平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




洲崎寺は檀ノ浦の入江の東にあり、対岸には屋島があります。
一帯が源平屋島合戦の舞台となったため、寺は戦火に巻き込まれ、
堂塔伽藍は焼け落ち、本尊と不動明王像だけがかろうじて焼け残ったという。
その時、教経の強弓に倒れた佐藤継信の遺体が本堂の扉に乗せて源氏の本陣まで
運び込まれています。その後、再興されるも長宗我部元親の軍勢により再び焼失し、
元禄12年(1699)、四国八十八ヶ所霊場八栗寺の願いにより再興されました。
その百年近く後の開帳の際に因幡鳥取藩の由井蔵主が継信の遺骸を運んだ
古い扉を送ってきたと『続々讃岐国大日記』に記されています。
継信の念持仏水月観音は洲崎寺に寄進され、継信の菩提寺として、
毎年3月19日に慰霊法要が行われています。

当寺は四国遍路を庶民に広めた真念法師の墓があることでも知られています。
また、檀ノ浦一帯を測量した伊能忠敬一行がこの寺に宿泊しています。

弓流し跡から北へ進みます。

五剣山の西方、牟礼浜にあります。



山門

ことでん洲崎寺バス停横にあります。

「屋島檀ノ浦の戦い」を表している庭園

本堂


鐘楼

源平屋島合戦の模様を描いた石造りの説明板



合戦のあらまし
①寿永四年二月十八日 義経率いる源氏軍は阿波勝浦に上陸する。

②平家方の桜ノ間城を攻め落とす。 
③源氏軍は淡路の江田源三ら約三十騎と合流する。
④大坂峠で平家の使者を捕える。  
⑤大内町丹生から二隊に分離する。本隊は内陸から、別隊は海岸沿いから屋島に迫る。
⑥十九日朝、屋島に到着する。別隊も合流し平家に攻め入る。
⑦那須与市ら約三十騎、赤牛崎(あかばざき)を経て安徳天皇社を焼き払う。
⑧あわてた平家は舟に乗り移り、海へと逃げる。
入り江に浮かぶ平家の舟軍と浜辺の源氏軍の戦いとなる。
⑨平家の勇将教経が総門に上陸し弓矢戦となる。
この時、源氏の勇将佐藤継信が義経の身代わりとなり討死する。
⑩夕刻、源氏勢は瓜生ヶ丘に陣を敷く。
⑪明けて二十日、当地近辺で戦いはせめぎ合いとなる。
[扇の的] [錣引き] [弓流し]等の話はこの時の出来事である。
 ⑫翌朝平家は海を越え源氏勢の背後から攻める。
義経はそれを察し、志度寺辺りで平家を打ち破る。
⑬平家は戦いに敗れ、屋島をあとに西海に落ちていく。


◆③江田源三は義経の家来。 ④義経は大坂越の難路を通って讃岐に入る途中、
屋島へ向かう文の使いを捕えます。京の女房から屋島の宗盛への手紙で、
「義経はすばやい男ですから、暴風雨に紛れて攻め寄せましょう。
十分ご用心なさいませ。」とあり、渡辺の津に源氏が船揃えしたことを知らせるものでした。

源平合戦 屋島檀ノ浦の戦い
平安時代末期 寿永二年(一一八三)七月、木曽義仲に敗れた平家は、幼帝・安徳天皇を奉じて、
六万寺と屋島檀ノ浦(安徳神社)の地に陣を布敷き、勢力の回復をはかり、
源氏軍の襲来に備えていた。時に、寿永四年(一一八五)二月十九日、平家追討の命を受けた
義経率いる源氏勢はわずか百五十騎で数千を超す軍団が守る屋島に攻め込んだ。
思いもよらぬ陸路からの急襲に慌てた平家は、辛うじて舟で沖へ逃げた。
そして、戦いは、沖の平家と陸の源氏による弓矢の合戦となった。
この戦いは、数々の英雄と悲劇を歴史に残した[佐藤継信の討死]
[扇の的]・[錣引き]・[弓流し]等、数多くの話と史跡が今に伝えられている。

※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「洲崎寺」高松市牟礼浜北地区 ことでん八栗駅より徒歩約12分 
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
鬼ヶ島とは (自閑)
2016-03-13 10:24:59
sakura様
流石石材の町ですね。石板の説明書きが、当時の様子がよくわかりますし、末代までも残ります。
周りの石材屋さんから沢山の寄進があったのかも?
石絵に「鬼ヶ島」とあり、桃太郎の岡山の伝説が、香川にも伝わった?かと。(笑)
 
 
 
お察しの通り... (sakura)
2016-03-13 15:42:26
屋島でgetした観光案内のパンフレットにも、
岡山の伝説が香川に伝わったと書いてあります。
鬼ヶ島には、鬼が住んでいたとされ、観光スポットになっています。

説明板は美しい光沢をもった気品のある石造りです。
五剣山山麓から庵治(あじ)石という黒雲母花崗岩が産出され、
特に粒子の細かい細目(こまめ)石は、とても高価だそうです。

 
 
 
Unknown (yukariko)
2016-03-15 21:41:15
百年近く後の開帳の際に因幡鳥取藩の由井蔵主が継信の遺骸を運んだ古い扉を送ってきた…遺品とかでなく、扉なのに100年近くも大切に、言い伝えと共に保存されていたのが凄いですね。

「むれ源平石あかりロード・源平の古戦場」の分かりやすい地図や「合戦のあらまし」は丁寧で親切であまり詳しくない者にもよく分かります。

箇条書きにされているので理解しやすいです。
それにしても④の「使者を捕える」は義経の運の強さを表わしていますね。
この使者が無事に平家方に到着していたら…『たら・れば』は言ってもせんない話ですがまた戦の形が変わったかもと説明文を読む者は思ってしまいますね。3433

 
 
 
そうですね! (sakura)
2016-03-17 09:34:34
④の「使者を捕える」は義経の運の強さを表わしています
②平家方の桜ノ間城を攻め落とす。も同じです。

義経軍は阿波から屋島に行軍する途中に田口成良の弟
良遠の桜ノ間城を攻めました。良遠は城を捨てて雲隠れしてしまいましたが、
この時、良遠が屋島に「義経が阿波まで進軍してきている。」と知らせたなら…

洲崎寺は乾元3年(1302)焼け残った本尊と不動明王を和歌山市に移して再興し、
蘆辺寺と称したと「新選讃岐国風土記」「紀伊続風土記」に記されています。

どういう経緯で因幡鳥取藩の由井蔵主のもとに遺骸を
運んだ扉があったのかは分りませんが、
屋島合戦から600年余りもこの扉が保存されていたということになります。

屋島の合戦では、後世にまで語り継がれる数々のエピソードが生まれました。
須崎寺を参拝した人に分かりやすいように、
エピソードごとにその模様を刻み説明文が添えられています。
 
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