメリカ発のウェブの取材の二本だて。
 CBSの記者の方は「バーでこういうことをしているのは、多分世界中捜してもあなたたちだけだと思いますが、どうしてこんなところでこういうことを始めたんですか?』
 事情は色々ありますが、聲明も讃美歌も聖歌も、宗教が音楽(歌)の持つ力を上手に引き出した一つの到達点という気がします。
 そして、これらの音楽と庶民の音楽とが反応し合って、今の多様な音楽文化をつくりあげているのだと思います。
 祈りの歌……普通の言葉では通じない深く敬虔な気持ちも、歌の力で外に向けてあらわすことができる……古(いにしえ)からの人々の情念のたまものでしょう。
 難解で真面目で神聖だと思われている仏教も、こうした情念と密接に繋がっています。
 仏教にとっかかる一つのキッカケになっていただければ幸いです。

 拝めば、祈れば、どこでも道場。そんなツモリでやらせていただいています。
 5分ほど前に一緒に聲明をやっていただいた流山E寺のMさん、三田M院のIさんと帰坊して、家内と一緒にお茶して解散…。
 大勢の方々にお越しいただき、ありがとうございました。
 次回は4月9日(木)です。
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京都は人も花盛り

 長男の終了式を見届けて、昨日は二人で京都泊まり。
 一夜明けて、長男は先人たちが修行した醍醐寺へお参りしてから帰京したいといい、私は夜、金町でご詠歌があるので、お昼まで京都で過ごして、新幹線車中の人になりました。
 それにしても、京都はすごい観光客の数でした。多くがお寺巡りをされるのでしょうが、お寺や神社のたたずまい、歴史、仏像群……たぶん多くのお寺では実際のお坊さんの姿を見ることもないでしょうけど、まあ、そのくらいのユルさだからこそ、宗教というアレルギーを刺激しないのかもしれません。
 観光寺(かんこうでら)とバカにすることなかれ……この時期京都へ行くとそんな思いがしてきます。
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『お世話になりました』とご挨拶

 大学を卒業して二年間本山で修行していた長男の研修終了式が明日。
 午前9時からというから、今日現地いりしないと間に合わない。
 24歳にもなる大(だい)の大人の終了式に親が参上するのは、普通に考えれば親馬鹿だが、弟子の教育を二年もさせてやらった本山の仏さまたちや、職員、同級生へのお礼の挨拶に行くのは、こりゃ当たり前の事だと思うので、いざ出発である。
 風で新幹線が止まっていなければいいと思うが、まあそうなればそうったで、いい経験ができるという寸法である。

 写真は密蔵院玄関前の石の十一面観世音菩薩。本山の本尊さまも同じ仏さま。でも本山の仏さまは、木造で身長は12メートルである。大和長谷寺…いいお寺だ。http://www.hasedera.or.jp/index.html
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No,thank youは死語だろうか

 昭和33年生まれの私の世代は、ノーサンキューという言葉を自然に使っていたものだ。
 何かを断わるにも(『大辞林』では[いいえ、結構ですの意]とある)その後に、「あなたに感謝します」という「サンキュー」をつける英語の心の豊かさに感激した覚えがある。

 それがいつの間にか「いいえ、結構です。ありがとう」と日本語で言うようになった。逆に「ノー・サンキュー」を使うのは「そういう申し出は、こっちから遠慮するよ」という意で、ひどくカル~イ表現になってしまったような気がする。
「ああそれ?それはノーサンキューだ」という具合である。

 いづれにしろ、何かの申し出をしてもらっって断わる場合には「(お申し出いただき)でも、ありがとうございます」と加えたいものだ…と思った。

 今日の話は、昨日高校の友人とメールをしていて、つい「ノーサンキュー」と書き、「待てよ、イマドキごき表現は変だな…」と思った--そんなことがキッカケになっている。

 写真は宮崎駿監督作品『天空の城、ラピュタ』に登場するロボットの一輪挿し。子供を膝の上に座らせて見入っていた思い出深い作品である。
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彼岸の場合、「なかび」ではなく「ちゅうにち」だと思う

 全国的にはどうだろうか、お彼岸の中日はナカビと読むかチュウニチと読むかと言えば、たぶんチュウニチに軍配があがるのではないだろうか。

 大辞林によると【ナカビ】は、[特に芝居や相撲の興行の期間の真ん中にあたる日]とある。
 【チュウニチ】だと二番目の意味に、[仏教でお彼岸の真ん中、四日目のこと]とあるからやはりそうなのでろう。

 こういう言葉は、子供の頃から大人の会話を聞いてれば、どうとういうことはなく使える言葉になる。

 で、今日は中日でありながら、、三連休初日(ショニチ、あははは)である。

 お参りの方々は一週間にバラけて、分散型のこの春彼岸だが、それでも今日は20名くらいの方々が念珠作りに挑戦。どれも見事な出来ばえでした。

 仏教のテーマパークを目指す(私の代だけかもしれないが)密蔵院は、まだまだ未完成。皆さんの力があって初めてそうなります。

 写真は「はいポーズ」の代わりに、坊主が撮るのだから「はい、ボーズ」と言って撮ったのに、だれも笑ってくれなかった写真。

 念珠作りは期間を一日伸ばして、明日までです。
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あるようでない、ないようである…本尊さまを拝む

 毎朝仏壇で手を合わせる方は多い。お経を唱える方も相当な数にのぼるだろう。

 そして、密蔵院では今日は「読経の広場(庭だったっけかな?)」。

 今日は、参加者二十五名の方々は、仏さま(亡き人ではない。密蔵院にあってはお不動さまのこと)を純粋に拝む日だ。

 祖先崇拝の思いが強い日本にあって、多くの方々にとって、純粋に仏さまを拝むことは稀だろうと思う。

 私にとって、「読経の広場」は、ご法事では当たり前の「ご先祖のおかげ」ではなく、「先祖のおかげ」から引っ張らずともできる、「自分の生き方としての仏教の考え方」をお伝えできる場である。

 おそらくこのブログをお読みいただいている方々は、この場で坊さんんの「ご先祖のおかげ」について読みたいと思っていないだろうと、勝手に思っている。それは菩提寺でたくさん聞いているだろう。

 もとより、悩んでいうよと、苦しんでいようと、朗らかであろうと、前向きであろうが、「今の自分」を考える時、先祖は直接、自己存在をあらしめた原因だから、忘れるわけにはいかない。それを踏まえて、自分がどう生きていくのか…その手引きになるのが仏教だと思う。

 お彼岸は、お墓参りをして先祖への感謝を表し、自らの生き方をチェクする……「先祖のおかげ」の更に先へつなげていく、そんな仏教修養ウィークだ。 
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