五剣山の西の麓の小さな入江を船かくしとよびます。
平家が敵に見えないように船を停泊させていたというのがその名の謂れです。
また、平氏の猛将能登守教経にちなんで能登守の船隠しともいいます。
九州を追われ屋島に落ち着いた平家は、源氏軍が海上から攻め寄せると予想し、
庵治浦の島陰に兵船を隠していました。敵がこの入江に進入してきたら、
周囲から取り囲むつもりです。当時、屋島は瀬戸内海のひとつの島で、
流されてきた土砂が堆積して洲ができ、檀ノ浦の入江には大船が通れませんでしたから、
ここに水軍の本隊を置いていたのです。
牟礼町から県道36号線を北の庵治半島に向かうと、
「舟かくし」バス停の傍に説明板がたっています。
バス停から海岸に下りると平家船かくしがあります。
船かくしは庵治湾にいくつもあり、ここはそのひとつとされています。
一の谷合戦・水島合戦・藤戸合戦などの際にも、この船溜まりで船団を整えて出陣し、
水軍の根拠地として、源平合戦以降も室町・戦国期へと続く歴史があります。
船かくしの西の屋島に向いた小さな浦を「平家の米はかり」と称し、
平家の米倉があったといわれています。
遠くに屋根のような形をした屋島が見えます。
庵治半島の北部に位置する庵治町は、現在、特産の庵治石の切出しとともに、
海と島を中心とした観光の町で、海水浴場や温泉など多くの観光客や釣り客を集めています。
今日も一日戦い暮らし、疲れ果て兜を枕とし、あるいは鎧の片袖を敷いて眠る源氏勢。
屋島での合戦も勝利のうちに終えることができた源氏の兵たちは、日が暮れて
宇龍ヶ丘(瓜生が丘)の野山に陣をとりました。摂津渡辺の津を出航して以来、この三日間、
一睡もしてなかったので皆、死んだように眠りました。そのなかで、義経は高い所に登り、
伊勢三郎義盛は低地に潜んで見張番をし、二人とも眠らず夜を明かしました。
一方、平家方は能登守教経を大将に夜討ちの支度にかかりますが、
誰が先陣を受けもつかをめぐって侍大将同士が争っているうちに夜が明けてしまい、
平家の船団は庵治半島を東に周って志度湾へ続々と移動しはじめます。
『平家物語』は、「夜討ちをしていたなら、源氏はひとたまりもなかったであろうに。
攻め寄せて来なかったのは、よくよく源氏の運が強かったのであろう。」と語っています。
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『アクセス』
「船かくし」高松市庵治町155番地7
ことでん「舟かくし」バス停徒歩3分 バスの本数が少ないのでご注意ください。
ことでん「八栗駅」より徒歩約50分 「景清の錣引き跡」から36号線を北上しました。(30~35分)
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
角川日本地名大辞典「香川県」角川書店、平成3年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
ここにも義経の強運が有りますね。
いくら猛者でも熟睡していれば、赤子の手を捻るより容易い事。夜討ちは、奇襲なので、たとえ起きたとしても、寝ぼけて慌てふためく事になりますもの。
海戦を予想し船隠しに戦略拠点を設けた平家の裏をかいた義経。彼の強運と平家の戦略の不味さが、滅亡を早めたのでしょう。
この夜、平家が夜襲していたら小勢の上、連日の戦闘で
疲れきっている源氏勢はひとたまりもなかったでしょうに。
それが分かっているだけに、平家の先陣争いがすごかったのだと思われます。
絶好の機会を逃してしまいました。平家には少しもいいところがありません。
百二十句本も「夜討にだにもしたりせば、源氏はその夜滅ぶべかりしを、
平家の運のきはまるところなり。」と記しています。
海から攻めてくると準備をしていたら陸側から攻め込まれ、慌てて戦もせずに海に逃げる羽目になり、思いのほかの小勢だったので逆襲しようと夜討ちの準備をしながら、先陣を受け持つかどうかで争ってみすみす絶好の機会を逃してしまう…勝てる戦の筈がなぜか何もかも食い違って毎回毎回敗戦へ動いてゆく戦局では平家方の公達が世を厭う気持ちが起きるのも仕方ない気がしますね。
「源平盛衰記」によると「扇の的を源氏に射させたのは、
厳島神社の神主から贈られた扇に平家は合戦の勝ち負けをかけ、
的射の結果、平家は前途が暗澹としていることを感じとった。」とあり、
それでなくても弱腰の総大将の宗盛には、
先陣の指名争いの決断が下せなかったようです。