平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都国立博物館の中庭に建つ馬町十三重塔は、
かつて渋谷越とよばれた街道沿いにあり、継信・忠信の墓と
いわれていました。石塔は昭和十五年(1940)に
所有者佐藤氏の依頼で川勝政太郎氏
立会いのもと解体され、現在の十三重塔の姿に復元されました。

南塔には、永仁三年(1295)二月、願主法西(ほうせい)の
銘がありましたが、願文はなく二基の
十三重石塔が造られた目的は明らかにされていません。
しかし継信・忠信は義経に従い戦死しているので、
鎌倉時代の永仁では年代があわないこと
や塔内に納められた多数の
金銅仏などから、
法西が願主となり多くの助成者とともに何らかの目的で
鳥辺野墓地近くに建立された供養塔のひとつであることが判明し、
この石塔は戦後すぐに馬町から撤去されました。
現在、その旧地を示す佐藤継信・忠信塚が渋谷通り沿いの
路地入口にたち、奥には佐藤継信・忠信の墓があります。

路地入口にたつ「佐藤継信忠信之塚」

背面に刻まれた文字は、かなり風化し読みとりにくいのですが、
昭和2年3月 佐藤政治郎建立 」と彫られています。

安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には、
十三重塔を「継信忠信塔」とし、上部を欠損した塔の
挿絵が載せられ、周囲を石垣で固めた高さ2メートルほどの
塚の上に二基の石塔が並んでいる様子を描いています。

『都名所図会』には、「継信忠信塔 佐藤氏の兄弟は
忠肝義膽の人にして
漢乃紀信宋の天祥にもおとらざるの英臣也
美名後世にかゝやきて武士たらん人ハ慕ひ
貴むへき也 此石塔婆葉昔ハ十三重より星霜かさなりて
次第に崩れ落 今ハ土臺の廻りの圍あり」と書かれ、
佐藤兄弟の忠義ぶりは武士の鑑であると讃え、
この石塔はもとは十三重塔でしたが、月日を重ねるうちに
いつの間にか崩れ落ち、落ちた石が塚周辺の
石垣に使われていることを挿絵とともに伝えています。

佐藤継信・忠信兄弟の子孫と伝えられていた佐藤政養氏は、
二基の十三重の塔があったこの土地を購入し、明治6年、
十三重石塔の横に佐藤継信・忠信の墓碑を建て、同9年には
父佐藤文褒翁の功績を顕彰した顕彰碑を建立しました。
さらに明治10年に政養が亡くなると、翌年遺族により
この地に佐藤政養招魂碑(題額勝海舟)が建てられ、
昭和2年には、佐藤政治郎により、十三重石塔および
政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚が建てられました。

 佐藤文褒翁顕彰碑と佐藤政養招魂碑(左側 碑文は剥落しています。)



佐藤政養は文政4年(1821)に出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ、
寛政元年(1854)、江戸へ出て勝海舟の門に入りました。
海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び、のち海軍操練所では
教授方にとりたてられ、勝海軍塾では塾頭を務めました。
明治維新後は新政府に用いられ、国内初の新橋-横浜間の
鉄道敷設に尽力し、以来日本の鉄道建設を技術面で支えました。

政養招魂碑の周囲にある玉垣は、政養の塾で学んだ
塾生たちから寄進されたものです。

佐藤政養の出身地、山形県佐藤政養先生顕彰会(遊佐町役場内)は、
平成25年(2013)に関係碑の敷地を買い取り、周辺を整備しました。
(説明板の文面を要約させていただきました。)

佐藤兄弟の兄継信は屋島合戦で、義経の楯となって戦死し、
八坂本系『平家物語』、『義経記』には、弟忠信は吉野山中に
逃げこんだ義経一行が吉野山の衆徒に背かれた時、
自害しようとする義経の身代わりとなって奥州から連れてきた
手勢数人とともに、二、三百人の僧兵相手に奮戦しました。
のちに京都の馴染みの女に裏切られて鎌倉方に密告され
北条義時勢に襲われたことやその壮絶な最期を紹介しています。
この兄弟の義経に対する忠節は、のちに謡曲『忠信』、
歌舞伎『義経千本桜』となり世に広く知れ渡りました。


