平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




都落ちした平家一門は一旦、大宰府まで落ちのびましたが、
緒方惟義(これよし)に九州を追われ、西海を漂っていたところを、
平家が頼りにしていた阿波最大の豪族
阿波民部重能(しげよし)のはからいで、屋島に陣を布きました。

文治元年(1185)2月の屋島合戦で、平家軍は陸地から攻撃という
予想外の義経の奇襲攻撃に屋島の内裏を捨て海上に逃れました。
敵は瀬戸内海から攻めてくると思い込んでいた平家は、
入り江に兵船を停泊させて、海からの攻撃に備えていたのですが、
それを義経は見事に欺きました。
水軍をもたない源氏軍は、屋島を攻撃するのに海上正面より向かわず、
屋島背後に回り込み、急襲する方法を選んだのです。
平家が敗れた原因の一つは、平家を支えていた阿波重能の軍勢の
多くが重能の息子・田内(でんない)左衛門教能(のりよし)に
率いられて伊予攻めに行っていて留守だったことです。

平家が屋島で敗れたと聞くと、平家側についていた
瀬戸内海周辺の豪族たちは、こぞって源氏軍に寝返ります。

屋島を敗退した平家は、五剣山の岬を東にまわって志度浦に上陸し、
讃岐国の志度道場(現、志度寺)に籠りました。
要請に応じない伊予(愛媛県)の河野通信を攻めに行っている
田内左衛門教能の主力部隊3000余騎がもう戻ってくるはずですから、
源氏を志度浦に誘い込み海と陸の双方から包囲する作戦です。

平家を追って源氏軍は80騎の兵を率いて志度浦に至り攻めかかりますが、
平家はこれを見て「敵は小勢だ。討ち取れ」と1,000余人が攻め戦いました。
そのうち源氏勢200余騎が駆けつけてくると、後詰めに大軍が続いてくるとみて、
平家は再び海上に出て彦島へ退きました。

当時、知盛(清盛の4男)は一の谷合戦後、長門の彦島に砦を構え、
平家勢は東の屋島と西の長門に二分されていました。
一の谷で惨敗したものの、
屋島と関門海峡を押え瀬戸内海の東西を掌握する限り、
平氏に勝機はあると知盛は踏んでいたのです。

志度浦で首実検をした義経は、田内教能軍が戻ってくれば、
兵力の点でこれとまともに戦えないと考え、
阿波民部(田口)重能が壇ノ浦の戦いで平家を裏切り、
結果的に源氏勝利の一因となるある作戦を立て、
郎党に策を授け教能の許に遣わしました。

これを『平家物語』は、次のように語っています。
義経は「教能が今日あたり志度浦に到着するはずである。
その軍勢をなんとかしろ。」と口達者な伊勢三郎義盛に命じたのです。

義盛は白旗を掲げ、たった16騎を引連れ、しかも丸腰で3000騎の
教能軍に乗り込みました。「すでにお聞きおよびでございましょうが、
昨日、屋島の平家の陣は判官(義経)殿によって陥落しました。

安徳天皇は入水、宗盛殿は捕虜、能登殿はご自害なさいました。
あなたの父阿波民部重能殿は義盛がお預かりしております。」などと
嘘ばかり並べ立てて降伏を迫ったので、教能はまんまと騙され、
3000余騎の兵とともに兜を脱ぎ弓の弦をはずして
義経の軍門に下りました。教能がいとも簡単に騙されたのは、
屋島での戦況をうすうす知っていたからだと思われます。

こうして、義盛は持ち前の度胸と弁舌をふるい田内教能の
軍勢を戦わずして捕虜にしてしまったというわけです。

『吾妻鏡』文治元年2月21日条には、平家は讃岐国志度道場に
引き籠り、義経は80騎の兵を率いてこれを攻め、
平氏の家人田内教能が義経に帰服したこと、伊予水軍の河野通信が
30艘の兵船を率いて源氏に与したこと、熊野別当湛増も源氏に
味方するため渡海するとの噂が、京都中に流れたことが記されています。

この記事から、志度道場に陣を布いて復活のシナリオを描いていた平家は、
熊野水軍・伊予水軍などの有力水軍が源氏に加わったという情報や
田内教能の降伏に自信を失い、とても勝ち目はないと判断し、
志度浦から兵を引き、知盛勢と合流しようと
海上を西へ向かって敗走していったようです。
志度寺(志度合戦ゆかりの地)  
松ヶ崎義経12本松(志度合戦ゆかりの地) 
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年 安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
 角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年






コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
勝ちそうな方に味方するのは世のならい (自閑)
2016-04-24 11:08:14
sakura様
伊予の豪族や田口教能の3000騎など、義経軍が小数とは思わず、義経軍に編入されてしまう。
勢いを持った軍には、どんどん勢いがついて来るものです。
水軍を手にし、いよいよ壇之浦へ向かって行くのですね。
しかし、梶原景時はこの時の屈辱から頼朝への讒言となり、義経崩壊の兆しが始まったとも言えますね。
 
 
 
義経の宿敵 (sakura)
2016-04-24 15:51:13
自閑さま
逆櫓・壇ノ浦合戦では、義経と景時は同士いくさになりかけ、
二人の亀裂は決定的になりましたね。
合戦後、義経の鎌倉入りに先立ち、景時は頼朝に讒言します。

後世、判官ひいきが広まったことから、景時は義経・頼朝兄弟の不和、
義経失脚の原因をつくったとされ悪評高い人物です。

 
 
 
時の流れが源氏に向かって滔々と流れ始めているのをひしひしと感じていた? (yukariko)
2016-04-26 17:54:45
教能がいとも簡単に騙されたのは、屋島での戦況をうすうす知っていたからだと思われます…とお書きのように

歴戦の戦人がいとも簡単に騙された…周りの武将達へのポーズもあるでしょうから、ころっと騙されたふりで下って源氏側、勝ち戦の側に付いたのでしょうね。

田口教能の旗下の武将たちが『おかしい、そんなはずはない!』と抗弁せずに降参する彼に従ったのもそういう事でしょう。
世の中の勢いがもう源氏に向かって滔々と流れ始めているのをカンだけでなく、詳しい情報をも掴んでいたのかも。
三千の軍勢だって、おのおの、一族郎党を養っていかないといけないのだから利害には敏感でしょうし。
 
 
 
そうとも考えられますが… (sakura)
2016-04-27 14:45:09
教能が源氏に降伏したことについて、このブログのテキストに使用しています
「新潮日本古典集成」の頭注で、水原一氏は「伊勢三郎があらかじめ謀者を放って
噂を流させていたと理解すべきであろう」と述べておられます。

義盛は間者にでたらめな噂を流させておいてから、
白装束ということは非武装姿で教能の前に現れて安心させ、
舌先三寸で騙したようです。
3000騎の敵陣に16騎みな刀を持たずに乗り込むとは大した度胸ですね。


 
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