コメント
 
 
 
的までの距離はどれくらいでした? (自閑)
2016-03-31 08:18:49
sakura様
いよいよ那須与一の場面ですね。
それにしても、的の前に立った玉虫の前と言う女性は凄い勇気が有りますね。
此女房と云は、建礼門院の后立の御時、千人の中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。今年十九にぞ成ける。
万が一的を外していたらと考えると足がすくみます。
丁度今は旧暦の二月廿日頃。それまであたためておられたのでは?と思う次第です。
拙句
春の海扇ながるゝのたりのたり
 
 
 
そうではありません。 (sakura)
2016-03-31 08:55:24
面倒な記事を後回しにしていただけなのです。
的までの距離は「遠干なれば馬の太腹ひたるほどに
うち入るれば、いま七、八段ばかりと見えたり。」
中世では、一段は九尺(2・7メートル)のことだそうですから、
「七、八段」は、約二十メートルということになります。

覚一本系の「平家物語」には、海へ六間ばかり乗り入れたが、
扇との間は、約四十間(約72メートル)とありますが、
参考資料には、常識的に考えてこの距離は遠すぎると書かれています。

的の前に立った玉虫の前、本当に勇気がありますね。
 
 
 
とても具体的な表示ですね。 (yukariko)
2016-04-03 13:10:23
想像力があまりないyukarikoなどは駒立岩だけだと現在は海岸でさえなくなっていてその昔の合戦の浜を想像できないですが、扇を開いた竿と女房のパネルが向こう側に置かれていれば、よく分かります。

多くの人がロードを訪ね歩いて合戦を追体験してきて、物語の山場の場面に出会う時、とても親切ですね(笑)
いのり岩の文字は松平頼重の家臣が書いた…その時代から丁寧に保存されてきたのですか。

那須与一も玉虫の前もあれこれ考えてばかりいる現代人と違い、命じられたら行動あるのみ、その後などを先に考えない人達なのかも。
 
 
 
源平盛衰記 (sakura)
2016-04-04 09:18:51
屋島は近世の埋立てにより、半島状の陸続きとなり、
相引川がその面影を残しているだけです。
祈り岩も一段低い場所、その上、下部が地中に埋まっていますが保存されています。

「源平盛衰記」には、扇の的の射手に最初は畠山重忠が指名されましたが、
脚気を理由に辞退、義経はついで与一の兄に命じましたが、
一の谷の逆落しの時、弓手の肘をついたので、まだ灸をすえている状態である。
といって断り、与一を推薦したと記されています。

また、盛衰記には扇の竿を立てた女房は入りにけり。とあり、
屋形船の中に入ったとあります。どちらが真実かわかりませんが、
源平合戦図屏風は扇の背後に女房が描かれています。

この屏風は、実際の合戦から400年以上経て制作されたもので、
史実を正確に伝えるものではありませんが、
文章を読むより視覚的でわかりやすいですね。
 
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