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文治元年(1185)2月、屋島の陣を捨て志度湾に軍船を移した平家軍は、
志度道場(現、志度寺)に陣を布き、源氏勢と志度道場(現、志度寺)から
志度湾にかけて戦いを繰り広げましたが、船をもたない源氏軍は、
海上の平氏に決定的な打撃を与えることができませんでした。
平家は伊予攻めに行っていた田内教能3000騎を待っていましたが、
教能は屋島へ帰る途中、源氏の調略にかかって降伏してしまいました。
頼みの綱を絶たれた平家一門は、
瀬戸内海を転々としながら長門国彦島へ落ちていきます。
『平家物語』は、「讃岐の志度を出で給ひて、船にこみ乗り、風にまかせ、
潮に引かれて、いづくいともなくゆられ行くこそ悲しけれ」と綴っています。
志度合戦(田内教能降伏)
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駅前の国道を横切って北へ進み、志度合戦の時、
平氏が陣を布いた志度寺に向かいます。
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やがて寺町通りと交差します。
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平家が籠った志度寺は志度湾に面した志度の東にあり、
四国霊場第八十六番札所として知られています。
信濃の戸隠、駿河の富士、土佐の室生門とともに讃岐の志度道場とこそ聞け。と
『梁塵秘抄』に謡われ、平安末期には都にも聞こえた観音霊場でした。
寺伝によると、推古天皇の時代(7C初期)開基とし、その後、藤原不比等が妻の墓を建立し
「死度道場」と命名、その息子房前の時に堂宇を拡張したとしています。
しかし、寺地や伽藍配置などから実際は平安時代初期の創建とされています。
屋島源平合戦で戦死した佐藤継信の経供養の僧を当寺から招いたという伝承があります。
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志度は平賀源内が育った町です。
志度寺の塔頭の一つ、常楽寺の境内に平賀源内の墓があります。
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寺域は広大で約1万坪もあります。
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高松初代藩主高松頼重寄進の仁王門(重要文化財)
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高松初代藩主高松頼重寄進の本堂(重要文化財)
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大師堂は巡礼者があげるお線香で煙っています。
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志度寺は伝説に彩られた古刹です。
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木々に覆われた20基の五輪塔は、海女の墓と伝えられていますが、
高い丸太で囲まれ立ち入ることができません。
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志度寺参拝の折に詠んだ高浜年尾の句碑 ♪盆に来て 海女をとむらふ 心あり
「高浜年尾(1900~79)は虚子の長男。年尾は正岡子規が名づけた本名です。
この句は昭和27年9月5日(旧盆16日)志度寺参拝のおり詠んだもの。」
(現地説明板より抜粋しました。)
藤戸合戦古戦場でも高浜年尾は
♪経ケ島 秋の下闇 深かりし と詠んでいます。
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『アクセス』
「志度寺」さぬき市志度町志度1102
ことでん志度駅、JR高徳線志度駅下車徒歩7、8分
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
「四国八十八ヶ所Ⅱ」小学館、2002年
風にまかせ、潮に引かれて、いづくいともなくゆられ行くこそ悲しけれ」
本当にその通りですね。
ほとんどの四国や九州の武士たちは平家を見限るはずです。
田口教能の父、田口重能の動きも気になります。
藤原不比等妻の墓、その息子房前と万葉集や懐風藻の世界に伝説は遡るので、大変興味を持ちました。
房前が、藤原北家の繁栄の基礎を築いていくのですね。
平家にとってはこの志度が、滅亡への決定打となってしまうのも、やはり縁です。
藤原氏が台頭し、権力闘争がはじまったのですね。
不比等の子、藤原四兄弟は妹の光明子を皇后にしようと画策し、
長屋王を自害に追い込みました。
昔、王が眠る小さなお墓の前で胸を熱くしました。
志度寺にはがっかりしました。志度合戦のことはどこにも書かれていません。
この合戦は小競り合い程度だったようですから、無理もないのですが。