民謡研究家の竹内ツトムさんは、こう言っていた。
ゆっくりというのは、早くできる人が余裕をもってやること。
おそいというのは、早く出来ない人が精一杯やること。
竹内さんは「三味線」の弾き方について上記のようなことを仰っていた。
しかし、これは多くのことに当てはまる。
昨日るち続いて、ご詠歌研修所の、進級検定(15人)の審査員。
ご詠歌を始めてから一年の成果を聞かせていただいた。よかったと安心した。私のほうが上手である。
私は「ゆっくり」ご詠歌を唱えられるが、彼らはまだ「遅くしか」ご詠歌を唱えられなかったからである。
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今日は27日である。
今月はあと2日しかない(普通ならあと1日なのだろうが閏年だから2日あるのだ)。
ありゃりゃ、今月は短いのだなと思う。何も考えていないで今月を過ごしたので予定が変になってしまった。つまり「3月になったらやります」と言っていたのは具体的にはこの土曜日からということになる。私はてっきり来週に入ってからのことだと思い込んでいたのだ。
今日は夕飯で美味しいレストランへ連れていってもらった。埼玉県杉戸出身のノブさんが世界に展開しているお店の日本店「ノブトウキョウ」だ。虎ノ門にある。
舌鼓を打った。これは「シタツヅミ」であって、「シタヅツミ」ではない。それはまるで「雰囲気」を「フイインキ」ではなく「フンイキ」と読むようなものである。
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きっと、スキャンを使えば綺麗にできるのだろうと思う。
しかし、私には縮小コピーをして一字一字切り貼りするしか術(すべ)はない。
ということで、机の上を細かい紙片で散らかして、つくり揚げた、弘法大師空海上人の直筆から集めた般若心経。
もともとの本はあるものの、私が使っている写経用紙に合わないので、こんな苦労をすることになるのだ。
このように、手間はかかっても、一度作っておけば、さまざまな場所で使えるものは、やはり作っておかねばならないのです。
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「私たちの時代と違いますからねぇ」
--こんな諦めの言葉を良く聞く。
これではな~んにも始まらないではないかといつも思う。
時代が違おうが違うまいが、人として大切なものを、「時代が違いますから」と仰る方々は、自分の後ろ姿で、しっかりお伝えくだせぇ。
今日の浪曲の会、おかげさまで満員御礼でありました。┏〇"┓。
皆さんがお帰りになる時に、浪曲で扱う人情話をして「人間の品格ですね」と評した方がいた。全くだと思う。
こういう時には、こうするのが、人としてのつとめだ……浪曲はそのテキストだとつくづく思う。
次回は4月21日(月)であります。
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今年も始まりました。密蔵院浪曲の会。
明日、25日(月)。午後1時開演。
入場 無料
出演 あづまりえ
富士路子
港家小柳
東家三楽
曲師 伊丹 明
渡辺京子
4席、た~~ぷりお楽しみください。
既に会場の準備が整いまして、皆さまのお越しをお待ち申し上げまする。
敬白 住職芳彦
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とあるホールでご詠歌の大会があった。ステージ上に薄い赤い毛氈(もうせん)が敷かれている。
ある団体がスポットライトを浴びて日ごろの成果を披露した。
ところが、唱えおえて立ちあがった時に一人の方の足もとの毛氈がめくれてしまったのだ。
あわてた彼女は足でそれをなおした。講評役の先生は思わずマイクで言った。
「ご詠歌も器用にうまくお唱えになりましたが、足も器用な方がいるんですね」
場内に笑いごえがひびいた。
それから二年の月日がながれた。
件(くだん)の団体の先生は、昨日、今年も同じ講評役の先生に言った。
「あの時の事があるので、あの人は『今年のご詠歌大会の舞台では前列には座らない』と言っているんですよ」
「へぇ、そうなんですか。会場を和(なご)やかなムードにしてくれたのに、勿体ないですね。それなら、今回はお唱えが終わった時に『あの足の器用な方は、今回はどちらにいらっしゃいますか?』とマイクで言いましょう」
もちろん、講評役は私です。ぐははは。
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ものごと、CDを焼いたり、DVDを焼いたりした時には、ファイナライズという作業をしないと、他の機械では読み取れないのだそうだ。ファイナル(最後)にやる作業だらかファイナライズというのだなと、今日初めて納得した。実に面倒だ。
まあ、面倒でも自分の人生もいつかファイナライズしなければならないわけで、これも一つの人生修行の予行訓練か……。
ちなみに辞書で調べてみると
【finalize】
《正式》(性格・取り決めなど)を完結させる、仕上げる、…に決着をつける《completeが普通》--とある。
変である。うちのCDを約機械は、「fanalize」選択して作業が終わると「complete」と表示される。「正式」と「普通」がごちゃ混ぜだ。
私の臨終の時、心電図の波形がまっすぐになったら[complete!」と表示する心電図と脳波計にしてもらおうかと思う。
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お年寄りが黙っていられない理由は、自分が経験して、隅々のことまで熟知しているため、特に準備段階で、他の誰かがある所を見逃している場合、「黙っていられない」ということらしい。後でどうなるか分かっているからである。
それを黙っているのは、かなり大変だろうと思う。
「嫌われたくないから」黙っているのか。
「失敗したほうがその人の勉強になるから」黙っているのか。
そして、つい言ってしまうのは、
「自分を偉くみせたいから」言うのか、
「その人のためを思って」言うのか。
解答もなければ、正解もない。その場その場で「黙(もく)すべき場合」もあれば「言うべき場合」もあるだろう。
しかし、「嫌われたくないから」黙り、「自分を偉く見せたいから」言うというのでは、心の健全育成から言って、好ましいは言えまい。
今日の私はどうだっただろうか……。
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「ヤドカリの大きさは、背負っている貝の大きさではありません」
の言葉用に四苦八苦して描きあげし、その名も「貝殻地蔵」とはオイラおことでぇ。
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昨日に引き続きニューキャラであります。
数年前から、お風呂に身を浸すとどうして「極楽、極楽」と言ってしまうのだろうと思っていました。
私は真言宗のお坊さんなので、真言宗の本尊さまの大日如来の浄土である「密厳密厳」と言ってもいいようなものだが……と頑(かたくな)だったのです(「極楽」は阿弥陀さまの浄土ですから)。
しかし、この絵を描いてわかりました。
お風呂に入るような気持良さは「極楽浄土」にいるような気持ち良さに違いない。
他にもいろいろな気持ち良さがあって、それぞれに「××浄土だ」と感じられればいいわけです。
風邪が治った爽快感は、お薬師さまの浄土で「ああ、瑠璃光浄土、瑠璃光浄土じゃ」ってなもん。
心が優しくなれた気持よさは、観音さまの浄土で「ああ、フダラク浄土、普陀落浄土だわい」という具合です。
では「ああ密厳浄土、密厳浄土だあ」と言う時は、どんな時かって?
きっと心の眼(まなこ)が開いて、曇り無く全てのものが見渡せて、そのままで素晴らしい!と思えた時でしょう。そんな気持になるのは、今のところ年に数分ですが……。
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