『悟浄出世』-卑下感消失の巻-
悟浄は女兎のもとに滞在している間に……
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福をさがしていたのだということが、悟浄に解りかけてきた。
自分は、そんな世界の意味を云々するほどたいした生き物ではないことを、彼は、卑下感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。
そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気がでてきた。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、失敗への危惧から努力を放棄していた彼が、骨折り損を厭(いと)わないところにまで昇華されてきたのである。
※ ※ ※
この部分は、人生哲学や宗教で頭でっかちになっている人が、笑顔で生きていくために、おそらく、くぐるであろう門の前後のことを、その心理を、見事に表現していると思う。私にとっては10年ほど前のことになるだろうか。否、まだまだ潜らねばならない門が、この先、まだまだありそうだ(悟浄がこの後、三蔵法師たちと長い天竺への旅にでるように)。
しかし、どのみち、こうした心理は、門を潜ってしまってから、うしろをふりかえってからでないとわからぬ。
だから、まだ潜ってもいないし、見えてもいないその門のことを考えても仕方がない。楽しみに待ちつつ、日々を前向きに、暮らしていこうではないか、と誰かに言いたいなあ。あはははは。
※ ※ ※
さて、『悟浄出世』はいよいよ大詰めでございます。運命的な出会いが彼を待ちますが、そこまで筆者、中島敦はどうストーリーを持っていくか。次回をお楽しみに。
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福をさがしていたのだということが、悟浄に解りかけてきた。
自分は、そんな世界の意味を云々するほどたいした生き物ではないことを、彼は、卑下感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。
そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気がでてきた。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、失敗への危惧から努力を放棄していた彼が、骨折り損を厭(いと)わないところにまで昇華されてきたのである。
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この部分は、人生哲学や宗教で頭でっかちになっている人が、笑顔で生きていくために、おそらく、くぐるであろう門の前後のことを、その心理を、見事に表現していると思う。私にとっては10年ほど前のことになるだろうか。否、まだまだ潜らねばならない門が、この先、まだまだありそうだ(悟浄がこの後、三蔵法師たちと長い天竺への旅にでるように)。
しかし、どのみち、こうした心理は、門を潜ってしまってから、うしろをふりかえってからでないとわからぬ。
だから、まだ潜ってもいないし、見えてもいないその門のことを考えても仕方がない。楽しみに待ちつつ、日々を前向きに、暮らしていこうではないか、と誰かに言いたいなあ。あはははは。
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さて、『悟浄出世』はいよいよ大詰めでございます。運命的な出会いが彼を待ちますが、そこまで筆者、中島敦はどうストーリーを持っていくか。次回をお楽しみに。
子供の頃から、学校の先生によく言われたのが「心のものさし」のこと。自分のものさしを広げれば広げるほど心が豊かになる。とか教えられてきました。でも、ここ数年私は逆に心のものさしなるものを消し去ることにしました。ものさしがあるから、はみ出せば不安になり足りなければイラつく。自分の大きさ小ささに気がついた時、肩の力が抜け、あるがまま素直に受け止められるようになったと思います。悟浄さんに親しみを覚えます。
ものごとを計らない。だって計れないから。
バンザイであります。
自分が自刎の価値観の中に生きていながら、他を計る価値観をけしさることは容易ではありますまい。しかし、やってみるだけのことはあります。
ご一緒に、やってみましょうか。うははは。