平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






瓜生(うりゅう)が丘は屋島にいる平氏を攻めるため、義経が陣を張った場所です。

鎌長製衡株式会社のすぐ近くに瓜生が丘(宇龍ヶ岡)の碑があります。


牟礼川と鎌長製衡工場の塀沿いの道を進みます。

向こうに見える携帯電話の鉄塔が建っている小高い丘を瓜生が丘とよび、
源氏軍の陣は、この丘から長刀泉・菜切地蔵堂辺まで布かれていたと推定されています。

工場の東に「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑が立っています。 
義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信が運びこまれた場所です。

六万寺の方向から見た瓜生が丘。現在は田園地帯の中にあります。

鎌長製衡の工場西には、弁慶が食事の用意のために掘った長刀泉が残っています。



長刀泉は弁慶が長刀の石突きで掘った井戸。弁慶の力自慢のエピソードです。
「菜切地蔵」、「瓜生が丘」の周辺にあることから、源氏軍の陣跡と考えられています。
説明板からは、辺りは海辺だったので飲料水に苦慮した様子がうかがえます。







JR線路の南側、菜切公民館の北の丘の上には、菜切地蔵堂があります。


地蔵堂の中央に地蔵菩薩、右側に室町時代以後の作と考えられる五輪塔、
左側に十一面観音の石彫を安置しています。
十一面観音、地蔵菩薩とも最近の作品で、
土地の人は右側の五輪塔を地蔵と呼んでいます。



弁慶が石地蔵の背中をまな板がわりにして長刀で野菜を切ったと伝え、
この辺一帯の集落を今も菜切とよんでいます。
長刀泉、菜切地蔵ともに遠い昔の伝説です。

『平家物語』の中で、弁慶は義経を守る従者の一人として記されているだけで、武勇伝は
ほとんど語られず、佐藤兄弟や伊勢三郎義盛に比べて、存在感の薄い人物として描かれています。
『源平盛衰記』によると、義経勢が屋島に向かう途中の金泉寺(徳島県板野町)で、
義経が「誰か講式読むべき」というと、弁慶が高座に昇って仏前にあった観音講式を
大音声で見事に読みあげており、文武に秀でていた人物であったことが知られます。
弁慶が注目されるのは、平氏の滅亡後、義経が頼朝に追われる身となってからです。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「宇龍ヶ岡の碑」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡の東南 JR古高松南駅より徒歩7分
ことでん八栗駅より徒歩12分 

「菜切地蔵堂」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡の南西 JR古高松南駅より徒歩5分 
「長刀泉」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡工場の西  JR古高松南駅より徒歩3分
『参考資料』
上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂、2004年 
奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
 「香川県の地名」平凡社、1989年 「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年

 

 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
弁慶伝説の宝庫ですね (自閑)
2016-03-21 14:17:29
sakura様
義経と共に、弁慶伝説ほど多様に富んだものはないですね。
泉を掘ったり、菜を刻んだり。
弁慶が人々に愛されているキャラクターだからこそかと。
確証が全く無いから伝説なんだと。
拙句
七草も七つ道具でたんたとん
 
 
 
そうですね! (sakura)
2016-03-21 17:23:23
義経といえば弁慶と義経を扱った作品では欠かせない人物で、
能や歌舞伎の世界では豪華キャラとして大人気です。
絵画でも、長谷川等伯が堀川館夜討ちの章段を
「弁慶・政俊図絵馬」、荒波が弁慶に襲いかかる大物浦の場面を
「月百姿 大物海上月 弁慶」として月岡芳年が描いています。

弁慶は義経に出会ってから最後まで仕えたとされていますが、
「平家物語」では、重要人物だったとは思えませんし、
歴史上はほとんど謎に包まれていますね。
しかし、「義経記」は弁慶の大活躍の様子や忠臣ぶりを詳しく伝えています。

以前、自閑さまに教えていただいた如意の渡しも
「義経記」の世界でしたね。

 
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