コメント
 
 
 
地元の人には今も物語が生きているように感じられるでしょうね。 (yukariko)
2016-04-06 23:15:22
最近は若い人は知らない人が多くなりましたが、赤穂浪士の討ち入りまでの細かい話を芝居や映画で皆が知っていて、有名な台詞は日常でも使われたように、この地域の人にとっては「源平盛衰記」などの有名な部分はきっとお馴染みのお話なのでしょうね。

歴史が根付いて今もそこかしこに生きている場所があるのだと思うと、とても素晴らしい事だと思います。
お遍路に廻られる人もこの話を読み聞いて、故郷への土産話にされるでしょうしね。
 
 
 
そうですね! (sakura)
2016-04-07 09:22:58
屋島合戦の史跡は、ほとんどが高松市の東側、牟礼町にあります。
この地域は、今は埋め立てられほとんど宅地となっていますが、
至るところに源平の史跡や説明板がたっています。
日々それを目のあたりにしている人々には、
この合戦の逸話は、暮らしの中に溶け込んでいるお話でしょう。
また、牟礼の人々は「石と源平の町 牟礼」というサイトで、
源平の史跡を紹介されています。

現在、四国遍路の巡礼は、大半が観光バスで回るツァーなので、
遍路道を歩くお遍路さんは少ないと思いますが、屋島寺や洲崎寺には、
平家物語絵巻を模写したパネルや説明板が展示されていますから、
この物語でよく知られる逸話を思い起こされると思います。
 
 
 
錣がやはり読めませんでした。 (自閑)
2016-04-11 20:25:21
sakura様
ソメイヨシノが散り、次は八重桜ですね。
次の桜を探して、大原野まで行って参りました。
景清は、後鳥羽院の侍の話に出てくる景清の解説に、もう一人居るのは知っていましたが、錣を引きちぎるほどの怪力の者で平家物語に出てくるとは始めて知りました。坂東武者に比べ、平家方は舞う老武者のように貴族化されたイメージが強く、こう言う猛者も実際には多かったのかも知れません。
この屋島の合戦blogを読み、源平盛衰記の該当部分を読み勉強してみました。灌頂巻しか知りませんでしたので、どんどん知識が広まります。武具専門用語も。
拙句
舞ふ平家射る源氏にもはるのかぜ
 
 
 
錣という字は難しいですね。 (sakura)
2016-04-12 14:56:07
街路樹の桜が散り、家の前も桜の絨毯です。
大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ

お書き下さった「後鳥羽院の侍の話に出てくる」という景清は知りません。
機会があれば教えてください。

「源平盛衰記」には、なぜ平家が扇を立てたかとか、
この扇の謂れについても記していますね。

平家の景清は能で知り、鎌倉・名古屋・京都などと
その史跡をたずねたことがあります。
古い写真ばかりですが、また見てやってください。


 
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