まずは、お経を…のわけ。

 密蔵院で二カ月に一度やっている「浪曲の広場」のご縁を作ってくれた檀家さんが亡くなったとの知らせがあったのは夕べの22時過ぎこと。
 さすがに看病でお疲れだろうと思い、夕べは遠慮して今日お昼前に、通称「枕経(まくらぎょう)」をあげに、ご自宅へ伺った。

 20年ほど前になるだろう。お孫さんが亡くなった家から電話があって、深夜23時をまわったころに枕経に伺ったことがある。
「この子を、何もしないで、そのまま寝かせておくのは落ち着かないんです。せめて、早くお経をあげてやってくれませんか」--おばあちゃんのそんな声に応えたものだった。
 それまで、依頼されない限り伺わなかった(私が育った寺では「枕経」の習慣は無かったので、そういうものだと思っていたのだ)のだが、それからは時間と距離さえ都合がつけば、できる限り枕経に伺うようにしている。

 生存という状態から、死という異常な状態に変化した事態を、何とも思わない遺族もいるだろう。それは亡き人当人も同じことだと思う。

 しかし、上記のおばあちゃんの「おちつかない」は、亡くなったお孫さんの魂が落ち着かないし、残された遺族の心もおちつかない、という意味だと思う。
 その双方を落ち着かせるために、亡くなって間もない時に、仏の教えを枕辺で唱えるという習慣が残されている。

 お坊さんに拝んでもらうにこしたことはないが、近所の人でも、親戚の人でも、お経が読める人がいたら、まず読んでもらうといい。たどたどしくても、お経の功徳に変わりはないから大丈夫。

 譬(たと)えが適切でないかもしれないが、
--旅行初日に家から出発して、アチコチ観光して、夕方宿に入って、仲居さんが部屋でお茶を出してくれる。「ああ、やっと落ち着いた…」と言葉がでる--

 枕経は、亡き人にとって、遺族にとって、「旅先の宿に入って、最初に出されるお茶」と似ているかもしれない。
コメント ( 9 ) | Trackback ( 0 )