コメント
 
 
 
重衡、経正の歌と言うことは (自閑)
2016-02-14 18:11:08
sakura様
重衡、経正の歌が残されていると言うことは、一ノ谷合戦前、紅葉と有ることから、寿永2年秋、太宰府を追われた直後となりますね。
屋島に着いて一安心と言う心情が表れています。
ここから和田浦へ向かい、そして戦死、捕縛されてしまったと言うことですね。
拙句
六万の今年ももみぢ染めにけり
 
 
 
六万寺とは大きなお寺だったのですね。 (Unknown)
2016-02-14 23:14:23
天皇の行在所を始め平氏一門が暮らせるほどだったとは。そして生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った徳子の小祠や「安徳天皇生母徳子之碑」とは彼女を含めて平家一門を祭るのでしょうか?
安徳天皇慰霊祭を今もなお行われているとは。
壇ノ浦・赤間神宮で5月の最初の頃に先帝安徳天皇を祀るお祭りがあるからそちらだけかと思っていました。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-02-15 14:49:56
そうですね。
『源平盛衰記・平氏屋島に着く事』は、「昔は九重の内にして
金谷(きんごく)の春の花を翫び給ひしに、今は屋島の磯にて
寿永の秋の月を詠め給ふ。」と綴っています。
屋島に落ち着きほっとしたひと時、詩歌の宴もあったのでしょう。

一の谷で敗れた平家の公達、重衡は須磨で捕えられた後、
木津川のほとりで斬られ、経正は『源平盛衰記』によると、
明石の大蔵谷で自刃したのでしたね。

六萬寺には重衡、忠度、教盛、経盛他、平家一門の和歌を書きつけた
柱が戦国時代まで残っていたと史跡ガイドブックで読んだことがあるので、
六万寺に問い合わせたところ、伝承なので確かなことは分からないが、
寺にもこの言い伝えがあるとのお返事をいただきました。
それから重衡、経誦坊 祐円、経政の歌は直筆ではないとのことです。
他にも、六萬寺で詠んだ歌ではないのですが、
重衡と経政の直筆の歌(短冊と色紙)が寺には残っているそうです。


 
 
 
yukarikoさま (sakura)
2016-02-15 15:03:17
赤間神宮の先帝祭は有名ですね。
あまり知られていませんが、高松でも行われているのです。

長曾我部元親の八栗城攻めの戦火で六万寺の記録は
ほとんどが失われてしまいましたが、この地域に残る
六萬寺の旧伽藍にちなむ地名などから推測すると、
当寺の寺領は広大だったようです。
一門の住いもその寺域の中にあったと思われます。

祠は安徳天皇と生母建礼門院徳子を祀るものです。
記事に書き加えさせていただきました。
 
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