現在の馬町交差点は渋谷越の通る小松谷の入口にあり、
東国への交通路として軍事上も重要視されていました。
清盛の嫡男重盛の邸は、この交差点辺から
小松谷(現正林寺辺)にかけてあったとされています。
渋谷越(現渋谷通)は苦集滅道(くずめじ)ともよばれ、
後に政治の実権を武家から天皇に取り戻そうとする後醍醐天皇の
命を受けた軍勢に鎌倉幕府の六波羅探題府が攻められて壊滅、
北条政権崩壊の引き金となった時、
六波羅探題府を出た北条仲時以下
400人の軍勢が鎌倉目ざして敗走した道筋がこの街道でした。
北条勢は街道沿いに聳え立つ巨大な石塔を
目に
ながら落ちて行ったはずです。
近江の米原近くで一行は蜂起した野伏に囲まれ自害しました。
馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信)  
屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
『アクセス』
「佐藤継信・忠信の墓」 京都市東山区渋谷通東大路東入北側常盤町

 市バス馬町下車2分 馬町商店街の「京都とうがらしかむら」横の路地を入ります。
『参考資料』
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社、2007年 
五味文彦編「中世を考える 都市の中世」吉川弘文館、平成4年
高橋昌明編「別冊太陽 王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年
竹村俊則「京の墓碑めぐり」京都新聞社、昭和60年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
徳永真一郎「物語と史蹟をたずねて 太平記物語」成美堂出版、昭和53年

 





コメント ( 4 ) | Trackback (  )


« 馬町十三重石... 平景清伝説地... »
 
コメント
 
 
 
刻まれた文字が消えても (自閑)
2016-05-12 05:39:47
sakura様
この碑も近所の人すら知らない可能性が大きいですね。細い路地を入っていく観光客は、皆無かと思います。
石塔の本当の意味は失われ、場所が変えられても、その跡を残そうと云う者がいて、その残そうとした者の功績を讃える碑文が建てられ、その碑文は失われても、100年後に金属プレートでその意味を残す。そして、それを広く紹介するsakura様がいらっしゃる。
屋島でもそうでしたが、佐藤兄弟は、末代までの誉を得たと云うことですね。
 
 
 
留守にしていました。 (sakura)
2016-05-14 08:09:32
自閑さま
お返事が遅くなってすみませんでした。

近所の人にも知られていない。
その通りのようです。佐藤兄弟の墓は路地入口から
9メートルほど入ったところにありますが、
辺りには近所のお店の段ボールがいくつも置かれていたので、片づけてから撮りました。
二人の名前をご存知ないのかと。

継信は義経の楯となって屋島で戦死しましたが、弟の忠信は
吉野山で義経を落ちさせた後、花矢倉で献身的な働きをする姿が印象的です。

ちょうど義仲に対する今井兼平兄弟に見るような奉仕ぶりです。
しかし、兼平らと義仲は乳母子です。
佐藤兄弟がこれほどまで義経に肩入れした背景について、
上横手雅敬氏は「義経の妻が佐藤氏の出であったことが考えられる。」と指摘されています。

 
 
 
義経と弁慶しか一般人は知らないのでしょうね。 (yukariko)
2016-05-14 16:03:20
義経主従の逃避行伝説が各地に残っていますが、それ以外にも忠臣がいた事、その最後が壮絶だったことなどをこの記事で知りました。
その後世の一族が顕彰碑を建て、その子がその場所を保存して世の人々に知らしめようとされた…それをまた現代の人間が教えられて、歴史の狭間の出来事を知る人が増える、顕彰碑の意味はあった訳ですね。

本当に京都の町には小さな碑、石柱も長い歴史を語る大事なゆるがせに出来ない大事な証拠の集積地ですね。
 
 
 
アウトロー出身者が多い (sakura)
2016-05-15 08:28:26
佐藤兄弟の父親は奥州大武士団の長、いざとなれば
500騎ほどの軍事力を動員できる相当な実力者です。
しかし、義経の郎党には出自不明の者や山賊や僧兵あがりの者が多く、
田口教能の陣に乗り込んで教能を欺いて降伏させた伊勢三郎義盛の経歴も諸説あり、
山賊の出ともいわれています。このようなことからも
義経郎党の名は知られてないのかと思います。
古典芸能ファンは、弁慶とか佐藤兄弟の名はよくご存知でしょうが。


 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。